しばられていませんか?

 ジュンク堂で立ち読みする日々が続いたが、ついに本を購入したので、うしろめたさが消えて気持ちに余裕ができた。出版社のPR誌というものがあって、無料でもらえる。その棚にも手が伸びた。

 

 思文閣出版という出版社で出している「鴨東通信」というPR誌を手にしたら、本の紹介の惹句にどきっとした。「あなたもしばられていませんか?」。もちろんSMの本ではない。国際日本文化研究センターの「人文諸科学の科学史的研究の成果」という本、「学問をしばるもの」の惹句だった。

 

 その前の何行かでこの本の概略を記しているのだが、なるほどと思った。

 ----時局による言論の制約、マルクス主義の流行、はたまた所属学会への配慮や、恩師・先輩への気遣いなど煩わしい人間関係……。

 ----人文学の研究者たちも、知らず知らずに社会のさまざまなものに拘束されている。そんな学者たちの息苦しさの歴史を、科学史的に明らかにしようと企画された----

 

 そして最後に「あなたもしばられていませんか?」なのである。こっちは人文学の学者でもないし、学者の人はそういう制約も覚悟でその道に入ったんじゃないの?と我ながら冷ややかな目で見たが、PR誌の本編の冒頭に、この本を中心となって執筆・編纂した井上章一氏(国際日本文化研究センター教授)のインタビューが載っていて、実に率直明快な氏の意見に引き込まれた。

 

 井上氏は以前から一筋縄ではいかない思想家だと思っていたが、それは頑固だとかそういうのではない。実に柔軟な考え方をするからである。それで、氏は工学部建築科から「文転」して京大人文研の日本部にいった人だが、実に学問というのは制約があるという。

 

 たとえば考古学と文献学では同じ事象でも考え方が違う。というよりその学問の考え方でいかないと世渡りできないという。マルクス主義然り。そんな中で、氏の若い頃の著作「霊柩車の誕生」についてふれ、建築学科に来ていたスイス人が霊柩車を見て「あれは何だ。あんなものは、いろんな国を廻ってきたけど、見たことない」と驚いたエピソードがきっかけと明かす。面白い。

 

 美術史、文学、その他さまざまな人文諸科学で、さまざまな制約がある、それっておかしいんじゃないの? とケツをまくり啖呵を切っている。科学的論理的実証的に。本は2500円でこの種のものとしてはそんな高い方じゃないが、エッセンスただでもらっちゃったって感じ。いいなあ出版社のPR誌は。

 

 何も学問の、学者の世界ばかりではない。思考、感覚……あなたもしばられていませんか? 自分もしばられている? 本当は時代とかもっと大きなところでしばられているとすれば、そこをどう超えるかが大事な、おいしいところだと思いたいが、現実は実に下世話なものにしばられているのでは?

 

 「Do away with people flowing my mind!」とはジェファーソンエアプレーンの曲の一節。さあ、縄をほどこう。ってヒッピーかフラワーチルドレンみたいって青臭いといわれるかな。


荒天の恵み

光柱

 

 朝起きてカーテンを開けたら、雲間から光の柱が立っていた。しばし目を奪われた。どす黒い雲が立ち込め、雨風が強い最悪の天気。でもこんな天気だから、光の柱が見える。これモノクロで撮ったわけでなくカラーなんだけど、白黒の世界。昨日の夕方は白昼夢を見るし、今日はこれ。いつもとは違う時空にいる。


分からないもの

 産経の正論をネットで見た。筑波大大学院の古田博司教授の文章だ。最初の方の韓国の文化に関する論は、ま、そんなものかな程度に読み流していた。後半から、気になる言葉が出てきて、じっくり読んだ。

 

 ----真剣に考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。

 ----到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 ----そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できないからである。

 ----人間の体内時計はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送り込んでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。----

 

 この中で「人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できない」の言葉に、考えさせられた。それは物語ということではないか。果たして、本当にそれでいいのか。でもやっぱりそうなのか。

 

 次に筆者は「すごいことを言っている」という羽生善治氏の言葉を引用する。「分かっていることに対する答えや予測は、どう考えてもAIの方が得意です。残されている『分からないもの』に対して何をするのか、が問われる。それは若い人たちだけにかぎらないと思います」。

 

 そして筆者は「大学ではそれが今問われている」という。「うちの大学などでは、文系の人文社会科学はもう、のけもの扱いである。なぜなら知識を教えることしかしてこなかったからだ。そんなものはもうネットで簡単に手に入る」とおっしゃる。今風の女性風に反応すれば「おお!」というぐらいな断言だ。

 

 で、ほかの物理学、化学、工学、農学、生物学などは元気で、それは「全部実験という、知識以前の『分からないもの』を扱っていて、医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどはみな体得の科目で、『分からないこと』を考える余地がある」という。

 

 そうですかねえ? どうだろ。「因果関係のストーリー」のところには食いついたんだけど、「分からないこと」については、疑問を感じる。人文系科目の「のけもの」については、実態はそうかもしれないけど、それでいいのかな。というか「分からないこと」について考えるのが結局人文系でも目的だと思っていたから。ま、人文系といっても幅が広く、一概には言えないということだけど。筆者が挙げていた「分からないもの」を扱う理系の科目ほど、「知識」のような気がするけど。

 

 結局、どんなジャンルでも「知識」と「分からないこと」があるんじゃないかということを、私は言いたいです。

 

 それにしても羽生善治氏の言葉は、その通りであり、現代ではそれが出発点のような気もします。


現実の逆襲

紅葉

 

 今年の紅葉は数十年に一度の見事なものだ。色が濃く鮮やか。よく自然の風景で「絵に描いたような」という形容があって、それは逆だろうというツッコミがあった。今年の紅葉は同様で、レタッチし補正したようだ。現実とは思えない。でもホントにそんな色なのだ。現実が仮構(人工)に追いつき追い越してきた。さあ、大変だ。

 

 ジュンク堂で立ち読みしながら、時折り書棚全体を眺めてみた。今の文学だのの書棚を見てもどうってことはない。哲学や歴史の棚を見てみると、時代の変化変遷みたいなものがわかる。ある時代、「これって絶対、究極の真実を突いている」と思えた思潮も(構造主義、ポスト同、脱構築etc)やがて色褪せたものになっている。

 

 その中で魅力が褪せない言葉もある。ヴィトゲンシュタインの「私とは私の世界である」など。ま、魅力が一番だね。

 

 9人の遺体発見事件、「クリミナルマインド」のBAUのデヴィッド・ロッシやDr.スペンサー・リードに来てもらって分析してほしい。と思ったのは私だけではないだろう。

 

 至高の紅葉を見て、感嘆もしたが、何やら不気味な感じもした。単なる自然のめぐり合わせ、プレゼントであることを祈る。


世界の神秘

 今日の星占いを見たら、どきっとする言葉があった。

 

 ----「過去を記憶できない者は、その過去を繰り返すことを運命づけられる。」(スペイン出身のアメリカの哲学者・詩人のジョージ・サンタヤーナの言葉)----

 

 テレビのクイズ番組に出てる東大卒女子みたいな記憶力でなく、本当の意味の記憶の話である。だから人は本を小説を物語を読むのか。人はどうしても、物語から脱け出ることはできないのか。いや物語でなくて生きることはできないのか。

 

 久しぶりにジュンク堂で立ち読みしていたら、こんな魅惑的な言葉があった。ジュリアン・グラック「陰鬱な美青年」の訳者解説で、グラック自身の言葉を引用していた。グラックは何を求めるか。

 

 ----「世界の神秘を、隠喩的な手法とはまったく別の仕方で犯すこと」----

 

 ああ、これだ。いい歳をして何故か或いは変な言い方だが、青春の血が騒ぎました。「希望の党」とかとは全く違う、あるいは全然別の宇宙と思えるような話です。誰かが、今の政治は思想がない、と言っていたが、思想以前に、もっと大事なものがないのだなあと思う。テレビはBS見てればよく、新聞は見ない方がいい。よっぽど健康になる。隠喩でない人生を送ることができる。と思う。

 

 

 

 


時間泥棒

 昨夜テレビで、たけし氏が負けたと思った芸人は? というのをやっていた。氏よりちょっと下の世代あるいは最近のの漫才コンビについて、サンドイッチマンは面白いとか、まあまあそうだろうなという常識的な線だった。

 

 氏より上の世代の大物についてが興味深かった。萩本欽一氏は、コント55号で二郎さんの背中に跳び蹴りしてた頃はすごいと思った、でもその後いい人になった、ファミリー的なものなど、ちょっと残念、と言っていた。

 

 立川談志師匠については、なにしろツービートを面白いと引き上げてくれた人、でも三遊亭小さん師匠みたいにかわいくならず、突っ張ったまま往っちゃった、みたいなことを言っていた。

 

 なんか矛盾してるみたいな。欽ちゃんと談志師匠の対比で。たけし氏の言ってることもうなずけるのではあるが。欽ちゃんの「めだかの兄弟」の時代は、嫌悪感しか感じなかった。遠ざかった。でも談志師匠がかわいくなっちゃったら、談志じゃないでしょ。あっ、これってたけし氏の照れ隠しなんだね、談志師匠に対する畏敬の念というかその辺の。

 

 で、最後の最後に、かなり引っ張った後に、たけし氏が負けたと思った芸人が明かされた。それが明石家さんま氏だというのだ! ひょうきん族のブラックデビルなどのアドリブ、切り返しがすごい、かなわない、というのだ。

 

 ああ、つまんない! 何十分も(CMまたいで)引っ張った挙句、「たけしが負けたと思った芸人」が、さんま氏だというのだ! これって、あんまりでないかい? 面白くも何ともない。

 

 これはたけし氏が、というのではない。テレビ局の責任だ。時間を損した。

 

 たけし氏が負けたと思った芸人。それは「タコ八郎!」 なんて答えをひそかに期待していたのだが。つまり、狂気だ。


松之丞氏の目つき

八甲田紅葉

 

 土曜日の夜、たまたまテレビのチャンネルをパッパッと切り替えていたら(あまりに各局つまらないもので)いとうせいこう氏の顔が映っていたので、ここを見た。NHKEテレで、いとう氏と講談師の神田松之丞氏の対談だった。

 久しぶりにテレビに没入した。二人ともすごい来歴で、すごいことを語っていた。神田氏=講談の話で男が女を殺す、その最中、男は雨が降ってきたのに気づいた、人間って何なんだ! 

 いとう氏=処女作以来、十何年だか小説が書けなくなってしまった、コップが落ちた、それで割れた、とか。因果関係、物語がいやになってしまい、どうしても書けなかった。だが震災を機に、書かなくてはと思うようになった。

 

 かつて20世紀のシュルレアリストたちは自動筆記など存在の根源に迫るエクリチュールの実験と格闘した。「伯爵夫人は何時に舞踏会に出かけた」式の単純過去の記述はそれだけで確固たる現実があるという欺瞞、イデオロギーだという。その成否はともかく、その後でもそれ式の小説がいっぱい書かれた。ブルトンだったか、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を引き合いに出して、あんな運動があったのに、それでもこんな書き方の小説が書かれているとは、と驚いたという。

 

 それを思い出した。

 

 両氏は言葉を使う芸術家だが、言葉の世界、芸術の世界、あるいは人文学の世界が今、あまりに不当に軽視されている。文学といえば夏目漱石、太宰治というのは勘弁願いたいが(嫌いというより生理的に受け付けない)、本物の文学だっていっぱいあった。ノーベル賞と決まればカズオ・イシグロ氏の本を買いに書店に走るなんていうのは文学とはまるで関係ない。(氏の作品の質の高低を言ってるのではない)。

 

 テレビ、新聞、ネットと目下は総選挙の話ばかり。政治、政治家なんて大嫌いだ。世の中の現実を運営していくためには必要なのかもしれない。だが必要以上に露出し、重要視されていないか。テレビなんて芸人と政治家ばかりじゃないか。

 

 そんな中でテレ東の「家について行っていいですか」は見る。あそこに出てくる一般の人たちのライフが、今の現実だ。みんな大変な事情を抱えている。それでもけなげに生きている。人間って世の中って捨てたもんじゃない、と思えてくる。

 

 政治家はこの番組を見て、よく考えてほしい。

 

 しかし神田松之丞氏の目つき、あれはすごい。今度絶対、講談を聴きに行きます。


龍見橋の風

たつみばし

 

 ひょっとしたら、一人の人間がこの世で同じ一つの時間の経過の中で、同じ人間として「生きて」いるということは、奇跡に近い出来事なのかもしれない、と気がついた。時空とか物理とか難しいことはわからない。だから理論ではなく、直観だ。

 

 それは恐らく地球という惑星に、人類という種が存在することと同じように超確率的事象なのではないか。ホントは一瞬一瞬で消えているはずの人間。それがつながってあたかも時を通じて存在しているかのように存在している、とみえる。

 

 幼い頃、若い時がなぜなつかしいか。真に科学的にいえば、同じ人間ではないのではないだろうか。紙を束ねる糸と同じように、それを束ねているのは記憶ではないか。かろうじてそれによってつながっている。事故や災害を間一髪免れて、生命感に満ち溢れるようなことなのではないか。

 

 ドラマとかでよく記憶を失くした人物が登場するが、軽々しく扱ってはいけないと思う。本当は、記憶を(とりあえず)失くするということは大変なことなのだと思う。茨城ですぐ農家ができるというものではない。人間じゃなくなるわけだから。

 

 一日一日一瞬一瞬生きているというのは、だから、もうけものなのだ。楽しまなくては。いや実際楽しいはずなのだ。


岬の西方

竜飛崎

 

 竜飛崎は風が強い。年中だ。灯台のある、北海道に面した岬もいいが、ちょっと西側の日本海を望む景色が抜群だ。権現崎や十三湖の方角だ。

 冬は閉鎖される竜泊ラインは竜飛〜小泊ラインの略称だ。かなり高い山を越え、日本海の海岸に至る。急なアップダウンを越え、霧というか雲の中を進み、降りていくと急に海の眺望が広がる。

 夏の日の、その美しさ、迫力は息をのむほどだ。日本海の意外な明るさ、青さ。青森から蟹田(外ヶ浜)、平館の陸奥湾、今別、竜飛の津軽海峡を経て、日本海側を通って津軽半島を一周すると、海のいろんな種類、津軽の広さを実感する。BGMのシャッフルは偶然にも山本コータローの「岬めぐり」、スピッツの「渚」をかけていた。「真珠とり」や「エーゲ海の真珠」もあったけど。

 

 海をいう景色を見る。すると過去に見た海の景色と重なり、そして今の景色が厚みを増す。これはいい景色だけでなく、視界何にでも当てはまる。人はそうして自分の風景を、つまりは記憶を確立している。現在確認というか再認というか。それが生きているということなのだろう。こういうことを感じるのが、夏休みだ。グアムなんかに行く必要は、まったくない。

 

 


唯一者が風なくして呼吸

 中村元著「インド思想史」の最初の方に「リグ・ヴェーダ」についての記述があり、興味深い言葉があった。

 

 ----「リグ・ヴェーダ」に現れる神々の個性が不明瞭であり、かれらの間の区別が判然としていないので、すでに「リグ・ヴェーダ」の中に、諸々の神々は一つの神の異名にほかならないという思想が表明されている。

 

 ----古来の確固たる神々の信仰が動揺し始め、旧来の伝統的観念はもはや自明のものではなくなり、いまや新しい思索が始められた。「われらの祀るべき神は誰ぞ?」。そうして神々をも超越したより根底的な世界原理を探求するに至った。

 

 ----宇宙創造に関する当時の見解は、極めて大まかに分けるならば、大体二種に区分することができる。一つは宇宙創造を建造に比し、他は出生になぞらえるのである。

 

 そして、ここだ。この文言、表現にはなぜかぐっと、ざわっとくるものがある。

 

 ----「有に非ず、無に非ざるもの」を説く讃歌においては汎神論的思索は絶頂に達した。それによると、太初には無もなく有もなく、天も空もなく、死も不死もなく、夜と昼との区別もなく、暗黒に蔽われていた。「かの唯一者」だけが風なくして呼吸していた。宇宙万有は光明なき水波であった。その唯一者に意欲(kama)が現れた。それを原動力として万有を生起せしめた。神々も宇宙の展開より後に現れ始めたという。

 ことば(Vac)を最高原理と解する思想も現れている。ことばは太初において原水から生じたものであるが、あらゆる神々の保持者であり、万有を支配し、万有に偏在している。「自分が欲する者をバラモン・仙人・賢者とも為す」という。ことばの本性は経験論的知覚の領域を超越していて、「見つつある多くの人々も、実はことばを見ざりき。聞きつつある多くの人々も、これを聞かず。」----

 

 ロックでいえばYESやサンタナのジャケットにあったような、YESであれば「海洋地形学の物語」を思わせる。

 

 無もなく有もなかったのだ。そこに、唯一者の「意欲」が現れた。それは何によるものなのか。ひょっとすると退屈しのぎ、暇つぶしだったのかもしれない。どこかの女性教祖なら、愛、というのかもしれない。いずれにしろ、ここが二重の意味で出発点なのだと思う。そしてゴールか。


calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM