アメフトと略さないで!

 アメリカンフットボールの事件の報道に、いやんなっちゃった。「……というのが真実です」とコーチが言った。真実はあんたが決めることじゃないよ、「事実」でしょ?!

 

 会見を打ち切ろうとした広報担当もえらそうだけど、会見の記者の質問もひどいね。なんも勉強してない。ところで新聞社や通信社OBで大学なんかに天下り?してる人間も多い。その辺の実態を探る報道なんてできないのか。官僚もマスコミも一緒か。

 

 テレビのニュースなんかで「アメフト部」というのは、なんだかなあ。略さずちゃんと「アメリカンフットボール部」と言ってほしい。2秒も違わないでしょ。

 

 (反則プレーを)指示した、しないはどうでもいいんじゃない? そこまで選手を追い込んだ、追い詰めたのは指導者の責任でしょ? というか選手のプレーの責任は指導者にあるんじゃないの? 刑事事件としては監督の責任は問えないとか、関係ない!

 

 昔、上司に日大OBがいて、部下に東大OBがいてこいつができないヤツで、上司がいつも怒鳴りつけていた。日大がんばれ!

 

 関西学院大がんばれ! 日体大もがんばれ! 


息が粋だね

 昨夜のNHKEテレ「スイッチインタビュー」はおもしろかった。文楽の六代目竹本織太夫さんと中川家礼二さんの対談である。織太夫さんが礼二さんのファンで、ぜひにとリクエストしたとのこと。異なるジャンルの話芸の達人同士、話は示唆に富んでいた。

 

 織太夫さんが言っていた。自分のブレス(息)でやってはだめで、役の人物のブレスでないと、と。そして、人形、三味線とともに語りで観客の呼吸を支配することが目標だ、と。礼二さんに対しては「名もなき人々」の真似をするところがいい、と。

 

 いき、という言葉、大事だね。息、意気、粋、生き、行き、域、活き、閾、位記、そして逝き……か。人の一生だ。

 

 息、呼吸というのは話芸でもそうだが、書き言葉、文体でもそうだ。これのだめな、息苦しい文章がいかに多いことか。

 

 で、今朝新聞の書評欄を読んだら、呼吸以前に、内容のレベルの低さに驚いた。本もだめ、書評もだめ。時代は深刻だ。最近どこかのブログかツィッターで、新聞が大量の木材を消費しているのに、資源やエネルギー問題について、よくいうよ、と指摘していたが、その通り。もう紙の無駄遣い、やめたら?

 

 


テレビと人間

 今朝のNHK「あさイチ」に樹木希林さんが出ていたが、司会者もメッセージ・質問を寄せた視聴者も、根本的に樹木さんという人を間違って認識しているのではないかと思った。「飾らない」とか「時間や何やに制限されない」「仙人のような人」とか。ご本人が怒るのではないかとハラハラしたが、よくこらえて一つ一つにていねいに答え、話していた。マネージャーがいないから時間の管理も大変だし、とか。あさイチに出るのも大変だよね。何にもしばられない、とらわれない生き方なんてできるわけがない。そのわずらわしさと、この人ほど葛藤し戦っている人はいないのではないか。「夫が嫌いです」という視聴者の相談には、その分相手もあなたを嫌い、と答え、「欠点のない人なんていない」と言っていた。スケールが違うんだよね。NHKやメッセージを寄越した視聴者に言いたい。「ボーっと生きてんじゃねえよ!」。

 

 感情移入って何だろうと思う。「あさイチ」の前、「半分、青い」を見ていて、ヒロインより豊川悦司さん演じる秋風羽織に同情してしまう。こんな弟子というか新入社員、がまんできないだろうなあ、と。これは演技力の差で、仕方ないのかなあ、と。誰かに同情とか応援とか思い入れとか、そんなのではなく、小説でいえば文体というか、それに乗って進んでいけるかどうかの問題。ヒロインがあまりにドジで無神経に見える。もしかしてキャスティングあるいは脚本の問題か。って話してたら、カミサンに朝ドラそんなに思いつめて見なくていいんじゃないの? と言われた。それもそうか。笑って見てればいいか。でも、たとえばストーリーでも、所詮ドラマだからフィクションだからと言っても、場面設定など無茶苦茶でいいわけでなく、最低限守られるべきリアリティってのはあると思うのだが。これも大人げないか。


