帯電する貧しき夢

 ----ひとりの人間を定義するのに、あるいは人が一生に得る情報をすべてためこむのに、驚くほどわずかな"ビット数"で足りるという説は、ルイス・K・シェファーの「マシン知能、恒星間飛行の代価、そしてフェルミ・パラドックス」に論じられている。この論文では、年齢百歳、記憶もパーフェクトな人間の精神全体は、10の15乗ビット(1ペタビット)で表すことができるという。今日の光ファイバーでも、これくらいの情報なら何分かで伝送することができる。----
(アーサー・C・クラーク「3001年 終局の旅」典拠と謝辞より)

 ----いま急にふとランボーのある詩の題名が思い出されますが、それは「貧しき夢」というもので、この言葉は私の心に深く沁みます。真に創造的な夢想は貧しい夢想、何度でも反芻されるどちらかといえば頭にしみついているような性質の夢想なのだと私は思いたい、いや事実私は深くそう信じています。肝腎なのはとりわけ、ほかのすべてのイメージを帯電させることのできるいくつかのイメージに、大きな感情的係数を結びつける能力を持つということです。現実から借りた素材の総体が熱を帯び、伝導によって次から次へと灼熱してゆくのはそこから可能になってゆくのです。----
(ジュリアン・グラック「はっきりと眼を見開いて」より)

 現代人は、私の見るところ、記憶が豊かでも「煩わしい、重荷だ、負担だ」と思うことの方が多いようだ。でも上記のように、たかだか何ビットなのだ。
 記憶が少なくても、イメージを帯電させ、灼熱させ、宇宙の果てまで行って来ることもできる。メモリーやハードディスクじゃないのだ。

 吉田健一氏の作品の中で、そんなにたくさんのものを乗せてよく地球は動いてるもんだと思った直後に、それらのもののほとんどは過去といわれるものと気づいた、というのがあった。

 記憶が少なくて不安という人はいるのだろうか。

 よく「煮詰まった」とかの言葉を聞くが、煮詰まるほどの情報ではない。多いような気がするだけなのだ。

 ところで夢の容量は計算に入るのだろうか。多い少ないはあるのだろうか。

 ま、大した違いはないか。

 いずれにせよ、ランボーの「貧しき夢」に沿っていきたいです。


すばらしい謎

 「誰が悲しみのことなんか気にするものか。謎のことだけを考えるんだ。だいじなのは謎だけだからな。わしらは生き物だ。わしらは死ななければならないし、意識を手放さなければならないんだ。だがもしその色合いをちょっとでも変えることができれば、すばらしい謎がわしらを待っているんだ! すばらしい謎がな!」
(カルロス・カスタネダ「意識への回帰〜内からの炎」より)

 うわっ、なつかしい。ドン・ファンの教えだ。80年代にブームになって、その後は批判され貶められたものだが、今となっては逆に新鮮かも。


尊厳の歌

 短歌の世界にはとんと詳しくないけど、新聞の、これは短歌時評というのか、興味深いのを発見した。長谷川櫂氏が4月に刊行した「震災歌集」が激しい議論の的になっているのだという。
 作品の一部が紹介されている。

 津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布

 日本列島あはれ余震にゆらぐたび幾千万の喪の灯さゆらぐ

  だが厳しい批判をする歌人も少なくないのだという。
 ----未曾有の災害が起きた後、どんな言葉を発すればいいか分からず、絶句した歌人は多かった。悲惨な状況をすぐさま言葉で表現することに、ためらいを感じた人もいた。だから、即座に歌を作って出版するという姿勢に、大きな反発が生じたのも当然だった。<日本に暗愚の宰相五人つづきその五人目が国を滅ぼす>などは安易すぎる断罪だろう。非難する人々の気持ちも分かるのである。----

 そうかな?と思う。以前、小説なんかに関しての時も、私は言葉は壊れていないし、発するべきだと書いた。歌でもそうではないか。
 しかも上記の作品は見事だ。日本に暗愚の・・・・・・は直截だが、その通りだし。
 それに上記の文章はおかしい。批判する人に関して「どんな言葉を発すればいいか分からず、絶句した歌人」とか「悲惨な状況をすぐさま言葉で表現することに、ためらいを感じた人」と表現している。
 批判ではないのではないか。ただ歌を発することに臆しているか、ためらっている人ではないか。はっきりと「今は歌を作り出版するべきでない」と言ったのならまだしも。

 この後、この時評の書き手は、幾分長谷川氏に理解を示す(かのような表現をする)。

 ----だが、一つ注目しておきたいことがある。長谷川は、阪神大震災の被災地に住んだ経験がある。そのとき、詩歌は一人で作るものではなく、「人々とともに詠むもの」だと考えるようになったという。
 ----長谷川は、詩歌は個人の思いにこだわるよりも、もっと公的な感情をすくいあげるほうが大切だと考えているのだろう。災害に対する人々の悲しみや怒りを代表するように歌う。----

 またまた、そうだろうかと首をかしげたくなる。違うんじゃないの? 阪神大震災の後、詩歌は「人々とともに詠むもの」と考えたとしても、それは真たり得る。
 だが「もっと公的な感情」ってなんだろう? しかもその後に「すくいあげる」という言葉が出てくる。「公的」に「すくいあげる」はそぐわない。それ以前に「すくいあげる」という言葉はふさわしくない。

 その後、長谷川氏と同様な歌として岡野弘彦氏の作品が紹介されている。

 わたつみの沖より迫る凶つ神 雄叫びあげて 陸を責めくる

 怒りすらかなしみに似て口ごもる この国びとの 性を愛しまむ


 いいではないですか。感動します。実は意外に、震災のような大きな災厄に対して人間が対抗するのに、詩歌はかなり有効な手段ではないのか。科学や評論やジャーナリズムや散文より。

 もういいのだがこの時評の最後はこうだ。
 ----一人一人の個性を重視してきた現代に、公の感情を歌う詩歌は成立するのか。長谷川や岡野の歌は、難しく重い問いを内包している。----

 こんな文章に接すると、評論・批評というのは絶対創作に追いつけないという気がする。そうでない優れた批評もあるのだが。

 理屈や先入観なしで、上記のような歌を真摯に味わおうではないか。

 震災に言葉は無力だといのは、そう言う言葉が無力なのだ。歌も無力だと言うのなら、歌のかたちは違うが、被災地で長渕剛が歌ったあの歌を思い起こしてみればいい。

 決して無力ではない。人間の尊厳は、ある。なのに下賤な懐疑、否定は後を絶たない。


ここはどこ、私はだれ?

 このところ、異界にあこがれる。現実逃避か。てへっ。すげえ遠いところとか、今とつながってるとは思えない昔の時代。あるいはこの世ならぬ超常世界。エスニックとかエグザイルとかの程度でなく、なんかすげえ違和感を感じるような、違う世界。「遠くへ行きたい」「遠い世界へ」を超えるような、異界。
 つまり、今、ここ、とは違う世界だ。というより、そう思わせるパワー、エネルギーに、というべきか。いや違う。質の問題だ。これは人間の本能の一つではないだろうか。

 これは現実や現在、「今、ここ」を拒否し、逃げているのではない。そう思った。現在とは無なのだ。空しく今にいるというのではなく。すごく充実して現在にいるとしても、いやそれだからこそ、なのだ。

 現在は、例えば遠い世界や遥か昔とつながっており、それらを通して初めて現在になる。あるいは未来に投影すれば「死」といってもいい。それをいったん透過して現在は現在になる。

 いつでも単なる現在は、退屈なのだ。「現政権」は、だからいつでもアホの代名詞となるのである。

 でも実は現在は「今、ここ」だけではない。というより、異界を通して初めて真の現在になる。

 情報が発達した社会ということの真の意味はそういうことなのだ。

 廃屋、さびれた町、波止場の錆びた廃船。アナクロ的な小路の飲み屋街。

 またはどこでもないいつでもないような神話的SF的空間。宇宙の、地球の創世記。

 時間と空間のローカル、片隅。

 どれだけ今から離れられるか。どこまで行けるか。

 今、ここにいる必要はない。とらわれる必要はない。徹底して異界に行き、そこにいる時、人間は現在にいる。

 昔読んだか想像したかの言葉を思い出す。「いいから君の最も得意な方法でやってみたまえ。誰もそれをだめだとは言っていないのだから」。

 そう、誰も邪魔していないし、非難もしていない。してるとすれば自分なのだ。

 重ね描き。今と今でないある時の。こことここでないある場所の。その時、人間は現在にいて、自由になるだろう。


不意のフォームレス

 再び松岡正剛氏の禅についての文章から。

 ----禅とは「引き算(負)」の美学なのです。

 ----例えば、枯山水は、水を無化することによって、逆に石と砂だらけの庭に豊かな水流を見せています。能舞台も、何もそこにないからこそ、あらゆるものをその舞台に見ることができる。引き算することによって、逆に存在するものがあるわけですね。それは、数学でいうならば虚数のようなもの。−1とは、1が無い、ということですが、同時に、無くした1が−1としてそこに“ある”ということでもあるからです。

 ----「禅は、不意を打つものだ」。鈴木大拙の著作にはそう書かれていました。「不意」とはつまり、意味が取れないということ。禅には、簡単に言葉にはし難い体験があると書いていたのです。

 ----禅が勧めているのは、「フォームレス・セルフ」、「無相無念」の自己、ということです。

 ----あれこれ浮かんでくるとらわれを、ひとまず捨ててみる。それにはきっかけが必要なんですね。突然バーンと警策でたたかれたり、カラスが一斉に鳴きだしたり、そういう瞬間にふっと、フォームを忘れることができたりする。「不意」を打たれることがとても大切なのです。
 今の世の中はそういう「わけの分からない体験」をなるべくしないように、しないようにと進んでしまっています。なんでも分かりやすくして、コンプライアンスをしっかりさせて、ABCを順番に並べて分かるようにしてしまう。禅は全く逆なんですね。----

 肯く。続いて道元の言葉を松岡氏は引く。

 ----道元に「朕兆未萌(ちんちょうみもう)の自己」という言葉があります。「自分が萌え出づる以前の兆しに立つ」ということです。つまり、でき上がる前の自分に戻れということ。そこに戻れれば、山水と一体化することができるのに、なぜ、お前はでき上がってしまった自分から始めようとするのだと。

 ----禅には隙間を空ける力があるんです。思い詰めすぎていたり、つらい体験をして呆然としていたりするときに、不意に小さな隙間を見いだしてくれる。そこに小さな花が咲いたり、星が見えたりする。そういったチャンス・オペレーションをたくさんつくり出してくれる可能性に満ちたものなのです。
 それは全く大げさなものではなく、ほんのわずかな問いであったり、わずかな場所、わずかな眼差しであったりするのですが、そこにはセレンディピティをたくさん用意する方法に満ちている。スキル(技術)ではなく、メソッド(方法)がいっぱいあるんですね。そのメソッドを使うことがスキルになるのです。----

 なんと勇気づけられることだろう。どのフレーズもいいが、特に道元の言葉を引用し解釈してくれたところは珠玉。「朕兆未萌」=「自分が萌え出づる以前の兆しに立つ」なんてステキな言葉。

 −1、不意、隙間。フォームレス・セルフ、チャンス・オペレーション、セレンディピティ、メソッドとスキル……。
 松岡氏の結語にもあるが、今の日本にこそこうしたものが必要なのではないか。


私はここに生きている

 大森荘蔵氏の口調(文体)は激越ささえ帯びる。(「知の構築とその呪縛」より)

 ----この自然の死物化と心の主観化・内心化が、現代人から、古代中世の人々がもっていた、活物自然と自己との一体感を奪ったのである。略画的世界観のもっていた、自然を生き生きと活きたものと感じ、自分をその一部として感じる、あの感性を奪ったのである。そしてその略画的感性を何か未開のもの、迷信的なもの、と感じる近代的感性に支配されるに至ったのである。そしてさらにそれを、近代的自我の確立などと称するに至ったのである。

 ----つまり、近代科学の原子集団や電磁波や状態関数は昔通りに色あり、匂いあり、暖かみあり、感性的美的でありうるのである。それら感覚的、感性的、美的な性質を人間の主観的意識の中に隔離する必要はないのである。それを、そうする必要があると考えたガリレイ、デカルトの事実誤認が現在まで伝承されて20世紀の迷信となっているのである。

 ----物と自然は昔通りに活きている。

 ----陰うつな空とか、陽気な庭とかというとき、陰うつや陽気は私の「心の状態」ではなく、空自身の、庭自身の性質なのである。

 ----「心の働き」といわれているものは実は「自然の働き」なのである。心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意志的、等々)立ち現れる、それが「私がここに生きている」ということそのことにほかならない、こう私はいいたいのである。

 ----私と自然とは一心同体なのである。当然、<主観と客観>と従来いわれてきた分別もない。<世界と意識>という分別もない。これは禅的な意味や神秘的な意味での「主客合一」とか「主客未分」とかいうこととは全く別のことである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。四六時中そうなのである。

 ----われわれの祖先がもっていた感性を取り戻すのは一朝一夕にできることではない。それは入信したり、改宗したり、棄信したりするのに似て、理屈の上のことではなく、理屈を含んでの全生活を変えることだからである。自然観、人間観、政治観、文学観、芸術観、倫理観、人生観、等々のすべてを改変し、それを実生活の中で実践することだからである。当てずっぽうであるが、現代文化が基本的に変化するとすればこの方向ではないかと私には感じられる。----


 学校時代(小学校〜)、常に疑問に思っていたことを解きほぐしてくれた感じがする。なんか言えばすぐ勉強しない言い訳と取られてきたが、要するに勉強、教育の柱は科学であり、それが「死物観」に基づく科学だったからだ。「おかしい」と常に思ってきた。今も世の中について思い続けている。売り上げ、経常利益(今は「けいつね」なんて略して言う)、前年比……。客観的、論理的、事実…・・・。議論、すりあわせ、合意……。一方では、心の闇、カウンセリング、癒やし……。

 おかしくないかい?

 もっと別にやるべきこと、やるべき方向、楽しいことがある。絶対に。


言語道断 横断歩道

 iPodのシャッフルで久々にJon Andersonの「Olias of Sunhillow」を聞いたら、人間の立ち位置って何だろうと考えさせられた(音楽聴いて考えるってのも何だが)。
 このSF的エスニック的超常的作品は、どこでもない場所のいつでもない時の、おとぎ話のように繰り広げられる。まるで別の宇宙でのストーリーのようだ。

 今のこの自分が生きている状況を忘れさせてくれるのだ。で、思った。下世話な状況や属性を次々に剥ぎ取っていったら、最後に残るのは何か。何者か。

 無だろうか。それとも遺伝子だろうか。無色透明な「私」。何かやらかして生いたちや親のせいにするヤツが許せないのは、そんなの関係ねえ、からだ。或いはそれを欲しているからだ。下世話な属性。

 でも人間が生きていくというのは下世話な属性を引きうけ、楽しむことなのだと思う。自分というのは所詮「無」なのだから。無に名前を付けられ、何やかやを割り振りさせられたのだから。

 と、こんなことを考えつつ雑誌を立ち読みしていたら、なんかシンクロするのがあって珍しく買っちゃった。「日経おとなのOFF」の「禅特集」。

 あの松岡正剛氏が書いていた。砂地に水が沁みるごとく、言葉が字句が目に入ってくる。

 ----「無常」というのは、現在は「はかない」というニュアンスで使われることが多いですが、本来は「常ならざる」状態、という意味。確かなものなど何もない、万事が「イレギュラー」な状態である、ということなんですね。----

 ああ、そうか。そうなんだ。

 ----(禅は)ブッダが樹下で一人瞑想して悟りを開いたように、只管打坐といって、ただひたすら坐ることを求めた。しかしそれは、単に「自分」に立ち戻るという小乗仏教的なものとも違うのです。禅は自己を単位としながら、それを無くす、つまり「無我」として突き抜けよう、透体脱落しようとするのです。自己を高めるために戻るのではなく、自分を捨てるために、一度自分という単位に戻ってみようとするのが、大乗仏教の最後に出てきた、日本の禅というものなのです。----

 はい。

 ----禅では「不立文字」「言語道断」と言います。不立文字は文字に意味を託さないということ。言語道断は、一度文字になったものを断ち切りなさいということ。いきなり全部捨てるのではなく、考えながら捨てていくのです。それは実は、僕が編集工学で教えていることと同じなんですね。----

 あ、言語道断ってそういう意味だったんだ。そうか。

 ----言葉や文字は、何かを説明するときに使うものですが、使うことによってそのものを1つか2つの意味に限定してしまう傾向にあります。「私は内気です」とか、「責任感があります」とか、もしくは「ふしだらです」とか。それらは社会的に流布している言葉ですから、その言葉で語ることで自分もそれに縛られていくのですね。その縛りを捨てるために、まずは自分が選んでしまった言葉を、ほかのものに言い換えて切り替えなさい、というのが禅の基本なのです。----

 自分がうすぼんやり思っていたことを言ってもらいました。ありがとうございます。

 なぜこの人の言うことを信じるかというと、こんなエピソードがその後に書かれてあるからだ。それは氏が高校時代の修学旅行で体験したことで、瀬戸内海の塩飽諸島の美しさに感動したといい、

 ----それはどう表現していいか分からない類いの感動で、超常的な体験に近いようなものでした。何かスピリチュアルな、霊的なものをバンと受け取ったような気がしたのです。光がぱーっと差し込んで、島々がきらきら輝いていた。ほかの友人といることも忘れて、どこかへ連れ去られたような、不意を打たれたような気がしました。----

 こんな体験をしたことがないという人は信用しない。したくない。自分は、ある。だから。


無責任時代とは

 NHKBS3で映画「ニッポン無責任時代」を今見ていて、変な言い方だがカルチャーショックを受けた。この映画は1962年(昭37)の作品。東京オリンピックの2年前だ。
 植木等演じる主人公の平均(たいら・ひとし)をはじめ出てくる社長やサラリーマンの威勢のいいこと。みんながみんなではないだろうが、新橋の料亭や銀座のキャバレーで接待費で乱痴気騒ぎだ。日曜日はゴルフ。ボウリング。ホステスの愛人に車を買ってやったり。
 これが敗戦で焦土と化してからまだ20年たっていない時期だから驚く。最近の中国なんかメじゃない高度成長ぶりだ。
 「いい時代だったな」という感慨だけではすまされないものが潜んでいるような気がする。ストーリーには会社乗っ取り、株の買い占めなども出てくる。その中を泳ぎ渡る「平・均」。みんなうまくいって、丸く収め、自分はクビ。でもすぐにまたうまく立ち回り、社長になるというおとぎ話のような話だ。

 「人生で大事なものは、タイミングにC調に無責任。とかくこの世は無責任。コツコツやるヤツあ、ご苦労さん!」と歌う。

 いいなあ。でもある人が書いていたけど、植木さん演じる人物は実は無責任でも何でもなく、実にマメに行動していると。そうかもしれない。ある種の人生哲学を持っているのだ。

 ひるがえって、「ニッポン無責任時代」はあの当時よりむしろ今なのかもしれない。言葉の本当の意味で。


物語への信頼

 震災と文学、言葉について多く語られてきたが、最近ある新聞にも載っていた。

 「震災は言葉を変容させてしまった。それならば、新しい言葉によって世界を変えることだってできる」(古川日出男氏)

 「これまで私たちは、生まれてから死ぬまでの80年ぐらいの時間を考えて生きていけばいいと思っていた」「いま日本では、千年に一度の地震を考えながら町をつくらなければならないと言われている。原発の廃棄物は10万年残り続けるとされる。自分が死んだ10万年後まで、イマジネーションを膨らませなければいけなくなった」「文学のイマジネーションが、そういう時間の中で人が生きていくことを助けられるんじゃないか」(平野啓一郎氏)

 「常に選択を迫られるようになってしまった」「震災のことをすぐに書くべきなのか、書くべきではないのか。どちらの意見も否定したくないけど、常にどちらかを選ばなければならない」(角田光代氏)

 こう紹介したあと、記事では「それとは対照的に」と、江國香織氏の言葉を引く。
 「書くことに関して、私は驚くほど変わっていない」「ジャーナリストと作家は違う。情報やメッセージがあふれる中で、私は情報やメッセージとは相いれない物語への信頼を深めた」


 江國香織氏の意見に注目したい。小説やフィクションで情報、メッセージ、報道の性質を担うものもあり、逆にジャーナリズムが物語になってしまう面もある。けれどそうした次元を超えて、江國香織氏のいう物語への信頼は、存在が強靱なような気がするのだ。

 私は前から書いているように、震災・原発によっても言葉は変容しないし損なわれてはいないという意見。変わったとか壊れたというのは作家たちのリセット願望の為せる技だと思う。そしてそう思う作家の作品は震災によって斬られてしまったのだと思う。
 だから江國香織氏の毅然とした態度に惹かれる。


籠の鳥の勘違い

 占いに関する本の紹介が新聞に載っていた。「社会心理学のロングセラー」という「人間この信じやすきもの」(T・ギロビッチ著)について、

 ----人がおちいる誤信や迷信のしくみを米国の認知心理学者が解きあかしている----

 としたうえで、

 ----著者はまず、「人間の本性は『真空』を嫌う」と論じる。人は予期できなかったり無意味だったりする現象に我慢がならない。そのために混沌とした外界に一定の秩序やパターンを見いだそうとするのである。
 この本性は、ほどよく働いていれば科学の新発見などに役立つが、歯止めがきかなくなると、ありえない観念へ迷いこんでしまう。
 たちの悪い例が、「自己成就的予言」だ。銀行が破産するというデマを信じこんだ人びとがパニックを増幅させ、現実には起こるはずのなかった破産へ追いこんでしまうことがある。人は信念や仮説に見合う情報しか見ようとしなかったり、過大評価するものなのだ。----

 とある。


 これって占いとか心理学ということだけではなく、今の日本の政治のことではないか。しかも人びとはパニックなんか起こしていないのにもかかわらず、だ。ホントにたちが悪い。

 総理が米国で自らの立ち位置をバスケットボールのポイントガードに喩えたという。やめてくれ。バスケットが、ポイントガードが穢れる。許せない比喩だ。


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