弟子のままです

 さてジュンク堂での立ち読みは続く。澁澤龍彦氏についての本で中沢新一氏が書いていて、澁澤氏は上杉謙信と織田信長が好きだったという。どちらかといえば信長で、とか、鉱物から後年は水になり、小説・物語を書いていった、など、実に興味深い。澁澤氏もまた古い体質の文壇・論壇・社会に敢然と戦いを挑んだのだ。中沢氏はこの文章の中でジュリア・クリステヴァの「アブジェクシオン」理論も引用。これについては松岡正剛氏も「千夜千冊」でふれていて、おもしろいっす。(モヤさま風)

 

 帰る際、丸善ジュンク堂のPR誌「書標」(もちろん無料)をもらって、家で読んでたらこれがまた面白い。「四方対象〜オブジェクト指向存在論入門」(G・ハーマン著)の書評では、

 

 ----彼はむしろ、現象学の内破的な乗り越えを企図していることが分かる。フッサールが師ブレンターノの「志向性」概念の刷新を受けて現象学的領野の内に「対象」を見出したことを評価し、そして彼を継いだハイデガーの道具分析を援用して「実在」を掬い(救い)上げていくのだ。----

 

 ----現代の多くの実在論者が与しがちな科学的自然主義の対極に立つ。……“人間の意識は宇宙を超越し、科学という中立的な虚空からそれを観察するのではなく、実在の中間層をいつまでも掘り進んでいく”。その豊穣な中間層こそ、「対象(オブジェクト)」なのである。

 ハーマンは、ニーチェの言葉、“弟子のままでいるなら、師に報いたことにはならない”を引き、「先人に払うべき最高の敬意」は「彼らを何か別のものの先駆者へと変化させること」だと言う。----

 

 実在の中間層、豊穣な中間層を掘り進む。って魅力的だな。世知辛い、バカみたいな世の中だけどね。笑いながら掘り進もうか。

 


無数の運命

 「アレキサンドリア四重奏」でおなじみの(誰に?)ロレンス・ダレルの晩年の作品に「アヴィニョン五重奏」というのがあって、翻訳も出ている。ちょっと高いのが何しろ5巻もあるので、どうしようかと購入を迷っている。

 

 そこでまたジュンク堂で立ち読みした。立ち読みするのに値段は関係ないのだが、安い本は気軽に手を出し、高いのには恐る恐る手を伸ばす。我ながら貧乏性で苦笑いした。

 

 さて。「アヴィニョン」の一番最後の方(第5巻の終わりの方)に、こんな内容の言葉を見つけた。記憶に頼っているので、細かい字句は正確でないかもしれない。

 

 ----一人の人間にはメロンの種のように、多くの運勢がある。海岸の砂のように、無数の運命がある----

 

 その中でたった一つの運命を生きているのだという内容だ。なんだか悲しいようなうれしいような、いずれにしろ身の引き締まる思いになる。シナトラの「マイ・ウェイ」みたいに、後悔はいくつかじゃない。有り余るほどにある。でも、っという気持ちになる。

 

 またこんな言葉があった。

 

 ----今の世の中は人間の質が落ちて、知恵が単なる情報になってしまっている。----

 

 なるほどなあと思う。大体「情報」という言葉が胡散臭い。かなり、激しく、疑問に思う。知恵に対して、いい写真家の作品に対するインスタグラムみたいなものだ。

 

 クラシックをかけながらパソコンで仕事をし、ほぼ一日テレビを見なかった。ネットも見なかった。実にすがすがしい気分。昔、吉田健一氏は作品のなかで、新聞やマスコミを「青ミドロ」みたいと表した。掻き分けたいが、手が汚れてイヤというヤツ。テレビのワイドショーや一部のネットは、これだ。


虚無への線香

 読む本がなくなって、書棚から目をつむって一冊を取り出し、目をつむってあるページを開いた。中井英夫「虚無への供物」についての中条省平の評論「オイディプスの嘆き」だった。

 

 これは「虚無への供物」というより、中井英夫氏の「薔薇幻視」についての文章だった。でも結局は同じというか、でも違うという微妙なところなのだった。

 

 「薔薇幻視」は中井英夫の初めてのフランス旅行の紀行文。ブローニュの森にある薔薇園でのエピソードが感動的だ。

 

 ----中井は見学者のなかに、白い杖をついた盲目の若い女性と、彼女を支える父親か年の離れた夫らしき紳士を見かける----

 

 っと、これは中条氏の文。そして原典の中井氏のはこう続く。

 

 「二人はここというところで立ちどまり、男がその手を把って花に触れさせる。女性は深々と息を吸ってその香りを楽しんでいる。

 もう、それを見ただけで私はみっともなく泣き出していた。森の奥の薔薇園の静謐はただこのためにあったのだ……」

 

 これだけでもう何も言うことはないのだが、問題はその後だ。小生もこの本やっと見つけて買ったが、「薔薇幻視」にはなんとそのカップルの写真が載っている。これ、どうなんだろう。文章だけでよかったんじゃない? で、中条氏はこう書く。

 

 ----すかさずその写真を撮ったカメラマンのプロ意識と、泣いて立ち尽くすだけだった自分のみっともなさを対比しながら、中井は、軟弱なヒューマニズムなど捨てて狩猟本能の赴くままスクープを重ねることこそが、「この社会に生きることなのだ」と考える。しかし、その考えが「何も間違っていないから間違っている」とも思う。そうして、自分は薔薇の迷路によって、「望みもしない私自身という迷路に導かれている」と呟いて、この章を打ち切るのだ。----

 

 さらに中条氏は、これと同じことが「虚無への供物」で書かれているという。

 ----「虚無への供物」終章のクライマックス、殺人者の告発の件(くだり)である。海難事故で渦に飲みこまれる人々の群れにカメラを向ける見物人への有罪宣告。

 「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。……あの薔薇の名に因んだ詩は、何か優雅な意味らしいが、あれをもじっていえば、そんな虚無への供物のために、おれは一滴の血を流したんじゃあない」。----

 

 そう、小生もそう思う。この殺人者は虚無ではない。虚無を断固として拒否しているのだ。インスタ映え、不倫、自殺願望殺人事件、切れる老人、いじめ、相撲力士の暴行事件……。今の世の中あまりにも虚無じゃないかと思う。「この社会に生きることなのだ」「何も間違っていないから間違っている」という中井氏も、虚無に浸食されているのでは? と今になって思う。

 でも「何も間違っていないから間違っている」の言葉には、やはり虚無への拒否があるという感じもするのだが。虚無ってかっこよさそうだが、実際はひどいものなのだと思う。「虚無への供物」の殺人者に共感する。 

 

 


しばられていませんか?

 ジュンク堂で立ち読みする日々が続いたが、ついに本を購入したので、うしろめたさが消えて気持ちに余裕ができた。出版社のPR誌というものがあって、無料でもらえる。その棚にも手が伸びた。

 

 思文閣出版という出版社で出している「鴨東通信」というPR誌を手にしたら、本の紹介の惹句にどきっとした。「あなたもしばられていませんか?」。もちろんSMの本ではない。国際日本文化研究センターの「人文諸科学の科学史的研究の成果」という本、「学問をしばるもの」の惹句だった。

 

 その前の何行かでこの本の概略を記しているのだが、なるほどと思った。

 ----時局による言論の制約、マルクス主義の流行、はたまた所属学会への配慮や、恩師・先輩への気遣いなど煩わしい人間関係……。

 ----人文学の研究者たちも、知らず知らずに社会のさまざまなものに拘束されている。そんな学者たちの息苦しさの歴史を、科学史的に明らかにしようと企画された----

 

 そして最後に「あなたもしばられていませんか?」なのである。こっちは人文学の学者でもないし、学者の人はそういう制約も覚悟でその道に入ったんじゃないの?と我ながら冷ややかな目で見たが、PR誌の本編の冒頭に、この本を中心となって執筆・編纂した井上章一氏(国際日本文化研究センター教授)のインタビューが載っていて、実に率直明快な氏の意見に引き込まれた。

 

 井上氏は以前から一筋縄ではいかない思想家だと思っていたが、それは頑固だとかそういうのではない。実に柔軟な考え方をするからである。それで、氏は工学部建築科から「文転」して京大人文研の日本部にいった人だが、実に学問というのは制約があるという。

 

 たとえば考古学と文献学では同じ事象でも考え方が違う。というよりその学問の考え方でいかないと世渡りできないという。マルクス主義然り。そんな中で、氏の若い頃の著作「霊柩車の誕生」についてふれ、建築学科に来ていたスイス人が霊柩車を見て「あれは何だ。あんなものは、いろんな国を廻ってきたけど、見たことない」と驚いたエピソードがきっかけと明かす。面白い。

 

 美術史、文学、その他さまざまな人文諸科学で、さまざまな制約がある、それっておかしいんじゃないの? とケツをまくり啖呵を切っている。科学的論理的実証的に。本は2500円でこの種のものとしてはそんな高い方じゃないが、エッセンスただでもらっちゃったって感じ。いいなあ出版社のPR誌は。

 

 何も学問の、学者の世界ばかりではない。思考、感覚……あなたもしばられていませんか? 自分もしばられている? 本当は時代とかもっと大きなところでしばられているとすれば、そこをどう超えるかが大事な、おいしいところだと思いたいが、現実は実に下世話なものにしばられているのでは?

 

 「Do away with people flowing my mind!」とはジェファーソンエアプレーンの曲の一節。さあ、縄をほどこう。ってヒッピーかフラワーチルドレンみたいって青臭いといわれるかな。


荒天の恵み

光柱

 

 朝起きてカーテンを開けたら、雲間から光の柱が立っていた。しばし目を奪われた。どす黒い雲が立ち込め、雨風が強い最悪の天気。でもこんな天気だから、光の柱が見える。これモノクロで撮ったわけでなくカラーなんだけど、白黒の世界。昨日の夕方は白昼夢を見るし、今日はこれ。いつもとは違う時空にいる。


分からないもの

 産経の正論をネットで見た。筑波大大学院の古田博司教授の文章だ。最初の方の韓国の文化に関する論は、ま、そんなものかな程度に読み流していた。後半から、気になる言葉が出てきて、じっくり読んだ。

 

 ----真剣に考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。

 ----到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 ----そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できないからである。

 ----人間の体内時計はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送り込んでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。----

 

 この中で「人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できない」の言葉に、考えさせられた。それは物語ということではないか。果たして、本当にそれでいいのか。でもやっぱりそうなのか。

 

 次に筆者は「すごいことを言っている」という羽生善治氏の言葉を引用する。「分かっていることに対する答えや予測は、どう考えてもAIの方が得意です。残されている『分からないもの』に対して何をするのか、が問われる。それは若い人たちだけにかぎらないと思います」。

 

 そして筆者は「大学ではそれが今問われている」という。「うちの大学などでは、文系の人文社会科学はもう、のけもの扱いである。なぜなら知識を教えることしかしてこなかったからだ。そんなものはもうネットで簡単に手に入る」とおっしゃる。今風の女性風に反応すれば「おお!」というぐらいな断言だ。

 

 で、ほかの物理学、化学、工学、農学、生物学などは元気で、それは「全部実験という、知識以前の『分からないもの』を扱っていて、医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどはみな体得の科目で、『分からないこと』を考える余地がある」という。

 

 そうですかねえ? どうだろ。「因果関係のストーリー」のところには食いついたんだけど、「分からないこと」については、疑問を感じる。人文系科目の「のけもの」については、実態はそうかもしれないけど、それでいいのかな。というか「分からないこと」について考えるのが結局人文系でも目的だと思っていたから。ま、人文系といっても幅が広く、一概には言えないということだけど。筆者が挙げていた「分からないもの」を扱う理系の科目ほど、「知識」のような気がするけど。

 

 結局、どんなジャンルでも「知識」と「分からないこと」があるんじゃないかということを、私は言いたいです。

 

 それにしても羽生善治氏の言葉は、その通りであり、現代ではそれが出発点のような気もします。


現実の逆襲

紅葉

 

 今年の紅葉は数十年に一度の見事なものだ。色が濃く鮮やか。よく自然の風景で「絵に描いたような」という形容があって、それは逆だろうというツッコミがあった。今年の紅葉は同様で、レタッチし補正したようだ。現実とは思えない。でもホントにそんな色なのだ。現実が仮構(人工)に追いつき追い越してきた。さあ、大変だ。

 

 ジュンク堂で立ち読みしながら、時折り書棚全体を眺めてみた。今の文学だのの書棚を見てもどうってことはない。哲学や歴史の棚を見てみると、時代の変化変遷みたいなものがわかる。ある時代、「これって絶対、究極の真実を突いている」と思えた思潮も(構造主義、ポスト同、脱構築etc)やがて色褪せたものになっている。

 

 その中で魅力が褪せない言葉もある。ヴィトゲンシュタインの「私とは私の世界である」など。ま、魅力が一番だね。

 

 9人の遺体発見事件、「クリミナルマインド」のBAUのデヴィッド・ロッシやDr.スペンサー・リードに来てもらって分析してほしい。と思ったのは私だけではないだろう。

 

 至高の紅葉を見て、感嘆もしたが、何やら不気味な感じもした。単なる自然のめぐり合わせ、プレゼントであることを祈る。


世界の神秘

 今日の星占いを見たら、どきっとする言葉があった。

 

 ----「過去を記憶できない者は、その過去を繰り返すことを運命づけられる。」(スペイン出身のアメリカの哲学者・詩人のジョージ・サンタヤーナの言葉)----

 

 テレビのクイズ番組に出てる東大卒女子みたいな記憶力でなく、本当の意味の記憶の話である。だから人は本を小説を物語を読むのか。人はどうしても、物語から脱け出ることはできないのか。いや物語でなくて生きることはできないのか。

 

 久しぶりにジュンク堂で立ち読みしていたら、こんな魅惑的な言葉があった。ジュリアン・グラック「陰鬱な美青年」の訳者解説で、グラック自身の言葉を引用していた。グラックは何を求めるか。

 

 ----「世界の神秘を、隠喩的な手法とはまったく別の仕方で犯すこと」----

 

 ああ、これだ。いい歳をして何故か或いは変な言い方だが、青春の血が騒ぎました。「希望の党」とかとは全く違う、あるいは全然別の宇宙と思えるような話です。誰かが、今の政治は思想がない、と言っていたが、思想以前に、もっと大事なものがないのだなあと思う。テレビはBS見てればよく、新聞は見ない方がいい。よっぽど健康になる。隠喩でない人生を送ることができる。と思う。

 

 

 

 


時間泥棒

 昨夜テレビで、たけし氏が負けたと思った芸人は? というのをやっていた。氏よりちょっと下の世代あるいは最近のの漫才コンビについて、サンドイッチマンは面白いとか、まあまあそうだろうなという常識的な線だった。

 

 氏より上の世代の大物についてが興味深かった。萩本欽一氏は、コント55号で二郎さんの背中に跳び蹴りしてた頃はすごいと思った、でもその後いい人になった、ファミリー的なものなど、ちょっと残念、と言っていた。

 

 立川談志師匠については、なにしろツービートを面白いと引き上げてくれた人、でも三遊亭小さん師匠みたいにかわいくならず、突っ張ったまま往っちゃった、みたいなことを言っていた。

 

 なんか矛盾してるみたいな。欽ちゃんと談志師匠の対比で。たけし氏の言ってることもうなずけるのではあるが。欽ちゃんの「めだかの兄弟」の時代は、嫌悪感しか感じなかった。遠ざかった。でも談志師匠がかわいくなっちゃったら、談志じゃないでしょ。あっ、これってたけし氏の照れ隠しなんだね、談志師匠に対する畏敬の念というかその辺の。

 

 で、最後の最後に、かなり引っ張った後に、たけし氏が負けたと思った芸人が明かされた。それが明石家さんま氏だというのだ! ひょうきん族のブラックデビルなどのアドリブ、切り返しがすごい、かなわない、というのだ。

 

 ああ、つまんない! 何十分も(CMまたいで)引っ張った挙句、「たけしが負けたと思った芸人」が、さんま氏だというのだ! これって、あんまりでないかい? 面白くも何ともない。

 

 これはたけし氏が、というのではない。テレビ局の責任だ。時間を損した。

 

 たけし氏が負けたと思った芸人。それは「タコ八郎!」 なんて答えをひそかに期待していたのだが。つまり、狂気だ。


松之丞氏の目つき

八甲田紅葉

 

 土曜日の夜、たまたまテレビのチャンネルをパッパッと切り替えていたら(あまりに各局つまらないもので)いとうせいこう氏の顔が映っていたので、ここを見た。NHKEテレで、いとう氏と講談師の神田松之丞氏の対談だった。

 久しぶりにテレビに没入した。二人ともすごい来歴で、すごいことを語っていた。神田氏=講談の話で男が女を殺す、その最中、男は雨が降ってきたのに気づいた、人間って何なんだ! 

 いとう氏=処女作以来、十何年だか小説が書けなくなってしまった、コップが落ちた、それで割れた、とか。因果関係、物語がいやになってしまい、どうしても書けなかった。だが震災を機に、書かなくてはと思うようになった。

 

 かつて20世紀のシュルレアリストたちは自動筆記など存在の根源に迫るエクリチュールの実験と格闘した。「伯爵夫人は何時に舞踏会に出かけた」式の単純過去の記述はそれだけで確固たる現実があるという欺瞞、イデオロギーだという。その成否はともかく、その後でもそれ式の小説がいっぱい書かれた。ブルトンだったか、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは」を引き合いに出して、あんな運動があったのに、それでもこんな書き方の小説が書かれているとは、と驚いたという。

 

 それを思い出した。

 

 両氏は言葉を使う芸術家だが、言葉の世界、芸術の世界、あるいは人文学の世界が今、あまりに不当に軽視されている。文学といえば夏目漱石、太宰治というのは勘弁願いたいが(嫌いというより生理的に受け付けない)、本物の文学だっていっぱいあった。ノーベル賞と決まればカズオ・イシグロ氏の本を買いに書店に走るなんていうのは文学とはまるで関係ない。(氏の作品の質の高低を言ってるのではない)。

 

 テレビ、新聞、ネットと目下は総選挙の話ばかり。政治、政治家なんて大嫌いだ。世の中の現実を運営していくためには必要なのかもしれない。だが必要以上に露出し、重要視されていないか。テレビなんて芸人と政治家ばかりじゃないか。

 

 そんな中でテレ東の「家について行っていいですか」は見る。あそこに出てくる一般の人たちのライフが、今の現実だ。みんな大変な事情を抱えている。それでもけなげに生きている。人間って世の中って捨てたもんじゃない、と思えてくる。

 

 政治家はこの番組を見て、よく考えてほしい。

 

 しかし神田松之丞氏の目つき、あれはすごい。今度絶対、講談を聴きに行きます。


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