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  • 2017.07.02 Sunday
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唯一者が風なくして呼吸

 中村元著「インド思想史」の最初の方に「リグ・ヴェーダ」についての記述があり、興味深い言葉があった。

 

 ----「リグ・ヴェーダ」に現れる神々の個性が不明瞭であり、かれらの間の区別が判然としていないので、すでに「リグ・ヴェーダ」の中に、諸々の神々は一つの神の異名にほかならないという思想が表明されている。

 

 ----古来の確固たる神々の信仰が動揺し始め、旧来の伝統的観念はもはや自明のものではなくなり、いまや新しい思索が始められた。「われらの祀るべき神は誰ぞ?」。そうして神々をも超越したより根底的な世界原理を探求するに至った。

 

 ----宇宙創造に関する当時の見解は、極めて大まかに分けるならば、大体二種に区分することができる。一つは宇宙創造を建造に比し、他は出生になぞらえるのである。

 

 そして、ここだ。この文言、表現にはなぜかぐっと、ざわっとくるものがある。

 

 ----「有に非ず、無に非ざるもの」を説く讃歌においては汎神論的思索は絶頂に達した。それによると、太初には無もなく有もなく、天も空もなく、死も不死もなく、夜と昼との区別もなく、暗黒に蔽われていた。「かの唯一者」だけが風なくして呼吸していた。宇宙万有は光明なき水波であった。その唯一者に意欲(kama)が現れた。それを原動力として万有を生起せしめた。神々も宇宙の展開より後に現れ始めたという。

 ことば(Vac)を最高原理と解する思想も現れている。ことばは太初において原水から生じたものであるが、あらゆる神々の保持者であり、万有を支配し、万有に偏在している。「自分が欲する者をバラモン・仙人・賢者とも為す」という。ことばの本性は経験論的知覚の領域を超越していて、「見つつある多くの人々も、実はことばを見ざりき。聞きつつある多くの人々も、これを聞かず。」----

 

 ロックでいえばYESやサンタナのジャケットにあったような、YESであれば「海洋地形学の物語」を思わせる。

 

 無もなく有もなかったのだ。そこに、唯一者の「意欲」が現れた。それは何によるものなのか。ひょっとすると退屈しのぎ、暇つぶしだったのかもしれない。どこかの女性教祖なら、愛、というのかもしれない。いずれにしろ、ここが二重の意味で出発点なのだと思う。そしてゴールか。


極限の想像力

岩木山夕景

 

 星占いに「想像力に際限はないことを認識すれば、すべての疑念が取り払われる」といった内容の言葉があって、なるほどと思った。想像力を極限まで推し進めてみること。打ち克ちがたい誘惑だ。現世を超え、宇宙を突き破る想像力。おそらく原始仏教なんかそんな感じなのだろう。禅宗でも道元なんかはその人の思想に魅力があるが、空とか無とかって果たして正しいのだろうかと最近疑問に思ってきた。何かすごい装置、からくりで、人は陥穽にはまってしまうのではないか。道元の深海を歩いて渡るみたいなイメージはすごく好きなのだが。いわゆる禅はなんだか。といって浄土系は生理的に受け付けない。古代インド思想史からまた勉強し直します。


素敵なメモリー

 なつかしの洋楽ヒットで、ジョニー・ソマーズの「素敵なメモリー」を聴いていたら、思い当たった。人間は過去をすべて、一つ一つ、記憶にしてしまうことができる。「素敵なメモリー」も「悲しい思い出」もあるだろう。

 

 だが実体験が残っているのではなく、記憶にしてしまっているのだから、何ということはないのだ。過去は、ない。ただ記憶があるだけ。これは人間の、生き延びるための、非常に都合のいい、一つの大きな能力ではないだろうか。

 

 実際の過去が今に残っていたら、生きていられないだろう。辛い、という意味でなく、物理的に。誰かの文章にあったが、地球は今現在の重みしか乗せて回っていない。過去の堆積した重みなどはない。

 

 地球は月という衛星があったおかげで重力などが絶妙に調整され、それで人間などという生物ができたのだという。古来、月を重んじてきた日本は、それをわかっていたのかもしれない。

 

 長寿の人は食生活がどうだ云々以前に、長寿の遺伝子を持っているという説もあった。でもそれだけでもないと思う。リズム、流れというか自然、地球、宇宙のリズムに乗って生きている人は長生きしそうな気がする。あるいはありもしない過去にとらわれないで生きている人。「素敵なメモリー」のノリで生きている人。「ワンモアタイム!」


弘前公園西堀の夜桜は絶景!

西堀夜景

 

 青森県弘前市の弘前公園は桜の名所だが、中でも西堀の夜桜は最高だ。天気が良く風もない夜。鏡のような水面に、照明に照らされた桜が映る。幻想的、妖艶、絶景、どんな言葉も足りない。この世のものとは思えない。見渡せる橋の上のスポットに来た人は、なかなか動かない。かなりの時間、見とれている。あっさり通り過ぎる人はまずいない。

 

 近くの演芸場では津軽民謡の生演奏をやっていて、じょんから節や津軽山唄が聞こえてくる。「望郷じょんがら」の中の、「風にちぎれて聞こえてくるよ〜」のように。幻想的な風景に合わないようでいて、合う。それが津軽であり、弘前だ。でも写真でどうやって撮っても、生の風景には近づけない。「雨月物語」や「イザナギ、イザナミ」のように水面に引き込まれそうになる。

 

 揚げたサツマイモのスティックで缶ビールを飲み、おでん、焼き鳥で熱燗のワンカップを飲み、やっと現世に戻れた。


世界の中心だと思うな! 郷愁に惑わされるな!

 先週末、テレビで久々に「ニュー・シネマ・パラダイス」を見た。アカデミー賞が近づいた今頃は名画がちょくちょく放映される。見てよかった。何度見てもいい。映画そのものも、エンニオ・モリコーネの音楽もいい。

 

 軍隊から故郷に帰ったトトにアルフレードが言う。「ローマに行け。外に出て自分の道を探せ」。そして次の言葉が印象深い。「ここが世界の中心だと思うな。不変だと思うな。2年もすれば変わる」。さらにこの言葉。「郷愁に惑わされるな!」。

 

 地方の人口減少、流出で、最近は若者に「地元で暮らそう」みたいな変なキャンペーンがある。地方の自治体に加えて、その広報予算をもらっている地方マスコミ(新聞、テレビ)がPRに努めている。地元の魅力を伝えながら。

 

 ふざけるな! と言いたい。人間、特に若者がどこに行こうと、暮らそうと自由だ。東京でも海外でも。人生は一度きりだ。どこで何をしようと自由だ。それが保障されなければいけない。地方自治体や地方マスコミは憲法違反をしている。ファシズムだ。

 

 ま、それなりの能力、夢があり目標がある若者はこんなキャンペーンに惑わされず、どこかに出ていきたい者は行く。行きたくない者は行かない。その中間ぐらいで迷っている若者に、こうしたキャンペーンが与える影響が心配だ。

 

 「きずなと思いやりが日本をダメにする」という本が出ていて、タイトルに驚いた。いい意味で。その通りと思っていたからだ。著者は進化生物学者の長谷川眞理子氏と社会心理学者の山岸俊男氏。萱野稔人氏の書評によれば

 

 ----本書を貫いているのは、人間は進化の過程でつくられてきた性質に大きく条件づけられている、という視点である。人間が利他行動をとるのも、身内びいきをしれしまうのも、裏切者を罰しようとするのも、すべて人間が進化の過程で身につけてきた性質である。社会もまた、そうした人間が環境や他の人種と複雑に相互作用することで形成されてきた。それを無視して人間社会の問題を解決することはできない。----

 

 冒頭では、いじめの問題を解決するには子供の道徳心を高めなくては、とか、少子化の問題では家庭のきずなや母性の役割の再認識が必要、といった紋切型の解決法などに対して、そうした人間への過大評価は「人間の理解として適切でもなければ、問題の解決にとっては有害ですらあること」をこの本は指摘しているという。

 

 そうした「過大評価」をするのは一体だれでしょう。自治体、教育委員会、マスコミ、一部の学者、評論家だと思う。国民にうえつけるという点ではマスコミでしょう。

 

 話は私の中では関連づけられているのだが、「ニュー・シネマ・パラダイス」はやっぱりいい。トトを演じる子役、中年になったトトを演じるジャック・ぺランがまた味わい深い。テレビも役に立つ。


ジョン・ウェットン追悼

ジョン・ウェットン

 

 今日なぜかクリムゾンを聴きたくなって、クルマでかけていたのだが、帰ってパソコン開いたら訃報が載っていた。ジョン・ウェットン、67歳。ああ、この偶然。

 

 ----英プログレッシブ・ロックバンド「キング・クリムゾン」や「エイジア」などで活躍したロックミュージシャンのジョン・ウェットン氏が1月31日、死去した。67歳だった。ジョン・ウェットン氏の公式ホームページ(HP)などで発表された。公式HPによると、長い間、結腸がんで闘病を続けていたという。1月11日には、医療チームの助言を得て新たな治療を行うため、春からの北米ツアーを欠席すると発表していた。

 1949年、英中部のダービー生まれ。70年代前半に、キング・クリムゾンに加入。ベースやボーカルを担当し、アルバム「太陽と戦慄」「レッド」などの代表作を残した。

 82年には、スティーヴ・ハウ、ジェフ・ダウンズ、カール・パーマーの各氏とエイジアを結成。ファーストアルバム「詠時感〜時へのロマン〜」が全世界で大ヒットし、その後も話題作を発表して、エイジアを世界の“スーパーグループ”に押し上げた。公式HPによると、エイジアの活動がウェットン氏のキャリアの中で「最大の商業的成功を収めた」としている。

 その後は、ソロでも活動。来日公演では日本語で来場者に語りかけるなど日本でも多くのファンを獲得した。

 ウェットン氏の訃報に接し、カール・パーマー氏と、ジェフ・ダウンズ氏はエイジアの公式HPにコメントを掲載。「世界はまた1人音楽の巨人を失った」(カール・パーマー)「彼の声は、神から与えられたものだった。彼は文字通り“特別”だった」(ジェフ・ダウンズ)などと、盟友の死を悼んだ。----

 

 あんな男性的な魅力的なヴォイス、ほかにいない。クリムゾン、エイジアといったプログレのヴォーカルとしては最高だった。思い切りロックで、ブラックで。それでいて抒情的な歌声は苦く、切なく。男の哀愁というか。もちろんベースもうまかった。

 

 どの曲もすばらしいが、今思い出されるのはアルバム「レッド」の中の「フォーリン・エンジェル」だ。堕天使。

 

 Westside skyline crying , fallin' engel dying……

 

 西方浄土が泣いているのだ、ジョンの死を悼んで。


21世紀の南北戦争〜米国の分断〜

 

 昨夜たまたまNHKBS1の夜11時からの番組を見てたら、気がついたことがあった。今の米国の状況は「南北戦争」なのだ。21世紀の南北戦争は南軍が勝ち、19世紀の南北戦争の勝者北軍に雪辱を遂げた。とりあえず大統領選では。だがこれからどうなるか。

 

 番組は「ようこそ! トランプワールドへ」。フランスの局が昨年取材、放送した。

 ----トランプを支持したサイレント・マジョリティー(声なき多数派)とはどんな人々なのか。グローバル経済によって産業と雇用を失い、トランプに希望を託す人々の姿を描く。

 トランプの当選を決定づけたのは、アメリカ中部から南部に広がる「ラストベルト=さびついた工場地帯」の人々からの支持。かつては重工業や製造業で栄えたが、工場の海外移転などによって多くの労働者が仕事を失い、苦しい生活を強いられている白人労働者とその家族たちだ。ラストベルトを訪ね歩き、ワシントン政治や大手メディアに無視され、アウトサイダーのトランプに賭けざるを得ない人々の心情を浮き彫りにする。----

 

 女性ディレクターがさまざまな人にインタビューし、トランプ支持の理由を探る。労働者、保守的キリスト教徒、移民など各層の本音を聞いていた。

 

 思った。今回の大統領選は、昔敗れ、今も敗者の南軍の怨念が噴出したのだ。しかしまぜ今? という疑問は残る。これまでとの違いは?

 

 恐らくこれまでは、怨念のガス抜きがどこかで少しでも行われていた。それがなくなったのではないか。それには政治行政的、論理的言語ではなく、情念の世界が関わっている。

 

 ここで思い出すのは、メリル・ストリープ氏のスピーチだ。ハリウッドから外国人や異人種の人がいなくなったら、アメリカの娯楽はアメリカンフットボールと格闘技(プロレスのことか)しかなくなる、というあのスピーチ。反トランプというくくりで聞けば別にどうということはないのだが、どこか引っ掛かった。違和感が残った。なぜなのか。

 

 まずフットボール、プロレスを見下ろしているかのようなニュアンス。映画が、ハリウッドがそんなに偉いんかいってこと。この辺はトランプ支持者からすれば、トランプ自身が言ってるように「過大評価の女優が」ということになり、「そんなに美人でもなく演技が特にうまいわけでもないのにセレブ気取りで」ということになる。

 

 ブランド着て、高価なアクセサリーつけてアカデミー賞の会場に集まる「セレブ」たち。トランプ支持者からすれば「敵」ということになるだろう。そこはうなずけるのだ。

 

 仮にトランプ支持者たちのような階層の心理、ドラマを描いた優秀な作品の映画があって、あるいは小説の映画化があって、それをリアルに演じ、表現するのが映画であり俳優なのではないか。

 

 過去、アメリカでは文学や音楽、映画でそれはあった。フォークナーとか。だが今はなくなった。あるのはオバマ、クリントンに代表されるきれいごとの世界、メディアというセレブなどだ。

 

 この番組を見て、その辺がわかった。ただ番組に出てくるキリスト教徒で中絶反対運動なんかやってる10代の少女なんか見てると、やっぱりちょっとおかしい。他の労働者、ミュージシャンなんかを見ても。白人貧困層なんて言葉を使うメディアもメディアだが、彼らが表だっては言えないだろう表現をあえて使うと、知的レベルが低いのだ。(えらそうだが)

 

 そして思ったのは、こんな番組をつくれるフランスの底力だ。これこそドキュメンタリーというものだ。日本のテレビ局じゃ到底つくれない。

 

 かつてアメリカの闇という言葉があった。マフィアの話ではなく、南北戦争以来くすぶり、鬱屈した情念、怨念の世界だ。血も凍るような虚無。カーペンターズやカレン・カーペンターの拒食症、母との確執。あの歌声。それがよみがえった。南北戦争はアメリカの病理、闇、恥部で、触れられたくないだろうが、それが今表れたのだ。

 


本家は銀髪、噛みつき魔

フレッド・ブラッシー

 

 

 昨日テレビを見ていたら、みうらじゅんさんがトランプ米国大統領を「ブラッシーが出てきたみたい」と言って、ああなるほど! と思った。当欄では先日、トランプ大統領を「真夜中のカウボーイ」みたいって言ったのだが。繰り返すが映画の邦題「真夜中のカーボーイ」はどうしてもおかしいって。クルマの整備というか改造、アクセサリーの店みたいでしょ、それって。

 

 さてブラッシー。銀髪鬼、噛みつき魔といわれ196070年代中心に活躍した米国のプロレスラー、フレッド・ブラッシーである。なにしろ噛みつく。日本での試合でグレート東郷にさんざん噛みつき、あまりの流血にテレビを見ていたお年寄りがショック死するという事態にまでなった。

 

 力道山、ジャイアント馬場らとも名勝負を繰り広げた。吉村道明という跳び蹴りが得意なレスラーも噛みつかれていた。最初、ブラッシーの子分みたいに振舞っていた四の字固めのデストロイヤーがその後反旗を翻し、ブラッシーを破ったが、リターンマッチで思い切りかじられ、白い覆面マスクを赤く染めて敗れた。

 

 でも素顔はとても紳士で、服装にも気を遣いカッコよかった。確か夫人は日本人で、大変な日本びいきだったという。2003年に亡くなったが、生きていて今の大統領を見たら、みうらじゅんさんに異議を唱えるだろう。冗談じゃない、あんな男と一緒にするな! って。でも風貌とある種のインパクトが似ている。ってもうさんざん言われているみたいだが。

 

 それにしても、テレビでみうらじゅんさんが出ていたら、いつもその発言に注目する。どんな面白いこと、「正しいこと」を言うか。でもMCの東野幸治さんが、あまりみうらさんに振らない。それに知ったかぶりで半可通で。もっとみうらさんに発言させて。お願い。絵馬を見物?した話も面白かった。ある絵馬に、武道館でライブをやりたい、今年中にバンドを編成したい、とあって、みうらさんいわく「後先逆だろ!」。こんな話、最高!

  


カナタイプの文学

 昔、ある雑誌に大岡信氏が「ある『変な考え』について」という文章を書いていた。シュールレアリスムの詩人、瀧口修造氏は晩年、ジャーナリズムに距離を置き、知人たちに私的なメッセージ、自家製のオリーブの瓶詰などを送っていた。それは「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させる」という、瀧口氏いうところの「変な考え」によるものだった。大岡氏はこう書いている。

 

 ----たしかにこれは「変な考え」である。しかし、ではその対極をなす「流通価値のあるもの」の世界が変なものではないかといえば、これも恐らく、性質は全く別だが、変なものである点では変りがない。数年前には不動盤石のごとく思われていたものが、ある日気がついてみれば、実に頼りなく、やつれ果てた価値下落のさまを見せて落日を浴びているという例は、実業の世界はもちろん、虚業の世界でもーーたとえば文学の世界をこれに含むことができるとすれば、文学界においてもーー決して少なくない。----

 

 例として大岡氏は「カナタイプ」のことを挙げる。その昔、先進的といわれる企業が社内文書、ダイレクトメールなどをカナタイプでつくった。漢字は非能率的、非効率的という理由からだった。この文章を大岡氏が書いた時点ではワードプロセッサーが急激に普及していた。

 

 ----ここまで機械化が進んでくると、カナタイプ時代は一つの過渡期にすぎず、現在の状態もまた新たな次の段階への過渡期にすぎないことがはっきり感じられる。漢字よりカナの方が能率社会に適合しているという考え方そのものが、今では色褪せたものになってしまった。つまり、流通価値を失ってしまった。----

 

 大岡氏はそのかわり「子供たちは漢字の読みはできても書きはできなくなっていくだろう、書きの代わりに、打ちに長じた作家たちが相次いで誕生する日もそんなに遠いことではあるまい」という。「その結果、ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」とも。文章の最後は次のように締めくくられている。

 

 ----瀧口修造がみずから「変な考え」と自覚していた、「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え」も、そういう状況が到来した時、まったく別の文脈において、「変な考え」としての深い意味を持ってくるような気がする。少なくとも次のことは確かだろう。

 今日の流通価値が明日の流通価値でもあることを保証するものは、今日の流通価値の中にはない。また明日の流通価値を生み出す者たちは、明日必ず出現するが、彼らが今日どこにいるのかを言うことは、至難の業である。----

 

 鋭い洞察であり、なるほどと共感する。カナタイプも企業だけでなく銀行、団体その他かなり普及しただろうが、安易な「効率」「能率」は歴史の一瞬に消し飛んでしまった。ワードプロセッサーという言葉すら今は死語だ。

 

 ただし大岡氏の予測で「ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」の部分は、どうかな?と思う。楽観的、希望的観測じゃないだろうか。大岡氏のいうような状況である「べき」だし、そうなるはずだが、現状はどうか。今の文学の劣化、パワーのなさは。カナタイプと同じ運命をたどらないと誰がいえるだろう。


真夜中の大統領

真夜中のカーボーイ

 

 トランプ米国大統領就任の一連の報道を見て、まるで西部劇のカウボーイだなと思った。最初はジョン・ウェインなどの時代を思い出したが、そのうち「いや、違うな」と考え直した。これは「真夜中のカーボーイ」だな、と。

 

 映画「真夜中のカーボーイ」は1969年公開。主演はジョン・ヴォイト(アンジェリーナ・ジョリーの父)、ダスティ・ホフマン。いわゆるニューシネマの代表作の一つで、アカデミー作品賞などを受賞した。ちなみに正式な邦題が「カーボーイ」なのでそれに従っているが、英語を日本語にする場合、どう考えても「カウボーイ」でしょ? と言いたい。

 

 小説はもちろん、映画、漫画などのフィクションの世界が現実になってきたなと思ったのは、もうかなり以前のことだが、トランプ大統領については、ついにここまで来たかというのが率直な印象。悪い冗談というか。

 

 彼の掲げる「偉大なアメリカ」について、もちろんコメンテーターたちは時代錯誤と言ってるが、1950年代とかもっと前、30年代とかよりも、少なくとも1960〜70年代より前という意味じゃないか。ニューシネマ、ニューロック、ヒッピーにフラワーチルドレン、フォークソングなど価値観の転換の時代、動乱の時代。やがて米国はベトナム戦争を終結し、中国に接近する。

 

 今朝の新聞で見たが、トランプ大統領の外交政策にヘンリー・キッシンジャー氏が協力するらしい。中国接近の提唱者・立役者だったが、バランス感覚から今度はロシア接近政策をとるらしいという。すんなりこの政権が政策を進められるかはわからないが、「真夜中のカーボーイ」からキッシンジャーの時代を思い出したのは確か。

 

 あのカウボーイなのだ、トランプ氏は。偉大なアメリカの幻想がニューヨークの町で崩れ、最後は温暖なフロリダにバスで行き、ダスティ・ホフマン演じるホームレス&男色の女衒は息絶える。あのカウボーイの約半世紀後の姿なのだ。そう思えば納得はいく。とりあえずは。でも……。


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