木下忠司氏をもっとリスペクト

 ちょっと前だが連休の最初の頃、4月30日に作曲家の木下忠司さんが102歳で亡くなった。新聞の死亡記事で知ったが、「トラック野郎」の音楽もつくっていたのか。「水戸黄門」は知ってたけど。

 

 さっき「脳ベルSHOW」で、新聞のラテ欄のタイトルを隠し、そのタイトルを当てる問題があった。二谷英明氏ら出演者の名前ですぐわかった。「特捜最前線」だ。あの音楽も木下忠司さんの作品だった。オープニングのテーマミュージック、そして最後の「白い十字架」。チリアーノの哀切なヴォーカルがよみがえる。

 

 さらに思い出す。木下氏の作品でカンツォーネの女王といわれたミルバが日本語で歌った曲があった。とてもいい曲だった。タイトルを今すぐ思い出せない。調べるが、誰か知ってる人いませんか。

 

 それにしても、マスコミの扱い、小さく、少なくすぎないか。もっともっと取り上げられていい作曲家だと思う。氏は音楽というより映画音楽が好きなんだと言っていた記憶がある。あっちでいえば、エンニオ・モリコーネかな。

 

 あっ、ミルバが歌ったのは「二人の星」だったか、「夜空の星」だったか。絶対思い出してやる、調べてやる。


人間のプロはいない〜山崎努氏の言葉に感銘

 立ち読みは楽しい。思わぬ名言やインパクトのある言葉に接することがある。「サライ」に俳優の山崎努氏のロングインタビューが載っていた。

 

 氏は「人間はみなアマチュアだ。人間のプロはいない」という。思春期から進学、就職、結婚、出産、子供の成長・独立など、人生の節目、だけでなく出来事はすべて「初体験」であるという。人間は手探りで、試行錯誤でやっていくしかない、という。

 

 反論がありそうだ。結婚を二度した人はどうなのか。浪人して受験を二度した人は、就職を二度三度とした人は? でも、最初の結婚は一度だけである。受験も就職も。実際、一度だけだから人生の諸事をみんなすることができる。知らないということは強い。知っちゃったらあんな恥ずかしいこと、大変なこと、わずらわしいこと、できるわけがない。でもこの世には少なくとも恥ずかしさなんかを感じずに二度三度とできる人もいるらしい。

 

 挫折は何度もありそうだ。でも、こんな言葉を同じ誌面で見つけた。人生で試練があった時、それにがむしゃらに立ち向かわないで、脱力感でやり過ごす、そして、もしもこうなったらいいなあという願望をよわ〜く抱く。そうするとその願望がかなえられることがあるというのだ。

 

 これってわかるような気がする。いや、実際あった。なんだか神様や運に対する時も、作戦というか駆け引きが必要な気がする。目立たないように受け止めてやり過ごし、目立たないように希望を祈願するのだ。激しく、強く、大きな声・音を立てて、でなく、そうっと、さりげなく。


トントントントン宇宙の2トン

 昨日の鈴木大拙の言葉で、もう一つ思い出した。一番大きな言葉かもしれないのに、なんで忘れていたのか。ったくもう自分は。

 

 ----大拙がテーブルをトントンたたき(日野の2トンでない)、岡村さんに、この音をどこが聞いたかと問うた。岡村さんは、ただ「耳」というと違うといわれそうと思い、「全身」と答えた。大拙は、違う、全宇宙が聞いてそれが岡村さんに顕れたのだよ、と言ったという。----

 

 この辺は最新物理学にも通じそうだ。

 

 さて以下は山崎正和著「リズムの哲学ノート」の書評(安田登氏)から。

 

 ----そして「あらゆることは意欲でなんとかなる」という「自由意志の桎梏」に閉じ込められている私たちが、本当の意味で自由になるために、森羅万象に生成するリズムを体感しながら生きることを提案する。季節の変化を繊細に感じ取り、年中行事を丹念に営み、日常の些事を心を込めて行うことが、そうした感覚を研ぎ澄ましていくことなのだ、と。

 本書を読み終えて街に出ると、人波のリズムにも身体は共振し、自己が拡張していくのを感じられるだろう。----

 

 そう、リズムなのだ大事なのは。そして日常の些事。これは道元にも通じる。

 何事においても不調、うまくいかない時は、リズムに乗れていない、あるいは忘れている状態である場合が多い。時間、リズムを感じるような精神状態、なんら難しいことはなく、ただ感じればいいのだ。大森荘蔵氏は「時は流れず」と言い、時間はないのだ、意識はないのだと言い、そのことで自由を取り戻すことを逆説的に主張した。訓練すればだれでも二週間ぐらいでできるようになると書いていた。

