村八分の対象探しの日本

 ある本の書評の中に、次のような言葉をみつけた。

 

 ----1970年代の歌謡曲「木綿のハンカチーフ」を聴くと著者の知人は泣くという。この曲は日本が農村から資本主義社会へ変わる時期を体現し、当時青年だった者には伝統社会を置き去りにしたことに「うしろめたさ」があったと書く。この逡巡が、彼らの世代のパッションの源流なのかもしれない。----

 

 もうちょっと前の箇所には「旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったもの」という言葉もあった。

 

 そうした日本の古い体質、イエやムラ社会を、果たして置き去りにしてきたのだろうか。表面的にはそうかもしれない。しかし一皮むくと、そんな深い所でもなく、すぐにそうしたものが見える、根強く残っていると思うのは小生だけだろうか。時代の先端を切り開くといわれた(今は誰もそう思っていない)マスコミも、結局は、「村八分」の対象を探すのに躍起となっているだけだ。

 

 パラリンピックのメダリストのインタビューを聞いて、思った。シンプルで率直で真摯なのだ。なぜか。健常者のオリンピックのメダリストたちが二言目、いや一言目にいうのは「支えてくれた人たちへの感謝」である。これがわずらわしい。それは言わなくても、当たり前のことじゃないか。

 

 パラリンピックの人たちは、そんなに言わない。自分のことが主だ。だからといって「支えてくれた人たちへの感謝」がないわけじゃない。むしろ大きすぎるのだ。個人としての主体性が強いのだと思う。それは苦しさを知ってるからだ。欧米のインタビューで「支えてくれた人たちへの感謝」「応援よろしくお願いします」といった言葉は出ないという。そりゃそうだ、やったのはその人だもの。ま、日本ではマスコミが強要してるんだね。

 

 テレビでは相変わらずグルメ番組が多い。最近のパターンは料理を口に入れた瞬間、顔をちょっとしかめるように、絶句して、それから何か言葉を発する。いい加減にしろ! といいたい。口に入れた瞬間、味がわかるようなものは料理ではない。ま、そんなのはわかってるでしょ、ご愛嬌ご愛嬌、といったところなのだろう。

 

 おいしい料理、食べ物に絶対的な基準はない。ないのに、あるフリをする。それほどまでに絶対的な基準が欲しいのだろうか。あるシチュエーションである人が供してくれた料理、といえないものでも、一杯のお茶漬けでも、食べる人には死ぬほどおいしいことがあるだろう。絶対的な基準がどうしても欲しい、というのは、新聞なんかがよく使う表現だが、軍靴の音がひたひた聞こえてくる、まさにそれではないか。新聞なんかとは180度違う方向から、それを憂う。というか嫌いだ。

 

 っていうか日本は昔から全然変わってないんだなあと思う。マイナスの意味で感心する。


真如の月を眺めあかさん

 テレビの平昌五輪メダリストに関する放送もようやく一段落したようだ。テレビだけじゃないが、会見だの報告会だの、同じようなのをなんであんなに何回もやらなくちゃいけないのか。選手の皆さん、疲れてるうえに同じこと何回も聞かれて、大変だろう。中にはもう次の試合に行く人もいる。なんであんなにインタビューしなくちゃいけないの? 意地汚いというか、むさぼり、しゃぶりつくすみたいな。昔の悪い男が女にとことん貢がせるみたいな。日本のいやな部分だ。

 

 と思ったら女子レスリングに関するパワハラ問題。いやんなっちゃう。でもスカッとしたのが、コメンテーターで出た長田渚左さん。実に明快! ズバッズバッと語ってくれる。で、感心したのが、知らないことについては「知りません!」「わかりません!」とはっきり言うところ。いよっ! 男前! ほとんどのコメンテーターは知ったかぶりばっかり。大体、そんな知識ないくせに、知らないことに関してどうしてあんなにコメントできるのか。テレビ局はおそらく視聴者目線、素人目線でというだろう。そんなの求めちゃいません。プロの、玄人のコメントが聞きたい。

 

 あ〜あ、テレビって。と思っていたら、テレビで視聴できることにも捨てがたいものもあるなあと思わせてくれたのが、昨夜Eテレで見た「玉三郎 歌舞伎女方考」。すごいね、驚異だね。「京鹿子娘道成寺」。玉三郎さんの舞台を流し、その後玉三郎さんが解説するのだが、ただの解説ではない。この世の不条理への恨み、娘が女になってしまったことへの恨みを表現しているのです、とか。

 

 さらに舞は詩である、とか、演じるものが観客に入り込み、観客との間で生まれるのです、とか。「娘道成寺」の言葉、「真如の月を眺めあかさん」には参った。今一番あこがれるのはこの境地だ。それにしても、玉三郎さんのあの舞、動き、相当な体力と鍛錬、研ぎ澄まされた感覚が必要だろう。フィギュアスケートなんて足元にも及ばない。

 

 歌舞伎は、梨園とかえらそうなところが嫌いだったが、その中で松本白鴎さんなんかはその辺わかっているような気はするが、いずれにしても、相撲と同様、実際以上に高貴なものにとらえられていると思っていたが、玉三郎さんは違います。詩であり芸術であり、それ以上のものです。もし玉三郎さんが、といっても誰でもいつかは必ずこの世を去るのでしょうが、同じような存在はもういない。それを思うと悲しい。でも今ハイビジョンで見ることができるのはうれしい。Eテレ、ありがとう。でも今度必ず、歌舞伎座で実物見たい。絶対見る。


AI(実は人類)対人類、勝負あり!

 昨夜のNHK「超絶凄ワザ AI対人類3番勝負」は面白かった。3番勝負とは、デパートのベテラン販売員つまり洋服選び、タクシードライバー、俳句の3種目。洋服選び&コーディネートは、着る女性が選んだ方が勝ち。タクシーはAIの指示を受けた若い女性ドライバーと男性ベテランドライバーが、客の乗降回数を競う。俳句は俳句家3人がいい句を選ぶ。

 

 結果はほとんどで人類が勝った。タクシーでは、AIが人の多く集まる地点などをリアルタイムで分析するが、ベテランドライバーは乗せた客との会話で、どこで何のイベントがあり大勢が集まる、何時ごろ終わるなどの情報を得て、口コミを生かし、また経験から客がいそうな場所に行く。オジサンドライバーが勝ったときは、なんだかうれしかった。

 

 洋服と俳句に共通しているのは、AIの選択、作品が意外にオーソドックスであることだ。本来の勝負とともに、どっちがAIの作品かもクイズみたいにしていたが、ほとんど当たっていた。オーソドックス、無難、つまり面白くない。比べて人類がつくり人類が選んだ作品は、ちょっと奇抜なところもあるのだ。そこが、ファッションでも俳句でも魅力となっている。

 

 AIの作品には破綻、意外性がない。洋服もそうだが、俳句では意外な言葉の連なりがあるのでは、と期待したが、ない。俳句の専門家はAIを担当した人たちに、何かが足りない或いはシステムとして間違ってるのではないか、とちょっと厳しい口調で言っていた。ここは司会のジュニアではないが、夏井先生の意見も聞きたかった。

 

 人類がほとんど勝ってうれしい面もあったが、AIがもっとやってくれると期待もしていた。今回の勝負を見て、AIもやはりそのシステムなどをつくる人間の能力によるのだろうなと思った。結局、人類対人類なのだ。

 

 それと俳句のところで、システムをつくった側が何百万語だかを入れたとか豪語?していたが、人間の脳はそんなもんじゃないんでないかい? もっと複雑でないかい?


流刑囚、脱走者の自由

 小栗虫太郎の「海螺斎沿海州先占記」という小説は、何度読んでもわくわくさせてくれる。この作品は半分史実、半分空想だと小栗が序章で紹介している。江戸時代の日本の冒険家(?)で、江波戸海螺斎(えばと・べえさい)という人物が、沿海州からウラジオストックを経て、無名の地、ある土地に着く。

 

 ----そこには自由を求めて逃げだしたシベリヤ流刑囚の脱走者や、コサックや、満土人の人殺しや、涜職、清朝官吏などの逃亡者が、実に妙な具合に風のまにまに集ったかのごとく、その人外境にふしぎな一鄹落をつくっていたのである。----

 

 ----しかしそこは、地味は痩せ、半年以上も氷にとざされる。まことに、かれら逃亡者の生活は泥よりも襤褸よりも、いや、万物の霊長でありながら狼群に圧せられるほど、惨めであったのだ。----

 

 海螺斎は山中の川の近くでロシア人らしい男と出会う。その男はいう。

 

 ----俺かね、おれはアヤンから来たよ。黒竜江から陸呈七百露里ほどのところに、アヤンという港がある。そこに、俺がいたといや、いわずと知れた流刑囚だ。また、ここに今いるというのも、脱走の果のことはお察しのとおりだよ。しかし君は、なぜ流刑地だと云ってもここと比較にならんアヤンを出て、こんな獣暮しをしなきァならないところへ、なぜ俺がやってきたのだろうと……、不審がるだろうが、その気持ちだけは分るまい。そいつはね、俺たちほどになると、ひじょうに厳格になってくる。自由と云うものの本質を、徹底的に究明するようになる。むろんアヤンは、野っ放しだが、青空下の牢獄だ。いや、このシベリヤ全体が、広闊たる監房だ。では、自由はどこにある? 自由とは何ぞやーーとなったのだ。しかしそれは、俺たちにはたった一つの場合しか自由はない。−−追われることだ。こいつ捕まえてやろうと、追っかけられてる間こそ……。ハッハッハッハ、この逆説は君にはわかるまい----

 

 流刑囚の脱走者が追いかけられている、それが自由だ、というのだ。男はアヤンから逃げ、氷の上に乗り出し、嵐に遭い、「まるで岩を千切ってくるような烈風と、砂嵐のような雪」に見舞われながら、その土地にたどり着いた。

 

 ----それからだ。くる日くる日の滅入るような単調さ。この平板無味の世界に、とにかく俺は生きていた。兄弟よ、本音を吐きァ、自由は懲りごりだ----

 

 と、からからと笑ったという。うーん。ガーン。

 

 


置かれた場所で咲けなくていい

 新聞の書籍広告を見て、ドキッとした。こんな言葉が目に飛び込んだ。

 

 「生きる意味なんて見つけなくていい」「置かれた場所で咲けなくていい」

 

 かなりのインパクトだ。置かれた場所で咲けなくていいなんて「世界で一つだけの花」に五寸釘刺すパワーだ。書籍名は「禅僧が教える 心がラクになる生き方」。著者は青森県の恐山菩提寺の住職。わああっ。

 

 読者の反響にも、この本のこんなのが引用されていた。

 

 「自分を大切にすることをやめる」「なりたい自分になれなくたっていい」。

 

 大体この手の本は嫌いなのだが、これにはひかれた。反語的表現といえばそれまでだが、要するに今の世の中、上記の反対の言葉があまりに、当たり前のように支配しているから、新鮮な驚き、共感を覚えるのだと思う。

 

 昨夜WOWOWで放映の映画「未来よ こんにちは」で、施設に入っている老母が食事をとらなくなり、悪い夢ばかり見ているという話があって、それは寂しいからだという。悪い夢というのは、困ったこと、わずらわしい状況といったことなのだが、お年寄りはそれでもそれが欲しい、あこがれるというのだ。

 

 恐らくそうした夢は、心の平衡を保つための正常な作用なのだと思う。寂しいというのは、映画では娘がちっとも面会に来ないという実際的な意味だったが、仮にしょっちゅう来たり、家に一緒にいても、「寂しい」のだと思う。孤独の寂しさでなく、人生の終盤になって特にやるべきこともない所在なさの寂しさなのだ。体の自由がきいて、いろんなことをやれるのだったら、そんなに感じなくてもいい寂しさなのかもしれない。安楽に、ベッドやロッキングチェアにいて、当面心配することわずらわしいことがないからいい、ということではない、ということだ。

 

 恐山の禅僧の言葉、カッコいい。本当にその通りにするのは、逆にすごく難しいのかもしれないが。禅の修行のように。同じ青森の昭和大仏の住職は「世の中なかなか思い通りにはならないが、やった通りの結果にはなっている」といっていた。恐るべし青森。

 

 


静かな実況

 平昌五輪、アイスダンスフリーの上位2組の演技はすばらしかった。まさに芸術。スケートでここまで表現できるのかと思う。フィギュアより、見てて感動する。実況、解説とも口数少なく(やっぱり感動していたからか)、静かなのもよかった。今回は音声多重で言葉なし、会場音だけってできないんだね。残念。

 

 複合見てていつも思うが、解説のO氏、なんであんなにえらそうでうるさいのか。たいしたこと言ってないし、いい間違えてるし。

 

 それに比べて(比べたくもないが)、ジャンプの原田さんの解説、いいなあ。面白いし、出場選手たちへの愛情が感じられる。原田さんと居酒屋で一杯やりながら、いろいろ今までの経験から面白い話なんか聞けたら、楽しいだろうなあ。ホントいい人だなと思う。船木さんもジャンプという競技の機微がわかってよかった。

 

 宇野昌磨選手の話で面白かったのが、待っている間、他の選手の演技を見て、得点が何点か当ててるってやつ。「暇つぶしに」って言ってた。これを聞いた荒川静香さんが「はっ!」って絶句ぎみに、素で笑ってた。あきれてたというか。

 

 カーリングって、戦略や戦術、その局面に応じた臨機応変の作戦も大事だが、根本的な思想がないとだめだと思う。方針というか姿勢というか。その表現の場が、試合なのだと。

 

 小平さんと李相花の感動的なシーンは、五輪が政治で汚されそうだったのを、スポーツの力できれいに吹っ飛ばしてくれた。開会式が終わって本格的に競技が始まる頃、二宮清純氏がテレビで「これからはスポーツの力。スポーツは微力かもしれないが無力ではない」と言っていた。芸術、文化もそうだが、政治には負けない。

 

 でも、じゃないけど、スケートのショートトラックって、政治みたい。やったら性格悪くなりそう。あれを人生の縮図とは思いたくない。誰もそう言ったわけじゃないけど。昔、ローラースケートでガンガン当たりぶっ飛ばすのあった。あれの方がまだマシ。

 

 


テレビスポーツ教室かい? 五輪中継

 羽生、宇野両選手おめでとう。昨日のショートでネイサン・チェンがこけた時点で、羽生選手の勝ちと見ていたが、その通りになった。「五輪の戦い方を知っている」という羽生選手の圧力に、チェンがやられた。演技で得点を競う競技だが、目に見えない戦いがある。まさにスポーツは、殺るか殺られるか、つぶし合いなのだなあと思う。

 

 さて、カーリングの実況を見て思うのだが、アナウンサーがうるさい。のべつ初歩的なカーリングの規則をしゃべりまくっている。見ている人みんなもうわかってるよ。石崎さんの解説もっと聞きたいよ。他の競技でもそうだが、規則ばっかりしゃべってるアナウンサーってほかに知識がないから、実は詳しいネタがないから、時間つなぎにルールを解説する。わかってる人はもうわかってる。わからない人は聞いてもわかりません。だから意味がないんですよ。

 

 それとワイドショー、ニュースショーでスタジオのメーンキャスターと現地の解説者のやり取りで、タイムラグでイライラすることの多いこと(五輪だけじゃないけど)。解説者の話が大事なところに差し掛かると、キャスターが質問して、タイミングがかち合って、両者が黙り、またかち合う。その繰り返し。キャスターは少しだまって解説者のいうことを聞きなさい。

 

 この前、ある司会者が「私しばらく言わないので、お願いします」と現地解説者に振って、すごくよかったことがあった。視聴者のことを考えている。羽鳥さんだったかなあ。ほかのことではかなり首をかしげざるを得ない人だが。自分の口数が多いのが仕事をしているアピールになると思ったら大間違い。辛坊治郎氏までこの点、今朝はだめだった。佐野さんにしばし言わせなさいって。

 

 上記に共通して言えるのは、キャスターとして「視聴者にわかりやすく伝えるため」という間違った考え方、えらそうな姿勢、根本的な妄信、そして人がわかりやすく伝えれば人はわかるといった「信仰」があるのだと思う。そんなことはないのだ。人から人に何かが正しく伝わるって、かなり難しい。至難の業といってもいい。あるいは視聴者、国民を素人とバカにしちゃいけない。みんな知ってるって。で、繰り返すが、知らない人はどう解説されても知らないって。

 

 羽生が演技に入る直前、右手でつくったかたちは、キツネ。フォックスゴッド。まさに陰陽師、安倍晴明。例えば、優勝後の羽生の言葉を、誰かが代弁してしゃべって、彼の言わんとすることが正しく伝わるだろうか。羽生の口から(テレビ中継ではあっても)直接聞かないと、意味がないのではないか。

 

 NHKのスタジオの総合司会みたいなの、だめだね。男も、不手際で、かんでばっかし。ベテランそうなのに。昨日なんか、女子ばっかりで、そこら辺のガールズトークだもん。で、「陣内さんいかがですか」状態ばっかり。専門外の人に聞いてもしようがないでしょう。

 男女差別するつもりは毛頭ないが、スポーツについて同じぐらいの知識しかない男女のアナウンサーがいたとして、男性はしゃべりが仮になんとかなったとしても、女性はいかにも知らなさそう、付け焼刃、無理してるって感じがするのは、なんでだろうなんでだろう、なんでだなんでだろう〜お〜お〜。

 

 あっ、今NHKの男が、「途中ですが」って神妙な顔で言ったので、何か重大な事件か事故でもあったのかと思ったら、羽生、宇野両選手が現地のNHKのスタジオに来てくれたのでインタビューをお送りします、だって。もっと明るい顔しろよ! 小さいことのようで、大事なことだと思う。「伝える」ことが仕事でしょう。言葉だけでなく、表情でも。やっぱりこの人、わかってない。

 

 実際スタジオでインタビューしてるアナウンサーは、いいなあ。いい質問して、いい答を引き出している。

 

 


月に叢雲大笑い

 朝ドラ「わろてんか」で、人に笑われるのと人を笑わせるのは違う、とかいうが、昨今はその違いが薄れてきたんとちゃうか、と思う(関西弁うつった)。お笑い番組はもちろん、ワイドショーでも笑いが大きな比重を持つ。芸人同士はお互いの笑いに寛容で、笑ってばかりいる。なぜなのか。ここで、上質なユーモアはいいけどね、と気取るのもまた、なんだかなあ。メディアによってでなく、人と人の直接の会話で、笑いがあればいいな、と思う。あるいは景色や自然や動物を見て。思い出し笑いでなく。

 

 ----唐代の禅僧薬山和尚はある日、僧堂の裏手にある山上を散歩していた。夜中になって薬山はその山上で、突然、大声で一笑した。近隣の村々の住民たちは、その夜同じ笑い声を聞いて、口々に言った。「東隣で人の笑う声がした」。翌朝になって、村々の者は笑い声の主を求めていっせいに東へ東へと探して、ついに薬山の寺にたどりついてしまった。とりつぎに出てきた弟子によれば、「たしかにゆうべは和尚が山頂で大笑いするのが聞こえた」と言う。この話は有名になり、それを伝え聞いた薬山の友人李総理はこんなほめ歌をつくった。

 「静かな住居を見つけて、飾らぬ心を楽しみ、年中、客を送ることもしない。あるときは、弧峰頂上にのぼって、雲のうちから顔を出す月に大笑いする」。----(中沢新一「森のバロック」)

 

 ----この禅僧は月が雲間から顔を出すことによって、大空のしめす連続体にいわば「句点」が打たれたこと、連続体に切断が飛び込んできたこと、ただそれだけのことに身体全体を揺すらせて、笑っているのである。光の放射が、突然に大空に広がり、明と暗の輪郭の明確な差異が、目に飛び込んでくる。その瞬間に、笑いがはじけとぶのだ。空や無や無限そのものから、笑いが生じてくることはない。空を横切る光が、そこに溝や痕跡を刻み込んだとき、空の連続体に、光によって「特異点」が打たれ、トポロジーからひとつの空間構造が発生するときに、存在と意味が生まれ出るまさにその一瞬をとらえて、禅僧は無邪気な大笑いで、あたりを揺るがすのである。----(同上)

 

 上記は中沢氏の「チベットのモーツァルト」フランス語版の一部の日本語訳だそうで、ジュリア・クリステヴァの「笑い」論から始まり、ラブレー的哄笑、スウィフト的嘲笑、チャップリン的な笑いとは違う、東洋の笑い、タオの笑いを指摘する。

 なんだか吉田健一氏の小説「金沢」などの著作を思い出す。そんな世界だ。吉田氏の「金沢」とプログレッシブロックのYESの代表作「危機」(Close to the edge)は、ほぼ同じ年代につくられたが、驚くほど似ている。そういえば「危機」はヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」にインスパイア―されてできた。そういえば吉田氏はケンブリッジ大に学び、英国の文化に通じている。話がそれたが、みんなつながっている。わっはっは。


貝殻減らして

 車で音楽をシャッフルでかけてたら、弘田三枝子さんの初期のヒット曲「渚のうわさ」が流れた。橋本淳作詞、筒美京平作曲というからプロの大御所の作品である。確か出たのは60年代、若い女の子のせつない恋心を、弘田さんが時に繊細に、時に持ち前のパンチ力も生かしながら歌い上げる。いい歌だな、と思う。

 

 終わった直後、カミさんが「えっ!?」「どういう意味?」と声を上げた。「何?」「貝殻へらしてって、どういうこと?」一瞬置いて、小生ふき出してしまった。問題の歌詞は後半のこの部分である。正しくは

 

 ----あなたの いない渚は 青い星屑だけが 貝殻 照らして 濡れていた----

 

 いい歌詞でしょ、ここがポイントでしょ、その「照らして」を「減らして」と聞き違えるなんて。三宅裕司さんの奥さんみたい。すぐに訂正してから、空想がふくらんだ。「貝殻を減らすって大変だろうな。石かなんかにこすって、一つなくなるまでどれぐらい時間がかかるだろう。大きさにもよる、貝の種類にもよるけど」と、どうでもいいバカな会話。

 

 仏教の億劫という言葉が浮かぶ。天女の衣ですり減る岩山。渚に無数にある貝殻、全世界のそれをこすって減らす所要時間。あるいは「一つ積んでは父のため、一つ積んでは母のため」。さざれ石じゃないけれど、気の遠くなるほど長い、無限の時間には石、岩とか固いものがふさわしいみたい。するとカミさんが言った。

 

 「別に一つずつ石にこすらなくてもいいんじゃない? ショベルカーかなんかで大量に運んで処分しちゃえば?」

 

 ショック! こっちはなんとスケールの小さいことを考えるのだろう。そうか、「貝殻を減らす」にはブルトーザーですくってダンプカーで運べばいいんだ。っていうかそもそもあんたの聞き違えだろうが、きっかけは。ことほど左様に、女性は大胆、男は小さい。って小生だけの話を敷衍してはいけないか。

 

 神経をすり減らすようなことも少なくないけど、ショベルカーで運んじゃえばいいんだ。処分場はどこ?


ビロード張りの裏面

 ----そこから、植物学の認識論的な優位がもたされる。というのは、語と物とに共通の空間が構成する格子は、動物よりも植物をはるかによく受け入れるし、植物の場合のほうがはるかに「暗い」ところがすくないからだ。動物の場合には目に見えないおおくの本質的器官が、植物では目に見えるため、直接知覚できる可変要素から出発する分類上の認識は、動物の領域よりも植物の領域においてはるかに豊富かつ整合的だったのである。したがって、ふつう言われていることは逆転させなければならぬ。十七、八世紀において植物に関心が寄せられたから、分類の方法が検討されたのではない。可視性の分類空間においてしか知ることも語ることもできなかったからこそ、植物についての認識が動物についてのそれにたいして優位に立たざるをえなかったのだ。----

 

 またまた中沢新一「森のバロック」から。上記はその中でミシェル・フーコーの「言葉と物」を引用しているところ。フーコー得意の、因果関係の逆転がここにもあらわれている。日本では磯田光一氏なんかも得意技にしてた。さらにこれ。

 

 ----もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれを死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえぬということ、それこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語(ランガージュ)を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強付会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、「ソドムの百二十日」は(キュビエの)「比較解剖学講義」のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ。----

 

 本はテーマに沿ってまともに読むのが一番正しいというより面白いのだが、いろんな読み方ができるのも楽しい。上記のフーコーの「生きているから殺すのである」、サドを登場させて「ビロード張りの裏面」なんか、おなじみのフーコー節って感じ。

 

 この「森のバロック」という本は1992年刊行で、書かれたのは80年代からのようだ。南方熊楠についての本だが、レヴィ=ストロースやフーコーやドゥルーズ、クリステヴァなどの引用がなされている。なつかしいというか、でも彼らの磁力はまだ現在にも及んでいると思う。もっと味わいつくしてもいいのではないか、その果実を、搾り汁を、ワインを。

 

 


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