静かな実況

 平昌五輪、アイスダンスフリーの上位2組の演技はすばらしかった。まさに芸術。スケートでここまで表現できるのかと思う。フィギュアより、見てて感動する。実況、解説とも口数少なく(やっぱり感動していたからか)、静かなのもよかった。今回は音声多重で言葉なし、会場音だけってできないんだね。残念。

 

 複合見てていつも思うが、解説のO氏、なんであんなにえらそうでうるさいのか。たいしたこと言ってないし、いい間違えてるし。

 

 それに比べて(比べたくもないが)、ジャンプの原田さんの解説、いいなあ。面白いし、出場選手たちへの愛情が感じられる。原田さんと居酒屋で一杯やりながら、いろいろ今までの経験から面白い話なんか聞けたら、楽しいだろうなあ。ホントいい人だなと思う。船木さんもジャンプという競技の機微がわかってよかった。

 

 宇野昌磨選手の話で面白かったのが、待っている間、他の選手の演技を見て、得点が何点か当ててるってやつ。「暇つぶしに」って言ってた。これを聞いた荒川静香さんが「はっ!」って絶句ぎみに、素で笑ってた。あきれてたというか。

 

 カーリングって、戦略や戦術、その局面に応じた臨機応変の作戦も大事だが、根本的な思想がないとだめだと思う。方針というか姿勢というか。その表現の場が、試合なのだと。

 

 小平さんと李相花の感動的なシーンは、五輪が政治で汚されそうだったのを、スポーツの力できれいに吹っ飛ばしてくれた。開会式が終わって本格的に競技が始まる頃、二宮清純氏がテレビで「これからはスポーツの力。スポーツは微力かもしれないが無力ではない」と言っていた。芸術、文化もそうだが、政治には負けない。

 

 でも、じゃないけど、スケートのショートトラックって、政治みたい。やったら性格悪くなりそう。あれを人生の縮図とは思いたくない。誰もそう言ったわけじゃないけど。昔、ローラースケートでガンガン当たりぶっ飛ばすのあった。あれの方がまだマシ。

 

 


テレビスポーツ教室かい? 五輪中継

 羽生、宇野両選手おめでとう。昨日のショートでネイサン・チェンがこけた時点で、羽生選手の勝ちと見ていたが、その通りになった。「五輪の戦い方を知っている」という羽生選手の圧力に、チェンがやられた。演技で得点を競う競技だが、目に見えない戦いがある。まさにスポーツは、殺るか殺られるか、つぶし合いなのだなあと思う。

 

 さて、カーリングの実況を見て思うのだが、アナウンサーがうるさい。のべつ初歩的なカーリングの規則をしゃべりまくっている。見ている人みんなもうわかってるよ。石崎さんの解説もっと聞きたいよ。他の競技でもそうだが、規則ばっかりしゃべってるアナウンサーってほかに知識がないから、実は詳しいネタがないから、時間つなぎにルールを解説する。わかってる人はもうわかってる。わからない人は聞いてもわかりません。だから意味がないんですよ。

 

 それとワイドショー、ニュースショーでスタジオのメーンキャスターと現地の解説者のやり取りで、タイムラグでイライラすることの多いこと(五輪だけじゃないけど)。解説者の話が大事なところに差し掛かると、キャスターが質問して、タイミングがかち合って、両者が黙り、またかち合う。その繰り返し。キャスターは少しだまって解説者のいうことを聞きなさい。

 

 この前、ある司会者が「私しばらく言わないので、お願いします」と現地解説者に振って、すごくよかったことがあった。視聴者のことを考えている。羽鳥さんだったかなあ。ほかのことではかなり首をかしげざるを得ない人だが。自分の口数が多いのが仕事をしているアピールになると思ったら大間違い。辛坊治郎氏までこの点、今朝はだめだった。佐野さんにしばし言わせなさいって。

 

 上記に共通して言えるのは、キャスターとして「視聴者にわかりやすく伝えるため」という間違った考え方、えらそうな姿勢、根本的な妄信、そして人がわかりやすく伝えれば人はわかるといった「信仰」があるのだと思う。そんなことはないのだ。人から人に何かが正しく伝わるって、かなり難しい。至難の業といってもいい。あるいは視聴者、国民を素人とバカにしちゃいけない。みんな知ってるって。で、繰り返すが、知らない人はどう解説されても知らないって。

 

 羽生が演技に入る直前、右手でつくったかたちは、キツネ。フォックスゴッド。まさに陰陽師、安倍晴明。例えば、優勝後の羽生の言葉を、誰かが代弁してしゃべって、彼の言わんとすることが正しく伝わるだろうか。羽生の口から(テレビ中継ではあっても)直接聞かないと、意味がないのではないか。

 

 NHKのスタジオの総合司会みたいなの、だめだね。男も、不手際で、かんでばっかし。ベテランそうなのに。昨日なんか、女子ばっかりで、そこら辺のガールズトークだもん。で、「陣内さんいかがですか」状態ばっかり。専門外の人に聞いてもしようがないでしょう。

 男女差別するつもりは毛頭ないが、スポーツについて同じぐらいの知識しかない男女のアナウンサーがいたとして、男性はしゃべりが仮になんとかなったとしても、女性はいかにも知らなさそう、付け焼刃、無理してるって感じがするのは、なんでだろうなんでだろう、なんでだなんでだろう〜お〜お〜。

 

 あっ、今NHKの男が、「途中ですが」って神妙な顔で言ったので、何か重大な事件か事故でもあったのかと思ったら、羽生、宇野両選手が現地のNHKのスタジオに来てくれたのでインタビューをお送りします、だって。もっと明るい顔しろよ! 小さいことのようで、大事なことだと思う。「伝える」ことが仕事でしょう。言葉だけでなく、表情でも。やっぱりこの人、わかってない。

 

 実際スタジオでインタビューしてるアナウンサーは、いいなあ。いい質問して、いい答を引き出している。

 

 


月に叢雲大笑い

 朝ドラ「わろてんか」で、人に笑われるのと人を笑わせるのは違う、とかいうが、昨今はその違いが薄れてきたんとちゃうか、と思う(関西弁うつった)。お笑い番組はもちろん、ワイドショーでも笑いが大きな比重を持つ。芸人同士はお互いの笑いに寛容で、笑ってばかりいる。なぜなのか。ここで、上質なユーモアはいいけどね、と気取るのもまた、なんだかなあ。メディアによってでなく、人と人の直接の会話で、笑いがあればいいな、と思う。あるいは景色や自然や動物を見て。思い出し笑いでなく。

 

 ----唐代の禅僧薬山和尚はある日、僧堂の裏手にある山上を散歩していた。夜中になって薬山はその山上で、突然、大声で一笑した。近隣の村々の住民たちは、その夜同じ笑い声を聞いて、口々に言った。「東隣で人の笑う声がした」。翌朝になって、村々の者は笑い声の主を求めていっせいに東へ東へと探して、ついに薬山の寺にたどりついてしまった。とりつぎに出てきた弟子によれば、「たしかにゆうべは和尚が山頂で大笑いするのが聞こえた」と言う。この話は有名になり、それを伝え聞いた薬山の友人李総理はこんなほめ歌をつくった。

 「静かな住居を見つけて、飾らぬ心を楽しみ、年中、客を送ることもしない。あるときは、弧峰頂上にのぼって、雲のうちから顔を出す月に大笑いする」。----(中沢新一「森のバロック」)

 

 ----この禅僧は月が雲間から顔を出すことによって、大空のしめす連続体にいわば「句点」が打たれたこと、連続体に切断が飛び込んできたこと、ただそれだけのことに身体全体を揺すらせて、笑っているのである。光の放射が、突然に大空に広がり、明と暗の輪郭の明確な差異が、目に飛び込んでくる。その瞬間に、笑いがはじけとぶのだ。空や無や無限そのものから、笑いが生じてくることはない。空を横切る光が、そこに溝や痕跡を刻み込んだとき、空の連続体に、光によって「特異点」が打たれ、トポロジーからひとつの空間構造が発生するときに、存在と意味が生まれ出るまさにその一瞬をとらえて、禅僧は無邪気な大笑いで、あたりを揺るがすのである。----(同上)

 

 上記は中沢氏の「チベットのモーツァルト」フランス語版の一部の日本語訳だそうで、ジュリア・クリステヴァの「笑い」論から始まり、ラブレー的哄笑、スウィフト的嘲笑、チャップリン的な笑いとは違う、東洋の笑い、タオの笑いを指摘する。

 なんだか吉田健一氏の小説「金沢」などの著作を思い出す。そんな世界だ。吉田氏の「金沢」とプログレッシブロックのYESの代表作「危機」(Close to the edge)は、ほぼ同じ年代につくられたが、驚くほど似ている。そういえば「危機」はヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」にインスパイア―されてできた。そういえば吉田氏はケンブリッジ大に学び、英国の文化に通じている。話がそれたが、みんなつながっている。わっはっは。


貝殻減らして

 車で音楽をシャッフルでかけてたら、弘田三枝子さんの初期のヒット曲「渚のうわさ」が流れた。橋本淳作詞、筒美京平作曲というからプロの大御所の作品である。確か出たのは60年代、若い女の子のせつない恋心を、弘田さんが時に繊細に、時に持ち前のパンチ力も生かしながら歌い上げる。いい歌だな、と思う。

 

 終わった直後、カミさんが「えっ!?」「どういう意味?」と声を上げた。「何?」「貝殻へらしてって、どういうこと?」一瞬置いて、小生ふき出してしまった。問題の歌詞は後半のこの部分である。正しくは

 

 ----あなたの いない渚は 青い星屑だけが 貝殻 照らして 濡れていた----

 

 いい歌詞でしょ、ここがポイントでしょ、その「照らして」を「減らして」と聞き違えるなんて。三宅裕司さんの奥さんみたい。すぐに訂正してから、空想がふくらんだ。「貝殻を減らすって大変だろうな。石かなんかにこすって、一つなくなるまでどれぐらい時間がかかるだろう。大きさにもよる、貝の種類にもよるけど」と、どうでもいいバカな会話。

 

 仏教の億劫という言葉が浮かぶ。天女の衣ですり減る岩山。渚に無数にある貝殻、全世界のそれをこすって減らす所要時間。あるいは「一つ積んでは父のため、一つ積んでは母のため」。さざれ石じゃないけれど、気の遠くなるほど長い、無限の時間には石、岩とか固いものがふさわしいみたい。するとカミさんが言った。

 

 「別に一つずつ石にこすらなくてもいいんじゃない? ショベルカーかなんかで大量に運んで処分しちゃえば?」

 

 ショック! こっちはなんとスケールの小さいことを考えるのだろう。そうか、「貝殻を減らす」にはブルトーザーですくってダンプカーで運べばいいんだ。っていうかそもそもあんたの聞き違えだろうが、きっかけは。ことほど左様に、女性は大胆、男は小さい。って小生だけの話を敷衍してはいけないか。

 

 神経をすり減らすようなことも少なくないけど、ショベルカーで運んじゃえばいいんだ。処分場はどこ?


ビロード張りの裏面

 ----そこから、植物学の認識論的な優位がもたされる。というのは、語と物とに共通の空間が構成する格子は、動物よりも植物をはるかによく受け入れるし、植物の場合のほうがはるかに「暗い」ところがすくないからだ。動物の場合には目に見えないおおくの本質的器官が、植物では目に見えるため、直接知覚できる可変要素から出発する分類上の認識は、動物の領域よりも植物の領域においてはるかに豊富かつ整合的だったのである。したがって、ふつう言われていることは逆転させなければならぬ。十七、八世紀において植物に関心が寄せられたから、分類の方法が検討されたのではない。可視性の分類空間においてしか知ることも語ることもできなかったからこそ、植物についての認識が動物についてのそれにたいして優位に立たざるをえなかったのだ。----

 

 またまた中沢新一「森のバロック」から。上記はその中でミシェル・フーコーの「言葉と物」を引用しているところ。フーコー得意の、因果関係の逆転がここにもあらわれている。日本では磯田光一氏なんかも得意技にしてた。さらにこれ。

 

 ----もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれを死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえぬということ、それこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語(ランガージュ)を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強付会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、「ソドムの百二十日」は(キュビエの)「比較解剖学講義」のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ。----

 

 本はテーマに沿ってまともに読むのが一番正しいというより面白いのだが、いろんな読み方ができるのも楽しい。上記のフーコーの「生きているから殺すのである」、サドを登場させて「ビロード張りの裏面」なんか、おなじみのフーコー節って感じ。

 

 この「森のバロック」という本は1992年刊行で、書かれたのは80年代からのようだ。南方熊楠についての本だが、レヴィ=ストロースやフーコーやドゥルーズ、クリステヴァなどの引用がなされている。なつかしいというか、でも彼らの磁力はまだ現在にも及んでいると思う。もっと味わいつくしてもいいのではないか、その果実を、搾り汁を、ワインを。

 

 


現代の説話学=マスコミ

 テレビってなんで四六時中、うるさくしゃべってるんだろう、と最近思って、でなきゃテレビでないだろうというツッコミがすぐ返るだろうなとも思った。でも、うるさい、うるさすぎる。だから同じテレビでも、なんということない古い町並みや景色を映す番組が好き。地方のケーブル局で、ただ街角、街並みを映す番組があって、音楽は低くBGMだけで、言葉いっさいなし、これ好きだな。テレビは映像で勝負! 言葉は要らない。

 あっ、例外は銀河万丈氏らのうまいナレーション。正しく美しい日本語だよね。近頃のタレント、レポーターはもちろんアナウンサーでも間違うし噛むしとちるしアクセントが大間違い。日本語を小学校からやり直せって。

 

 ----説話には、ナレーションの秩序がある。それは、政治制度とよく似ている。政治制度はいったんその磁場に引き込まれた人間の意識を、制度の陸額にふさわしいものに、徹底してつくりかえようとする。それと同じように、説話はあらゆるものを自分の磁場に引き寄せようとし、一度その磁場に引き寄せられたすべてのものを、ナレーションの秩序にふさわしい内容と質をもったものに、変形してしまう、恐るべき力をもっているのだ。この説話体制の性質を調べるために、「説話学」という学問が、存在しなければならない。しかし、それはあくまでも、民俗学の一部にすぎない。なぜならば、説話学の対象は、民俗学がほんらいあつかわなければならない領域をこえて、深く近代市民社会の深層にまで、およんでいるからだ。説話の体制を分析=破壊しなければ、「具体の科学」であり「野生の思考」である、民俗の本質に触れることはできない。ましてや、社会と主体の奥底のシーンに触れる、始源学としての民俗学をつくることはできない。説話学は、それ自体として独立させ、政治学の横に置かなくてはならない学問なのだ。----(中沢新一「森のバロック」)

 

 ナレーションの秩序、説話、これって新聞・テレビなどマスコミ、ジャーナリズムって呼ばれるもののことではないか。その本来の性質からして政治と近い。まさに「政治学の横」にいる。ふんぞりかえって。

 

 中沢氏はこの後、ロシアの民俗学者プロップとレヴィ=ストロースの論争を紹介。プロップはロシアのフォルマリズムと近いという。ここでは構造主義の、説話の秩序をいったん分析=破壊して、別の思考の秩序、神話論理、さらにその向こう側にまで出ようとしている、作業をしなければならない、という方に軍配を上げているようだ。そのうえで

 

 ----説話は民俗の「原子」の豊かな内容を、抽象化し、説話形式の要求にそれをしたがわせようとする本質を、もっているのである。ここが、熊楠が説話の魔力に警告を発する理由なのだ。問題は、説話が人を引きつける魔力をもっている点だ、と熊楠は力説する。それは誘惑する力と酔わせる力を、もっている。そのために、上手な説話を語る人々は、聞いている人たちの興味を引きつけておこうとして、しばしば嘘をつく。ナレーションやドラマツルギーのおもしろさのために、思考の真実を犠牲にしてまでも、彼らは説話の誘惑に身をゆだねようとするのだ。−−−−そこには、都市と近代が発揮してきた魅力と、同質のものが存在する。----(同上)

 

 重ねていうが、これってマスコミでしょ、テレビでしょ。新聞でしょ。


人柱と馬の首〜南方熊楠とニーチェ

 中沢新一「森のバロック」に、「例外」という言葉を見つけてわくわくした。例外というのが大好きなのだ。世の中の例外を集めて「例外学」という学問でも始めたいぐらいだ。

 

 ----熊楠は、民俗学には残酷の感覚が必要である、と考えていた。それはこの学問が、人間的なるものすべての根源に触れていくような、始源学でなければならないからだ。人間的なるものの根源、その奥底の競技場では、たえまない残酷が行使され、その残酷の中から、差異の体系としての文化が創出されてくる。民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始源の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始原の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始源学をめざしていた。----

 

 ここは、人柱をテーマに、柳田国男やレヴィ=ストロースのように社会実体の観念の内側から見るのでなく、熊楠はカオスの中からプロセスとして社会がつくりだされるという立場を取る、という中沢氏の説だ。この箇所の最後はニーチェの有名なエピソードを含む美しい表現で締めくくられている。中沢氏は実に文学者なのだ。

 

 ----残酷の民俗学ーーアントナン・アルトーの演劇にならって、私たちも、南方熊楠の学問を、そう呼ぶことにしよう。ホテルから一歩外へ出たとたん、そこに見た馬車につながれた馬の姿に心を打たれ、馬の首をいだいて、涙を流すニーチェ。ニーチェはこの瞬間から、狂気の淵に沈んでいくのだが、この狂気すれすれの優しさをもった人間だけが、存在の奥底にくりひろげられている残酷を見ることができる。熊楠には、その光景がありありと見えていた。だが、世の中には、別種の残酷が存在する。知的冷酷を生むその残酷は、熊楠やニーチェやアルトーが見ている、生命と存在の奥底における残酷の真実などは見えない、聞こえない、と語って、さっさと先に行ってしまうのだ。----

 

 別種の残酷、知的冷酷。そんなのが今、あふれている。さっさと先に行ってしまう。


車椅子テニス国枝選手の逆転なぜ放送しない?

 さっきWOWOWで錦織圭のテニスをやっていた。復帰2戦目、相手は1戦目で負けた同じ選手だったがストレート勝ち。ご同慶の至りである。解説者も言っていたが、サーブなど体の使い方、素直でコンパクトでシンプルでよくなったなと思う。ビッグサーバーみたいに無理することないのだ。分をわきまえる、それが一番強い。それではじめてその選手の長所が出てくる。明るい兆しだ。

 

 それはいいが一昨日終わった全豪オープンのWOWOWの放送について文句がある。車椅子テニス男子シングルス決勝で国枝選手が優勝したが、その試合尻切れトンボで、女子シングルス決勝にうつっちゃったのだ。国枝選手が1−1のセットオールから第3セット、かなりリードされピンチだった。そこから(放送ではすぐにはわからなかったが)逆転したのだ。それなのに! 肝心の逆転のところが見れなかった。オンデマンドではやってるよというかもしれないが、テレビだけの人もいっぱいいる。

 

 そりゃ、ハレプとウォズニアッキの決勝も見たい。でも中継がうつってそれから試合前の練習などかなり時間あったじゃない。国枝選手のものすごい逆転劇を最後までやってからでも女子決勝は試合のほとんどは放送できた。しかも翌日でも録画でやるかなと思ったら、やらなかった。何を考えてるんだ! 車椅子テニスを差別してるのか! 責任者出て来い!


青「森」のバロック

 ----それよりも彼が関心をもったのは、都市生活といわず、常民生活といわず、すべての人間世界によって隠されてきた、人類の文化の始原の謎なのである。この始原は、ただ隠されてあるだけで、ロンドンでも、東京でも、田辺でも、ニューギニア高地でも、およそ人間の生きるすべての空間に、存在する。ただ、近代の市民世界にくらべると、未開社会や田舎の世界には、さまざまなフォークロアのかたちで、それらの始原がより裸に近い形態で、意識の地表近いところに、露出されているケースが多いのだ。そのために、民俗学研究には意味があるのだ。それは、近代によって隠されてきたものばかりではなく、人間の社会そのものによって、いわば「はじまりのときから隠されてあったもの」を、探求する学問なのだ。熊楠は、地方都市住民の、ディレッタント民俗学を尊重しながら、あくまでもローカルなその場所に立って、世界と人類に超出していこうとしていたのである。

 これが、彼の考える「世界民俗学」の思想である。それは、たんなる比較の学などではない。熊楠は、「国際的」であることなどに、なんの価値もみいだしてはいない人だ。それよりも、彼は「世界」であろうとした。----(中沢新一「森のバロック」より)

 

 図書館の棚卸しでただでもらった本だが、意外やめっけもの。最近必要があって棟方志功のことを調べていた。直後にこの本を読んで、南方熊楠と棟方志功の共通性に気がついた。ま、ミナガタとムナカタだもんね。って、棟方はサンパウロ、ベネチアのビエンナーレで賞を取ったり、国際的な評価が高いけれど、「国際的」にはなんの関心もない。目指したのは「世界」であり、その出発点は青森、津軽という極めて始原的なローカルだったのだ。

 

 熊楠は米国に行き、英国に渡り、大英博物館を起点に世界の知恵者と論争したりして、日本に帰ると那智の深い森で暮らし、そして田辺という地方小都市で暮らして真理を追究した。地方都市にいるのも悪くはないんだ、と思ったり。

 

 今でこそ棟方志功をはじめ太宰治、寺山修司などは青森が生んだ天才異才奇才と評価は定まっているが、ちょうど仕事の脂がのっていた頃、地元での評価評判はあまりよくなかった。中には悪口もあった。それを知っている世代としては、こんにちの批判を許さないような持ち上げ方には「手のひらを返したように」と反発も感じる。でも少なくとも「世界」を目指し、求めた人は地方出身者に多い。それも独自の風土を持ついかにもローカルな土地の、である。

 

 先日、西部邁氏の訃報に関するブログで東大の中沢新一事件について触れていて、ああ、そういうこともあったよなと思いだした。ある週刊誌であの時代、ライアル・ワトソンと中沢氏が対談していて興味深かったが、最近上記の流れで書棚からワトソンの「生命潮流」などの本を引っ張り出したが、ちょっと読んでみて、やっぱり胡散臭いや!


体のリズムと長寿

八甲田

 

 またまた無料の出版社PR誌から。今回は藤原書店の「機」11月号。生命科学者の中村桂子氏が「寿命遺伝子とカロリー制限」と題して書いている。

 

 現在の日本の最長寿は鹿児島県の女性で117歳、この人が世界一でもある。記録ではフランスの女性が1997年、122歳で亡くなった。画材店を訪れたゴッホを知っているというから「歴史が近くにきたような気がした。ヒトの寿命は、120歳ほどと考えるのが妥当だろうか」(中村氏)。

 

 日本で今、100歳以上の人が6万7千人の報道には中村氏も驚いたという。そして「お漬物など塩分を多く摂っていた食生活の改善が功を奏したとある。これは環境の影響の大きさを示すが、寿命に関わる遺伝子も気になる」という。

 

 塩分については最近も諸説あり、“犯人”なのか濡れ衣なのか微妙なところもあるが、中村氏の専門分野である遺伝子の方が、こちとらも気になる。

 

 線虫という1ミリほどの生物は3日で成熟、10日で老化が始まり、21日ほどで死ぬという。このため老化や寿命の研究に使われる。中村氏はこう書いている。

 

 ----老化が遅く寿命が長い突然変異体で変化している遺伝子を探したところ、12種類ほど見出された。分類すると大きく3つの性質が見えてくる。1つは体のリズムに関わる。いわゆる時計遺伝子であり、変異体ではすべてがゆっくりと進み、寿命が1・5倍になった。他の2つは活性酸素に関わる遺伝子と、神経や内分泌に関わる遺伝子である。活性酸素は、細胞を損傷するのだからさもありなんである。

 一方、カロリー摂取の制限で、寿命が1・4〜2倍、延びることもわかった。興味深いのは酵母菌の寿命を左右するSirzという遺伝子に似た遺伝子(サーチュインと命名)が人間でも7種類見つかり、カロリー制限によってサーチュインが活性化されることである。寿命が延びるという確証はないが、何かありそうだ。でもこの制限、40%とか70%と聞くと、そこまでして長生きするか、心ゆくまで食べるか、迷う。----

 

 うちのおばあちゃんも92歳で、心臓や腎臓が弱り、医者によっては塩分、水分の制限が必要という。別の医者はもう92なんだからある程度は制限を超えてもおいしく食べていいよ、という。これは後者の方に賛成なのだが。

 

 さてカロリーの話もさることながら、時計遺伝子の話に注目したい。体のリズムに関わる遺伝子である。「すべてがゆっくり進み」とあるが、単にその速度の問題なのだろうか。

 

 ウォーキングの時に発見したのだが、音楽に合わせて歩き、次の曲に移ってリズム、テンポが少しだけ変わっても、合わせるのに意外に苦労することがある。ちょっと速くなった、遅くなった、だけでは説明しきれない、そのリズム特有のもの。それぞれのリズムが「個性」を持ち、それを主張するようなのだ。

 

 ウォーキングで音楽はインターバルに用いるため、3分間のを集めた。歌・音楽で3分ほどの長さを探すのに、そんなに苦労しない。実に多い。これは昔のレコードのシングル盤(ドーナツ盤)が、3分ほどの容量だったためだろう。

 

 クラシックの交響曲などを聴くと、ただ長いというだけでなく、実に豊かに時間を使っていると思う。こうした時間やリズム、テンポが、寿命や長寿の遺伝子に関わっていると思うのだ。科学的知識はまるでないが、確信している。


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