 

 

 世界卓球選手権で国際卓球連盟はとんでもないことをやらかした。ルール破りの大会中の南北合同チーム承認だ。ルールに基づくというスポーツの根本を踏みにじった。平和のためにここはルールを変更して、というのはファシストの言いぐさであり行動である。スポーツの純粋性が政治の汚れた靴底に踏みにじられるのには怒りを覚える。

 

 日本女子も中国には勝てなかった。今朝のテレビで元全日本女子チャンピオンが「パワー」「回転」「スピード」の3要素を挙げて解説していたが、小生に言わせれば、というかあらゆるスポーツに言えることだが、「時間」と「空間」がいかに大事かということだ。中国との決勝でも、いやホントに中国選手に脱帽です。「時間」では、速い球だけでなく少し遅い球を交えて相手のリズムを微妙に狂わす。「空間」では前陣が多い中国選手でも、時には台から離れてプレーする。この辺が中国選手はうまい、すばらしい。ただ速いとか強いとか球のキレとかでなく、この辺が今後特に東京五輪への課題であり、これを克服すれば日本の金メダルはかなり見えてくると思う。

 

 それと選手のコメントで気になるのが「楽しんでプレーする(プレーできた)」の言葉だ。誤解されないかと思うんだよね。この「楽しんで」はもちろん飲み会やバーベキューなんかとは違うわけで、苦しい時もそれを上、外から別の自分が見ているような、楽しさに変える、というより楽しい側面にも気づきながら、ということだと思う。非常にストイックな楽しさ。ゲームをプレイ。修行を積んだ者だから味わえる楽しさ。だから簡単に言って、皆さんが理解できるような言葉、境地じゃないので。

 中国から日本勢で唯一の白星を挙げた伊藤美誠さんは、きっとこの楽しさを身につけ味わっていたのではないかな。


もう一度リンゴを

 テレビから聞こえる言葉で、こんなに一字一句に集中したことは久しぶりだった。NHK・Eテレ「こころの時代」で今日放送の(再放送だが)「大拙先生とわたし」だ。禅の研究で知られる仏教哲学者・鈴木大拙について、鈴木大拙記念館(金沢市)名誉館長の岡村美穂子さんが語る。ニューヨーク生まれの岡村さんの自宅に、鈴木大拙が寄宿し米国での活動の拠点にしていた。岡村さんは15歳の時に80歳の大拙に出会い、以来大拙の活動を支えた。録画ができない場所でたまたまチャンネルを切り替えていたら目にしたもので、記憶に頼らざるを得ないのだが、以下、印象に残った言葉を記す。

 

 ----自由とは仏教用語である。大拙が米国の人びとに説いたのは、西洋(キリスト教)の自由は、初めに何か不自由なものがあってそこからの自由。だが仏教の自由は「自ずからの由」の自由なのだ、と。

 

 ----大拙が「路上」などで知られる作家、ジャック・ケラワックらビート族(岡村さんの言葉=なんかひょうきん族みたい)、つまりビートニク、ビートジェネレーションの人たちと会話した際、西洋の自由とは腕の肘を逆方向に曲げるようなものだと説いた。それは痛いし、腕が使えなくなって不自由だ、というのだ。ケラワックは感心して聴いていたという。

 

 ----同じく米国のキリスト教徒たちに、エデンの園から追放されたアダムとイヴの話をして、禁断のリンゴを食べたから追放された、ではどうすればいいのか、と尋ねた。みんなわからないという。そこが苦しいところなのだと。すると大拙が言った。「もう一度リンゴを食べればいいのだ」と。

 

 このほか仏教における「無」「時空」「今」「現在」など興味深い話がいっぱいあって、全部は覚えきれなかったけど、時間の経つのを忘れるほど聞き入った。「もう一度リンゴを食べればいい」のところでは思わず笑ってしまった。普通の面白いとか可笑しいとかあるいは嘲笑でもない。不思議な笑い。でもなんだか救われるような気がした。勝手にリンゴを酒に置き換えたりしちゃって、もう一杯!とかはだめだろうなあ。15歳の時の岡村さんの写真が映し出されて、ホントにきれい。美少女とかいう次元を超えて、聖なる美しさだった。80歳を超えた仏教哲学者と聖少女……。妖しさを感じるのはゲスの極みだが、恐らくそんなゲス世界を超えた関係なのだろう。悟りの世界に歳(の差)は関係ないのだ。


ボストンを LOOK BACK

 昨夜、見るともなく見ていた「SOUL TO SONG」で、再放送だろうが、ボストン「宇宙の彼方へ」をやっていた。ボストンのCDは持っていないが音源はパソコンに仕込んであって、時々車でかけて聴いている。昨日の放送で興味深いことを聞き、なるほどと思った。

 

 それは、アルバムの制作はトム・ショルツが一人で楽器を弾き、ボーカルだけブラッド・デルプに歌わせ、多重録音でトムが一人でミキシングしてつくっていたというのだ。またギターの特徴的な音はトムがオリジナルのエフェクターを開発工夫してつくりあげたというのだ。その後、エフェクターを正式にどこかのメーカーで製造したという。

 

 トムはMITの秀才だった。当時ボストンの情報として、ハーヴァードだかMITだかの学生出身でインテリというのは聞いていた。卒業後は一時、ポラロイドに就職したらしい。

 

 そしてこの点。トムは多重録音に普通は必要なリズムボックスを一切使わず、テンポを手拍子で測っていたというのだ。そのことでかえって迫力が生まれ、一人の演奏なのに、複数人のバンドの演奏のように迫力が生まれたというのだ。

 

 これって意外に重要なヒントを与えてくれていないでしょうか。微妙なズレ、差異が「ナマ」的なサウンドを生む。デジタルに抗したアナログの持つ力。 そういえばマントヴァーニー・オーケストラはストリングスの演奏を何人かずつ、少しずつずらすことでエコーみたいな効果を出していた。

 

 ボストン(というかトム)のギターサウンドの特徴も、アコースティックがそのまま伸びるような音であることだ。ここで思い出すのは1960年代に日本でも人気のあったスウェーデンのバンド、スプートニクスだ。歪みのない、きれいな音のギターが中心だった。あのギターを弾いていたリーダーも確か工科系の大学出身だった。当時、恐らく初めてのワイヤレスのアンプを使用し、客席に下りて来ながら演奏がステージのアンプから聞こえてきた時は、おったまげた。

 

 トムは小さい時からクラシックが好きで聞いて育ったという。本人が「クラシックとロックの融合」なんてことを放送で言っていた。クラシックとロックの融合といえば初期のクリムゾン、イエス、ELPあたりが本家だろうが、クラシックにもいろいろあるから、ややポップ寄りということになれば、ウォーカーブラザース、ムーディブルースなども入るだろう。ボストンはどうか。ジャンルではハード、プログレ系でややポップ寄りということになるらしい。ま、ロックでいいか。

 

 トムは「記憶を純粋に全体的によみがえらせるのは音楽なのだ」といった意味のことを言っていた。やはり70年代のロックはいいなあ。「スモーキン」「アマンダ」なんかをまた聴いちゃった。

 

 ちなみにブラッドは自殺しちゃったらしい。あのハイトーンのヴォーカル、よかった。遅いけど、合掌。

 

 


村八分の対象探しの日本

 ある本の書評の中に、次のような言葉をみつけた。

 

 ----1970年代の歌謡曲「木綿のハンカチーフ」を聴くと著者の知人は泣くという。この曲は日本が農村から資本主義社会へ変わる時期を体現し、当時青年だった者には伝統社会を置き去りにしたことに「うしろめたさ」があったと書く。この逡巡が、彼らの世代のパッションの源流なのかもしれない。----

 

 もうちょっと前の箇所には「旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったもの」という言葉もあった。

 

 そうした日本の古い体質、イエやムラ社会を、果たして置き去りにしてきたのだろうか。表面的にはそうかもしれない。しかし一皮むくと、そんな深い所でもなく、すぐにそうしたものが見える、根強く残っていると思うのは小生だけだろうか。時代の先端を切り開くといわれた(今は誰もそう思っていない)マスコミも、結局は、「村八分」の対象を探すのに躍起となっているだけだ。

 

 パラリンピックのメダリストのインタビューを聞いて、思った。シンプルで率直で真摯なのだ。なぜか。健常者のオリンピックのメダリストたちが二言目、いや一言目にいうのは「支えてくれた人たちへの感謝」である。これがわずらわしい。それは言わなくても、当たり前のことじゃないか。

 

 パラリンピックの人たちは、そんなに言わない。自分のことが主だ。だからといって「支えてくれた人たちへの感謝」がないわけじゃない。むしろ大きすぎるのだ。個人としての主体性が強いのだと思う。それは苦しさを知ってるからだ。欧米のインタビューで「支えてくれた人たちへの感謝」「応援よろしくお願いします」といった言葉は出ないという。そりゃそうだ、やったのはその人だもの。ま、日本ではマスコミが強要してるんだね。

 

 テレビでは相変わらずグルメ番組が多い。最近のパターンは料理を口に入れた瞬間、顔をちょっとしかめるように、絶句して、それから何か言葉を発する。いい加減にしろ! といいたい。口に入れた瞬間、味がわかるようなものは料理ではない。ま、そんなのはわかってるでしょ、ご愛嬌ご愛嬌、といったところなのだろう。

 

 おいしい料理、食べ物に絶対的な基準はない。ないのに、あるフリをする。それほどまでに絶対的な基準が欲しいのだろうか。あるシチュエーションである人が供してくれた料理、といえないものでも、一杯のお茶漬けでも、食べる人には死ぬほどおいしいことがあるだろう。絶対的な基準がどうしても欲しい、というのは、新聞なんかがよく使う表現だが、軍靴の音がひたひた聞こえてくる、まさにそれではないか。新聞なんかとは180度違う方向から、それを憂う。というか嫌いだ。

 

 っていうか日本は昔から全然変わってないんだなあと思う。マイナスの意味で感心する。


真如の月を眺めあかさん

 テレビの平昌五輪メダリストに関する放送もようやく一段落したようだ。テレビだけじゃないが、会見だの報告会だの、同じようなのをなんであんなに何回もやらなくちゃいけないのか。選手の皆さん、疲れてるうえに同じこと何回も聞かれて、大変だろう。中にはもう次の試合に行く人もいる。なんであんなにインタビューしなくちゃいけないの? 意地汚いというか、むさぼり、しゃぶりつくすみたいな。昔の悪い男が女にとことん貢がせるみたいな。日本のいやな部分だ。

 

 と思ったら女子レスリングに関するパワハラ問題。いやんなっちゃう。でもスカッとしたのが、コメンテーターで出た長田渚左さん。実に明快! ズバッズバッと語ってくれる。で、感心したのが、知らないことについては「知りません!」「わかりません!」とはっきり言うところ。いよっ! 男前! ほとんどのコメンテーターは知ったかぶりばっかり。大体、そんな知識ないくせに、知らないことに関してどうしてあんなにコメントできるのか。テレビ局はおそらく視聴者目線、素人目線でというだろう。そんなの求めちゃいません。プロの、玄人のコメントが聞きたい。

 

 あ〜あ、テレビって。と思っていたら、テレビで視聴できることにも捨てがたいものもあるなあと思わせてくれたのが、昨夜Eテレで見た「玉三郎 歌舞伎女方考」。すごいね、驚異だね。「京鹿子娘道成寺」。玉三郎さんの舞台を流し、その後玉三郎さんが解説するのだが、ただの解説ではない。この世の不条理への恨み、娘が女になってしまったことへの恨みを表現しているのです、とか。

 

 さらに舞は詩である、とか、演じるものが観客に入り込み、観客との間で生まれるのです、とか。「娘道成寺」の言葉、「真如の月を眺めあかさん」には参った。今一番あこがれるのはこの境地だ。それにしても、玉三郎さんのあの舞、動き、相当な体力と鍛錬、研ぎ澄まされた感覚が必要だろう。フィギュアスケートなんて足元にも及ばない。

 

 歌舞伎は、梨園とかえらそうなところが嫌いだったが、その中で松本白鴎さんなんかはその辺わかっているような気はするが、いずれにしても、相撲と同様、実際以上に高貴なものにとらえられていると思っていたが、玉三郎さんは違います。詩であり芸術であり、それ以上のものです。もし玉三郎さんが、といっても誰でもいつかは必ずこの世を去るのでしょうが、同じような存在はもういない。それを思うと悲しい。でも今ハイビジョンで見ることができるのはうれしい。Eテレ、ありがとう。でも今度必ず、歌舞伎座で実物見たい。絶対見る。


calendar
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< May 2018 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM