時間泥棒

 昨夜テレビで、たけし氏が負けたと思った芸人は? というのをやっていた。氏よりちょっと下の世代あるいは最近のの漫才コンビについて、サンドイッチマンは面白いとか、まあまあそうだろうなという常識的な線だった。

 

 氏より上の世代の大物についてが興味深かった。萩本欽一氏は、コント55号で二郎さんの背中に跳び蹴りしてた頃はすごいと思った、でもその後いい人になった、ファミリー的なものなど、ちょっと残念、と言っていた。

 

 立川談志師匠については、なにしろツービートを面白いと引き上げてくれた人、でも三遊亭小さん師匠みたいにかわいくならず、突っ張ったまま往っちゃった、みたいなことを言っていた。

 

 なんか矛盾してるみたいな。欽ちゃんと談志師匠の対比で。たけし氏の言ってることもうなずけるのではあるが。欽ちゃんの「めだかの兄弟」の時代は、嫌悪感しか感じなかった。遠ざかった。でも談志師匠がかわいくなっちゃったら、談志じゃないでしょ。あっ、これってたけし氏の照れ隠しなんだね、談志師匠に対する畏敬の念というかその辺の。

 

 で、最後の最後に、かなり引っ張った後に、たけし氏が負けたと思った芸人が明かされた。それが明石家さんま氏だというのだ! ひょうきん族のブラックデビルなどのアドリブ、切り返しがすごい、かなわない、というのだ。

 

 ああ、つまんない! 何十分も(CMまたいで)引っ張った挙句、「たけしが負けたと思った芸人」が、さんま氏だというのだ! これって、あんまりでないかい? 面白くも何ともない。

 

 これはたけし氏が、というのではない。テレビ局の責任だ。時間を損した。

 

 たけし氏が負けたと思った芸人。それは「タコ八郎!」 なんて答えをひそかに期待していたのだが。つまり、狂気だ。


松之丞氏の目つき

八甲田紅葉

 

 土曜日の夜、たまたまテレビのチャンネルをパッパッと切り替えていたら(あまりに各局つまらないもので)いとうせいこう氏の顔が映っていたので、ここを見た。NHKEテレで、いとう氏と講談師の神田松之丞氏の対談だった。

 久しぶりにテレビに没入した。二人ともすごい来歴で、すごいことを語っていた。神田氏=講談の話で男が女を殺す、その最中、男は雨が降ってきたのに気づいた、人間って何なんだ! 

 いとう氏=処女作以来、十何年だか小説が書けなくなってしまった、コップが落ちた、それで割れた、とか。因果関係、物語がいやになってしまい、どうしても書けなかった。だが震災を機に、書かなくてはと思うようになった。

 

 かつて20世紀のシュルレアリストたちは自動筆記など存在の根源に迫るエクリチュールの実験と格闘した。「伯爵夫人は何時に舞踏会に出かけた」式の単純過去の記述はそれだけで確固たる現実があるという欺瞞、イデオロギーだという。その成否はともかく、その後でもそれ式の小説がいっぱい書かれた。ブルトンだったか、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を引き合いに出して、あんな運動があったのに、それでもこんな書き方の小説が書かれているとは、と驚いたという。

 

 それを思い出した。

 

 両氏は言葉を使う芸術家だが、言葉の世界、芸術の世界、あるいは人文学の世界が今、あまりに不当に軽視されている。文学といえば夏目漱石、太宰治というのは勘弁願いたいが(嫌いというより生理的に受け付けない)、本物の文学だっていっぱいあった。ノーベル賞と決まればカズオ・イシグロ氏の本を買いに書店に走るなんていうのは文学とはまるで関係ない。(氏の作品の質の高低を言ってるのではない)。

 

 テレビ、新聞、ネットと目下は総選挙の話ばかり。政治、政治家なんて大嫌いだ。世の中の現実を運営していくためには必要なのかもしれない。だが必要以上に露出し、重要視されていないか。テレビなんて芸人と政治家ばかりじゃないか。

 

 そんな中でテレ東の「家について行っていいですか」は見る。あそこに出てくる一般の人たちのライフが、今の現実だ。みんな大変な事情を抱えている。それでもけなげに生きている。人間って世の中って捨てたもんじゃない、と思えてくる。

 

 政治家はこの番組を見て、よく考えてほしい。

 

 しかし神田松之丞氏の目つき、あれはすごい。今度絶対、講談を聴きに行きます。


龍見橋の風

たつみばし

 

