問題だけで答なしが問題

 日本の今の時代のヒット曲を聞いて、なぜ物足りない感じがするのか、考えた。問題提起にはなっていても、答がないからだと思った。歌に問題提起か、といわれるかもしれないけど、どんな音楽でも、あるいはどんな作品(文学、美術、映画その他)でも、問題提起と答、という構造があると思う。答の方は音楽でいえばサビとかカタルシスとかと似ているが必ずしも同じではない。また問題提起イコール答という場合もなくはないと思う。

 

 日本の昔の歌は問題提起に必ず答があった。昨夜、脳ベルSHOWヒットスタジオを見た。つのだひろさんなんかお元気で今も声量たっぷり。そしてたとえば橋本淳・筒美京平コンビの作品などに接すると、問題提起と答がちゃんとあると思う。今の時代のヒット曲にはそれがない。問題だけ出されて、最後は突き放される。欲求不満で、寂しく、空しい。問題提起したのはそっちなんだから、あとはちゃんと始末してくれよ、と言いたくなる。

 

 これは今の時代のテレビなどマスコミ報道でも同じではないだろうか。毎日毎日、「問題」の集中豪雨だ。答は示されない。永遠に先送り、というか担保もしない。投げ掛けっ放しの連続、奔流、堆積だ。目に見えない問題で飽和状態だ。

 

 だがしかし、それらマスコミによる「問題」は、実はないのだ。「現実」と同じように。その点で、音楽や芸術、いわゆる作品と呼ばれるフィクションは違う。問題提起はしている、だから責任取ってよ、ということなのだ。どうオチをつけるか、とりあえず決着させるか。現代の小説にもいえるが、あとは読者の感じ方考え方とらえ方という突き放しは、力量のなさだと思うべし。

 

 昔のプログレッシブロックのバンドでオランダのフォーカスというのがあった。ほとんどがインストルメンタルで、クラシックをよく取り入れて、抜群のテクニックとセンスがあった。その3枚目アルバムの中に「ANSWERS?  QUESTIONS!  QUESTIONS?  ANSWERS!」というのがあった。この頃のプログレには(だけでないが)問題提起と答がちゃんとありました。

 

 今日のNHKEテレ「日曜美術館」にロバート・キャンベルさんとジローラモさんが共演でびっくり。面白い取り合わせ。この日のテーマは建築・デザイン・機能的に見た日本の美術館。驚いたのは、ジローラモさんはなんともともと建築家だったのだ! 彼が言っていて、日本で暮らすようになって、それまで当たり前というか普通だったイタリアの芸術を見直した、価値を再評価したというのだ。うむ、なかなか。

 美人のソフィーさんという美術評論家も出ていた。帰りにジローラモさんが誘惑しないかと期待、いや心配したものだ。


常套句の催眠術

 先日出張に使ったバッグをよく見たら、ホテルで無料で置いてある新聞があった。普段はなるべく新聞を見ないが、ただだったので、しかも日曜日で書評欄があったのでゆっくり読もうと持って来たのだった。

 

 面白い書評が重なる時は重なるもので、つまらない時はまったくつまらない書評ばっかりというのはこれまで体験していた。この日は前者。紅茶を飲みながら読んだ。

 

 ----フィオナ・マクラウド/ウィリアム・シャープ著「夢のウラド」

 フィオナ・マクラウドといえば、芥川龍之介最後の恋人として知られる松村みね子の名訳「かなしき女王」や、荒俣宏訳「ケルト民話集」など、英国幻想文学好きにはおなじみの作家といっていいかもしれない。

 マクラウド、本名はウィリアム・シャープ。男性作家シャープが、女性作家マクラウドを名乗って活躍していたわけである。この事実は死後に判明、本書解説によると女性と信じて手紙でプロポーズまでしていた男性陣があわてふためいたとか。----

 

 マクラウド名義の作品は「暗く悲しく美しいケルトの神話的世界を描いた」。本書後半のシャープの作品は「キリスト磔刑を目撃した放浪の民の現代までに至る呪いの年代記……ちょっとコミカルな恋愛小説もあり、仏植民地下アルジェリアの砂漠の反乱を背景とした仏軍兵士と現地人に育てられたスペイン人女性の運命を描いた戦争小説あり、ロンドンの闇社会に生きる女性とテムズ川水上警察官の悲恋と悲劇あり、いやはやなんともほんとに同一人物の作品なのとびっくり仰天に豪華絢爛」という。こういう一筋縄ではいかない作家、興味津々。

 

 ----古田徹也著「言葉の魂の哲学」

 導きの糸となるのはウィトゲンシュタイン、そしてカール・クラウスだ。……クラウスは作家として知られるが、十九世紀末から四十年弱にわたって個人誌「炬火」を執筆・出版。当時の新聞ジャーナリズムを批判し続けた。ナチス内部のヒトラー独裁体制が確立した千九百二十一年の誌面に、彼はこう書きつけている。「日常の交わりで使う決まり文句の鮮度を高めること、かつては意味をもっていたのに今では物言わなくなった言葉の身元確認、それらを人間に教えることは有益だろう。……根源に近づけば近づくほど、戦争から遠ざかるのだ」----

 ----しっくりくる言葉を探すとき、私たちは似た意味の言葉の間で迷う。この迷いは、単なる表現の厳密さの問題ではない。それは道徳的な行いだとクラウスは言う。迷う過程で言葉の多面的な意味に触れた人は、常套句の催眠術から目覚めることができるからである。----

 

 クラウスの対極にあるのが当時のドイツの新聞であり、当時も今も日本の新聞だ。つまり表面で言ってるのとは正反対に国、国民を戦争に近づけているのだ。言葉の鮮度、使い方によって。それがわからないか。気がついている人はいる。と思う。

 

 ----若林恵著「さよなら未来」

 「IT革命」が世界を変えたという。本当だろうか。伝達のデバイスが変わったのは事実だ。だが伝えられる中身に、何かしら革命的な変化は起こったのか。----

 

 ----リン・H・ニコラス著「ナチズムに囚われた子どもたち 上下」

 本書はナチスの登場から崩壊後の数年にいたるまで、ドイツ国内と、独ソによって侵攻・占領された中東欧地域での子どもたちの受難を描いた分厚い歴史書である。----

 ----とりわけ、1944年6月にギリシャのディストモで起こった、パルチザンの攻撃に対する親衛隊の報復の描写は印象的だ。三五〇人の死者のうち、半数以上が子どもだったと推定されており、子どもどころか胎児までもいたぶり殺す、凄惨を極めるものであった。また、ナチスの崩壊とともに集団自殺に巻き込まれた乳児や、ベルリン市街戦のとき、敵軍の戦車を爆破して捕虜になった八歳の子どもにも言及されている。

 だが、子どもは歴史にただ翻弄されるだけの客体ではなかった。抵抗組織に入り非合法のビラを普通の新聞に紛れ込ませて配ったり、パルチザンに参加し武器を握ったり、空襲の最中、瓦礫を掘り起こす作業を大人に任せられたり。戦争終了後に食料配給の手伝いを大人に任され、はりきってテキパキこなした子どもたちの姿が、本書のなかでほとんど唯一明るい場面である。----

 

 最後の方に「ほとんど唯一明るい場面である」とあるが、これのどこが明るいのか。


朝の啓示

眠犬

 

 

 眠気に勝てない時は、眠ろう。朝起きてからまた考えよう。

 

 最近、朝早くといっても6時くらいだが目が覚める。7時くらいまで布団の中で考える。いろんなことを。やがて一つのことに収斂されてくる。それによって、その記憶が生まれた時、出来事が発生した時には気づかなかったことがわかる。というようなことがよく起こる。自分は、他人のある行動や言動について、怒ってもいいような事態でもその時には気がつかない。これって損な性分? それとも得な性分? ヒトがいいっていうにもほどがある? 要するに、遅いのだ。ずれてるのだ。やっぱり損かな。

 

 ウィリアム・ブレイクの詩の一説にこんなのがある。

 

 think in the morning, act in the noon, eat in the evening, and sleep in the night.

 

 あったりまえだのクラッカー、と言ってしまえばそれまでだが、特に「think」は朝がいいというのは本当だと思う。「あっ、あの時のあれはこういうことなんだ(こういうことだったんだ)」とわかることが多いですよ。


巨匠による世界の像

 文学は今の世の中ですでに死滅したものととらえているが、本は残っている。もう一度、本物の文学を読もうと思った。しかも大作を。大作を読む行為を大読という(いわないか)。本を読む行為に一定の期間エネルギーを費やすことは、その本の中の時間、世界に生きることだ。そこら辺の文学もどき(文学の死骸)に何の義理があろう。読みたい本物を読んでいいのだと思った。

 

 で、ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」である。とりあえずその「機廚痢屮爛奪轡紂次舛△襪い楼任侶主」に着手。ダレルの文体は形容詞や比喩を何のためらいもなく堂々と使う。文体、文章に関して、どんな拘束もいやだとばかり。恐らくダレルがどこかの「文章教室」に行くと、めっちゃ叱られると思う。形容詞を使わないでそのことを表現しなさい、と。そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、とばかりダレル節が全開。

 

 小説の中によく、ある人物の言葉、エピグラムというか箴言というか、が出てくる。それがまた実に深い。「アレキサンドリア四重奏」でもそうだが、ダレル文学の重要な核だ。例えば

 

 ----「現代の作家にとっては、現実なんてもう古臭くて使えたもんじゃない。俺たちは芸術の力で現実を蘇らせて、現代的にしなくちゃだめなんだ」

 

 「君たちが学んだことを考えてはならない。なるだけ早く、学んだことに生成したまえーーー身をもって生成したものは忘れるからね」

 

 「本当に死ぬものとは、過去の集合的な像なんだ。連続して存在してきた一時的な自己のすべてが、ある瞬間に集合するんだよーーーそれは完璧な集中の一瞬、明晰そのものの理解で、望むなら永続するものなんだ」

 

 「死にもそれ自体の明確な特性というものがある。大哲学者たちは常に、死の特性が証立てる世界の像に生あるうちに入り込み、心臓がまだ脈打つうちにそれと一体になろうとしてきた。彼らは死の特性を我が物としたのだ」----

 

 大げさな、とか、古臭い、野暮、カッコつけとか何と言われてもいい。これらの言葉に加えて、地の文章がアラベスク的に広がり、展開していく。文章を、言葉を読むことの醍醐味を満喫させてくれる。これに比べれば現代日本作家たちの小説なんて屁みたいなものだ。文章を書くこと、そしていい文章を読むことは生きていることと同義語だ。いい歳をした青二才といわれてもいい。いわゆる「文学」なんて大嫌い。いい文章とつまらない、ひどい文章があるのみ。ダレルの小説はヴィンテージもの。藤井光氏の訳文もすばらしいと思う。

 

 


医師の疎通

 WOWOWのドラマ「グッド・ドクター〜名医の条件」は興味深い。フレディ・ハイモア主演で、自閉症だが天才的記憶力を持つサヴァン症候群の青年医師ショーンが、膨大な医学の知識を駆使して大病院に旋風を巻き起こす、というもの。

 

 何よりフレディ・ハイモアの演技力というかキャラクターが抜群なのだが、普通はあり得ないと思われる自閉症の医者という設定が浮かび上がらせるのは、現代におけるコミュニケーションとは何か、コミュニケーションは十分図られているかという問題だ。

 

 自閉症の主役は、当然ながら他の医師やスタッフ、また特に患者の家族などとうまくコミュニケーションが取れない。患者に、とりあえずは言ってはいけないこともいう。「あなたはガンだ」とか。ところがドラマでは患者本人は意外に反応はいいのだ。

 

 それは言葉、会話を通してというより、ショーンの真摯な態度(真摯にしか向き合えない、嘘が言えない)を患者が肌で感じるというか直感でわかるというたぐいのものだ。これは患者だけでなく、後見人みたいな院長、そして仲間先輩の医師も徐々にそうなってくるのだが。

 

 そこで問題になるのは、ショーン以外の医師やスタッフは実によくしゃべり合い、コミュニケーションが取れているように一見みえるのだが、実はなんも取れていないということなのだ。そして意外にもショーンがホントのコミュニケーションを取っていることなのである。

 

 現代は情報過多といわれるが実は真に有益な情報が得られることは少ない、といわれてからもう久しい。さらに昨今はナマの人間同士の会話でもコミュニケーションが図られていないし、メディアを通しても、コミュニケーションはブレークダウン状態だ。

 

 マスメディアだって厳正な事実より、憶測や願望、思い込みの情報ばっかりではないか。同じ電波でドラマや何やフィクションを流しているメディアが、ニュースやワイドショーで事実を伝えることは本来、本質的にできないことなのだ。それはフィクションなのだ。

 

 かつて三島由紀夫氏が新聞を「出来の悪い文学」と見抜いたように、テレビは出来の悪い映画・ドラマなのだ。真の情報、真のコミュニケーションがどんどん減少していく中で、それによる犠牲者はどんどん増えていく。世間的に被害者と呼ばれる人にも、そして加害者と呼ばれる人にも。

 

 あらゆるジャンルは人間の一生のように、生まれて成長して全盛期を迎えて衰退期を経て死ぬ。ところが実物の人間はホントに死ぬからいいのだが、ジャンルは死んでもその残骸は存続するからやっかいなのだ。

 

 このジャンルには本当にあらゆるものが含まれる。政治、企業、会社、思想、芸術、文化、音楽、民主主義、平和。音楽でいえばジャズ、ロック、その他一時代を画した流行音楽。厳密にいえばクラシックもそうだが、とりあえずは一番生きながらえているように見える。どうせなら音楽でも美術でも文学でも、長く生き残っているように見えるものを愛好した方が被害は少ない。つまり偽物に毒されることは少ないだろう。

 

 実際、目の前の生身の人間が発する言葉より、スマホの字や画像映像に注意を向けている、そんな社会になってしまった。人間同士の会話も、実は自分が言いたいことを言うだけで、相手の言うことに注意深く耳を傾けていることは少ない。みんながテレビのワイドショーのようになりつつある。真実は、CMの後で! なのだ。


ピョートルのモーツァルト最高!

 

 最近頑張ったので自分へのご褒美に久しぶりにCDを買った。ピョートル・アンデルシェフスキ(ピアノ&指揮)、いわゆる弾き振りのモーツァルト、ピアノ協奏曲25番&27番である。特にモーツァルト最期の年の作品、最後のピアノコンツェルトの27番が好きで、ピョートルがどう解釈して演奏しているのか、興味津々だった。

 

 真嶋雄大氏によるライナーノートによれば、アンデルシェフスキは「コンツェルトに関しては、モーツァルトに並ぶものはないと位置付けており、終局的に自身が回帰するところはモーツァルトのピアノ協奏曲と確信している」という。そしてこのように演奏を表現している。

 

 ----鮮やかなピア二ズムを展開している。清冽なタッチからは薫り高い気品が立ち上がり、潤沢な音楽性と厳格なコントロールはモーツァルトの核心に迫る。後期作品に見られる雄渾さと壮大なスケールを丁寧に読み解き、柔和な緊迫感と、端正かつ内的な強靭さを携えた風格は、歩んでいく道程に生命の灯をひとつひとつ燈すようでもある。----

 

 まさにこの通りだと思う。正確で美しい言葉、文章で、アンデルシェフスキのモーツァルトを言い尽くしていると思う。

 

 日本の誰だか忘れたがピアニストが「モーツァルトはシンプルで難しい」と言っていた。当たり前だ。シンプルこそ難しい。だがモーツァルトはただのシンプルではないのだ。アンデルシェフスキは、わかっている。そう思った。


怠けるを探せ!

満月

 

 今宵は満月である。久々に午後ウォーキングして、シャッフルで音楽を聴きながら歩いていたら、ちあきなおみ「紅い花」がかかった。ちょうど歩き始めて30分ぐらいで脳内快楽物質が噴出していた。歌のサビのところでブワーンと何かが爆発した。コリン・ウィルソンの言葉でいえば「至高体験」だ。久々だった。

 

 夜はNHKの歌番組で、AKB48の「365日の紙飛行機」を久々に聴いた。「明日頑張ろう」ってとこがいいよね。365日それを実践したら、永久に頑張らないことになるが、それでもいいじゃん。この歌大好き。

 

 テレビのCMなどで「夢は何ですか」とか「目標は何ですか」という問いがあるが、こういう質問が大嫌いだ。答の方も変だ。「毎日成長すること」とか。「運転免許を取ること」とか「歯科技工士!」とか。それって手段でしょ。質問はゴールを聞いてるのに。そもそも簡単にひと言では答えられない質問だ。「あなたにとって○○は」という質問と同じ。手間を省き、失礼ですらある質問だ。

 

 中学の頃、同じクラスの男子生徒が生徒会長選挙に立候補して、立会演説会で「努力という言葉が好きです。生徒会長になったら一生懸命努力することを誓います」と言った。終わってから、そいつに「それは公約でも何でもないだろ。努力するのは当たり前だろ」と突っ込んでやったら、黙り込んでしまった。先生方にはこういうヤツは受けるのだが、小生みたいないやな生徒もたまにいるからね。

 

 とか思ってたら、今NHKの歌番組で、なんと! シルヴィ・バルタンさんが歌っていた! あの効果音みたいなところを自分の声でやって、サービス満点。とにかくお元気で、おきれいで何より。うれしい。BSはともかく、地上波のテレビは質の低下にあきれ返っていたが、たまにはいいこともするね。

 

 満月の日は昼から、夜はもちろん、何かが起こる。


全ての人が神仏、己自身、その辺のエロ坊主も

 身近な人が死に、知り合いの人は小生を利用しようとしていたことがわかり、ちょっと落ち込んだ。そんな時、「宗像教授異考録」シリーズを読み返していたら、以下の言葉に出会った(再会?)。

 

 ----仏典によればブッダ入滅から、56億7千万年後に弥勒という菩薩が鶏頭山に現れて人類を救済します。

 

 ----時代は変わってもこの世に怒りの種は尽きない。神も仏もあるものかと嘆くことも多いな。

 

 ----全ての人が神仏だと考えよ。全ての人が己自身だと考えよ。

 

 ----人が死ねば”我”(アートマン)という霊魂になって巨大な光の渦に導かれる。”梵天”(ブラフマー)ーーー宇宙を創造した神。我(アートマン)は梵天(ブラフマー)の一部”梵”(ブラフマン)に戻る。

 

 ----梵天はなぜ世界を造ったのかーーー全ての人生を経験するためだ! 全ての人生の総体が世界だからだ!

 

 ----苦痛の中で死んでいく経験もあれば……それを鞭打って嘲る者の経験もある。修行を積んだ高僧も、その辺のエロ坊主も全ておまえさんと同じく我(アートマン)であり梵(ブラフマン)なのだ。善も悪もなく時間の順序もない。

 

 ----何百億何千億もの人として生まれ、喜び悲しみ、苦痛と死の恐怖、それぞれの人生を何千回何万回と生きて何千回何万回と死ぬのだ。----(第1集第4話「大天竺鶏足記」より)

 

 前に仏教関係の書物で接したことがあったような言葉だが、あらためて感じ入った。「全ての人が神仏、己自身」とはなかなか考えにくいが、だってあいつが神仏や己自身とは思いたくないが、でもその次元ではないのだろう。と、ごまかしてもだめか。己の一部とは、認めたくないけれど、考えてもいいのかな。自分は人を利用したりしないけれど。でも。

 

 少し、いやかなり気持ちが落ち着いた。


アメフトと略さないで!

 アメリカンフットボールの事件の報道に、いやんなっちゃった。「……というのが真実です」とコーチが言った。真実はあんたが決めることじゃないよ、「事実」でしょ?!

 

 会見を打ち切ろうとした広報担当もえらそうだけど、会見の記者の質問もひどいね。なんも勉強してない。ところで新聞社や通信社OBで大学なんかに天下り?してる人間も多い。その辺の実態を探る報道なんてできないのか。官僚もマスコミも一緒か。

 

 テレビのニュースなんかで「アメフト部」というのは、なんだかなあ。略さずちゃんと「アメリカンフットボール部」と言ってほしい。2秒も違わないでしょ。

 

 (反則プレーを)指示した、しないはどうでもいいんじゃない? そこまで選手を追い込んだ、追い詰めたのは指導者の責任でしょ? というか選手のプレーの責任は指導者にあるんじゃないの? 刑事事件としては監督の責任は問えないとか、関係ない!

 

 昔、上司に日大OBがいて、部下に東大OBがいてこいつができないヤツで、上司がいつも怒鳴りつけていた。日大がんばれ!

 

 関西学院大がんばれ! 日体大もがんばれ! 


息が粋だね

 昨夜のNHKEテレ「スイッチインタビュー」はおもしろかった。文楽の六代目竹本織太夫さんと中川家礼二さんの対談である。織太夫さんが礼二さんのファンで、ぜひにとリクエストしたとのこと。異なるジャンルの話芸の達人同士、話は示唆に富んでいた。

 

 織太夫さんが言っていた。自分のブレス(息)でやってはだめで、役の人物のブレスでないと、と。そして、人形、三味線とともに語りで観客の呼吸を支配することが目標だ、と。礼二さんに対しては「名もなき人々」の真似をするところがいい、と。

 

 いき、という言葉、大事だね。息、意気、粋、生き、行き、域、活き、閾、位記、そして逝き……か。人の一生だ。

 

 息、呼吸というのは話芸でもそうだが、書き言葉、文体でもそうだ。これのだめな、息苦しい文章がいかに多いことか。

 

 で、今朝新聞の書評欄を読んだら、呼吸以前に、内容のレベルの低さに驚いた。本もだめ、書評もだめ。時代は深刻だ。最近どこかのブログかツィッターで、新聞が大量の木材を消費しているのに、資源やエネルギー問題について、よくいうよ、と指摘していたが、その通り。もう紙の無駄遣い、やめたら?

 

 


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