 ひょっとしたら、一人の人間がこの世で同じ一つの時間の経過の中で、同じ人間として「生きて」いるということは、奇跡に近い出来事なのかもしれない、と気がついた。時空とか物理とか難しいことはわからない。だから理論ではなく、直観だ。

 

 それは恐らく地球という惑星に、人類という種が存在することと同じように超確率的事象なのではないか。ホントは一瞬一瞬で消えているはずの人間。それがつながってあたかも時を通じて存在しているかのように存在している、とみえる。

 

 幼い頃、若い時がなぜなつかしいか。真に科学的にいえば、同じ人間ではないのではないだろうか。紙を束ねる糸と同じように、それを束ねているのは記憶ではないか。かろうじてそれによってつながっている。事故や災害を間一髪免れて、生命感に満ち溢れるようなことなのではないか。

 

 ドラマとかでよく記憶を失くした人物が登場するが、軽々しく扱ってはいけないと思う。本当は、記憶を(とりあえず)失くするということは大変なことなのだと思う。茨城ですぐ農家ができるというものではない。人間じゃなくなるわけだから。

 

 一日一日一瞬一瞬生きているというのは、だから、もうけものなのだ。楽しまなくては。いや実際楽しいはずなのだ。


岬の西方

竜飛崎

 

 竜飛崎は風が強い。年中だ。灯台のある、北海道に面した岬もいいが、ちょっと西側の日本海を望む景色が抜群だ。権現崎や十三湖の方角だ。

 冬は閉鎖される竜泊ラインは竜飛〜小泊ラインの略称だ。かなり高い山を越え、日本海の海岸に至る。急なアップダウンを越え、霧というか雲の中を進み、降りていくと急に海の眺望が広がる。

 夏の日の、その美しさ、迫力は息をのむほどだ。日本海の意外な明るさ、青さ。青森から蟹田(外ヶ浜)、平館の陸奥湾、今別、竜飛の津軽海峡を経て、日本海側を通って津軽半島を一周すると、海のいろんな種類、津軽の広さを実感する。BGMのシャッフルは偶然にも山本コータローの「岬めぐり」、スピッツの「渚」をかけていた。「真珠とり」や「エーゲ海の真珠」もあったけど。

 

 海をいう景色を見る。すると過去に見た海の景色と重なり、そして今の景色が厚みを増す。これはいい景色だけでなく、視界何にでも当てはまる。人はそうして自分の風景を、つまりは記憶を確立している。現在確認というか再認というか。それが生きているということなのだろう。こういうことを感じるのが、夏休みだ。グアムなんかに行く必要は、まったくない。

 

 


唯一者が風なくして呼吸

 中村元著「インド思想史」の最初の方に「リグ・ヴェーダ」についての記述があり、興味深い言葉があった。

 

 ----「リグ・ヴェーダ」に現れる神々の個性が不明瞭であり、かれらの間の区別が判然としていないので、すでに「リグ・ヴェーダ」の中に、諸々の神々は一つの神の異名にほかならないという思想が表明されている。

 

 ----古来の確固たる神々の信仰が動揺し始め、旧来の伝統的観念はもはや自明のものではなくなり、いまや新しい思索が始められた。「われらの祀るべき神は誰ぞ?」。そうして神々をも超越したより根底的な世界原理を探求するに至った。

 

 ----宇宙創造に関する当時の見解は、極めて大まかに分けるならば、大体二種に区分することができる。一つは宇宙創造を建造に比し、他は出生になぞらえるのである。

 

 そして、ここだ。この文言、表現にはなぜかぐっと、ざわっとくるものがある。

 

 ----「有に非ず、無に非ざるもの」を説く讃歌においては汎神論的思索は絶頂に達した。それによると、太初には無もなく有もなく、天も空もなく、死も不死もなく、夜と昼との区別もなく、暗黒に蔽われていた。「かの唯一者」だけが風なくして呼吸していた。宇宙万有は光明なき水波であった。その唯一者に意欲(kama)が現れた。それを原動力として万有を生起せしめた。神々も宇宙の展開より後に現れ始めたという。

 ことば(Vac)を最高原理と解する思想も現れている。ことばは太初において原水から生じたものであるが、あらゆる神々の保持者であり、万有を支配し、万有に偏在している。「自分が欲する者をバラモン・仙人・賢者とも為す」という。ことばの本性は経験論的知覚の領域を超越していて、「見つつある多くの人々も、実はことばを見ざりき。聞きつつある多くの人々も、これを聞かず。」----

 

 ロックでいえばYESやサンタナのジャケットにあったような、YESであれば「海洋地形学の物語」を思わせる。

 

 無もなく有もなかったのだ。そこに、唯一者の「意欲」が現れた。それは何によるものなのか。ひょっとすると退屈しのぎ、暇つぶしだったのかもしれない。どこかの女性教祖なら、愛、というのかもしれない。いずれにしろ、ここが二重の意味で出発点なのだと思う。そしてゴールか。


極限の想像力

岩木山夕景

 

 星占いに「想像力に際限はないことを認識すれば、すべての疑念が取り払われる」といった内容の言葉があって、なるほどと思った。想像力を極限まで推し進めてみること。打ち克ちがたい誘惑だ。現世を超え、宇宙を突き破る想像力。おそらく原始仏教なんかそんな感じなのだろう。禅宗でも道元なんかはその人の思想に魅力があるが、空とか無とかって果たして正しいのだろうかと最近疑問に思ってきた。何かすごい装置、からくりで、人は陥穽にはまってしまうのではないか。道元の深海を歩いて渡るみたいなイメージはすごく好きなのだが。いわゆる禅はなんだか。といって浄土系は生理的に受け付けない。古代インド思想史からまた勉強し直します。


素敵なメモリー

 なつかしの洋楽ヒットで、ジョニー・ソマーズの「素敵なメモリー」を聴いていたら、思い当たった。人間は過去をすべて、一つ一つ、記憶にしてしまうことができる。「素敵なメモリー」も「悲しい思い出」もあるだろう。

 

 だが実体験が残っているのではなく、記憶にしてしまっているのだから、何ということはないのだ。過去は、ない。ただ記憶があるだけ。これは人間の、生き延びるための、非常に都合のいい、一つの大きな能力ではないだろうか。

 

 実際の過去が今に残っていたら、生きていられないだろう。辛い、という意味でなく、物理的に。誰かの文章にあったが、地球は今現在の重みしか乗せて回っていない。過去の堆積した重みなどはない。

 

 地球は月という衛星があったおかげで重力などが絶妙に調整され、それで人間などという生物ができたのだという。古来、月を重んじてきた日本は、それをわかっていたのかもしれない。

 

 長寿の人は食生活がどうだ云々以前に、長寿の遺伝子を持っているという説もあった。でもそれだけでもないと思う。リズム、流れというか自然、地球、宇宙のリズムに乗って生きている人は長生きしそうな気がする。あるいはありもしない過去にとらわれないで生きている人。「素敵なメモリー」のノリで生きている人。「ワンモアタイム!」


弘前公園西堀の夜桜は絶景!

西堀夜景

 

 青森県弘前市の弘前公園は桜の名所だが、中でも西堀の夜桜は最高だ。天気が良く風もない夜。鏡のような水面に、照明に照らされた桜が映る。幻想的、妖艶、絶景、どんな言葉も足りない。この世のものとは思えない。見渡せる橋の上のスポットに来た人は、なかなか動かない。かなりの時間、見とれている。あっさり通り過ぎる人はまずいない。

 

 近くの演芸場では津軽民謡の生演奏をやっていて、じょんから節や津軽山唄が聞こえてくる。「望郷じょんがら」の中の、「風にちぎれて聞こえてくるよ〜」のように。幻想的な風景に合わないようでいて、合う。それが津軽であり、弘前だ。でも写真でどうやって撮っても、生の風景には近づけない。「雨月物語」や「イザナギ、イザナミ」のように水面に引き込まれそうになる。

 

 揚げたサツマイモのスティックで缶ビールを飲み、おでん、焼き鳥で熱燗のワンカップを飲み、やっと現世に戻れた。


世界の中心だと思うな! 郷愁に惑わされるな!

 先週末、テレビで久々に「ニュー・シネマ・パラダイス」を見た。アカデミー賞が近づいた今頃は名画がちょくちょく放映される。見てよかった。何度見てもいい。映画そのものも、エンニオ・モリコーネの音楽もいい。

 

 軍隊から故郷に帰ったトトにアルフレードが言う。「ローマに行け。外に出て自分の道を探せ」。そして次の言葉が印象深い。「ここが世界の中心だと思うな。不変だと思うな。2年もすれば変わる」。さらにこの言葉。「郷愁に惑わされるな!」。

 

 地方の人口減少、流出で、最近は若者に「地元で暮らそう」みたいな変なキャンペーンがある。地方の自治体に加えて、その広報予算をもらっている地方マスコミ(新聞、テレビ)がPRに努めている。地元の魅力を伝えながら。

 

 ふざけるな! と言いたい。人間、特に若者がどこに行こうと、暮らそうと自由だ。東京でも海外でも。人生は一度きりだ。どこで何をしようと自由だ。それが保障されなければいけない。地方自治体や地方マスコミは憲法違反をしている。ファシズムだ。

 

 ま、それなりの能力、夢があり目標がある若者はこんなキャンペーンに惑わされず、どこかに出ていきたい者は行く。行きたくない者は行かない。その中間ぐらいで迷っている若者に、こうしたキャンペーンが与える影響が心配だ。

 

 「きずなと思いやりが日本をダメにする」という本が出ていて、タイトルに驚いた。いい意味で。その通りと思っていたからだ。著者は進化生物学者の長谷川眞理子氏と社会心理学者の山岸俊男氏。萱野稔人氏の書評によれば

 

 ----本書を貫いているのは、人間は進化の過程でつくられてきた性質に大きく条件づけられている、という視点である。人間が利他行動をとるのも、身内びいきをしれしまうのも、裏切者を罰しようとするのも、すべて人間が進化の過程で身につけてきた性質である。社会もまた、そうした人間が環境や他の人種と複雑に相互作用することで形成されてきた。それを無視して人間社会の問題を解決することはできない。----

 

 冒頭では、いじめの問題を解決するには子供の道徳心を高めなくては、とか、少子化の問題では家庭のきずなや母性の役割の再認識が必要、といった紋切型の解決法などに対して、そうした人間への過大評価は「人間の理解として適切でもなければ、問題の解決にとっては有害ですらあること」をこの本は指摘しているという。

 

 そうした「過大評価」をするのは一体だれでしょう。自治体、教育委員会、マスコミ、一部の学者、評論家だと思う。国民にうえつけるという点ではマスコミでしょう。

 

 話は私の中では関連づけられているのだが、「ニュー・シネマ・パラダイス」はやっぱりいい。トトを演じる子役、中年になったトトを演じるジャック・ぺランがまた味わい深い。テレビも役に立つ。


ジョン・ウェットン追悼

ジョン・ウェットン

 

 今日なぜかクリムゾンを聴きたくなって、クルマでかけていたのだが、帰ってパソコン開いたら訃報が載っていた。ジョン・ウェットン、67歳。ああ、この偶然。

 

 ----英プログレッシブ・ロックバンド「キング・クリムゾン」や「エイジア」などで活躍したロックミュージシャンのジョン・ウェットン氏が1月31日、死去した。67歳だった。ジョン・ウェットン氏の公式ホームページ(HP)などで発表された。公式HPによると、長い間、結腸がんで闘病を続けていたという。1月11日には、医療チームの助言を得て新たな治療を行うため、春からの北米ツアーを欠席すると発表していた。

 1949年、英中部のダービー生まれ。70年代前半に、キング・クリムゾンに加入。ベースやボーカルを担当し、アルバム「太陽と戦慄」「レッド」などの代表作を残した。

 82年には、スティーヴ・ハウ、ジェフ・ダウンズ、カール・パーマーの各氏とエイジアを結成。ファーストアルバム「詠時感〜時へのロマン〜」が全世界で大ヒットし、その後も話題作を発表して、エイジアを世界の“スーパーグループ”に押し上げた。公式HPによると、エイジアの活動がウェットン氏のキャリアの中で「最大の商業的成功を収めた」としている。

 その後は、ソロでも活動。来日公演では日本語で来場者に語りかけるなど日本でも多くのファンを獲得した。

 ウェットン氏の訃報に接し、カール・パーマー氏と、ジェフ・ダウンズ氏はエイジアの公式HPにコメントを掲載。「世界はまた1人音楽の巨人を失った」(カール・パーマー)「彼の声は、神から与えられたものだった。彼は文字通り“特別”だった」(ジェフ・ダウンズ)などと、盟友の死を悼んだ。----

 

 あんな男性的な魅力的なヴォイス、ほかにいない。クリムゾン、エイジアといったプログレのヴォーカルとしては最高だった。思い切りロックで、ブラックで。それでいて抒情的な歌声は苦く、切なく。男の哀愁というか。もちろんベースもうまかった。

 

 どの曲もすばらしいが、今思い出されるのはアルバム「レッド」の中の「フォーリン・エンジェル」だ。堕天使。

 

 Westside skyline crying , fallin' engel dying……

 

 西方浄土が泣いているのだ、ジョンの死を悼んで。


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