ワンパターンの災害報道

 西日本の異常な豪雨災害のテレビ報道を見て、激しく疑問に思うのはNHKだ。特別警報の気象庁が言う「生命を守る行動を」ばっかり繰り返す。震災の頃の状況を思い出す。視聴者=住民がかえってタカをくくる恐れがある。

 

 今、あるいは最新の状況を映像で見せて、こんな状態にあなたのいる地区もなりそうですよ、と知らせることが重要ではないか。映像はヘリコプターからのばっかり。たまに現場の中継につなぐと、「今は小降り」とか小康状態の場所ばっかり。逆効果ではないか。

 

 その点、意外に民放の方がいい。各地元局の方が、より現場に近いところまで行って、リアルな映像を流す。地方局のスタッフは土地勘があるし、小回りがきく。NHKは戦艦大和か。

 

 いくらメディアその他で危険だと呼びかけても、安易に楽観していた住民もいないことはないだろう。でも事情ですぐ避難できない人も多いと思う。どうすればいいか。今回の雨の危険度を選挙の連呼のようにただ繰り返すのでなく、いかにして今回の雨の異常さを伝えるか。今後検証してほしい。

 

 そうした点で今朝の日テレで気象予報士の高塚哲広氏が解説していたことはわかりやすかった。いかに今回の雨が異常で未曾有なのかがわかった。さすがベテランだ。要するに伝える努力の大小だ。異常さ、怖さを伝えるのは難しい。おおよその括りで標語のようなことを言ってもだめだということだ。


小さく揺れる枝

 ----散文という芸術は切分法的な思考に支配されている。表現されないとすれば、思考は心のなかで凝固するからだ。観念とは、目にすることのできない珍しい鳥のようなものだ。目に見えるものとは、鳥が飛び立った直後に小さく揺れる枝にすぎない。----

 

 ----悲惨な出来事に対してしかるべき退屈を覚えられれば、笑うこともできると人は言う。喜劇役者は自殺と紙一重のところにいる。----

 

 「アヴィニョン五重奏」のページを開くたびに、静かな興奮の毎日です。仕事もちゃんといっぱいやってるよ。その余暇にだが、余暇というには中身の濃い時間です。


謝らない、反省しない人

 書評欄で面白いのを見つけた。奥野克巳著「ありがとうもごめんなさいもいらない 森の民と暮らして人類学者が考えたこと」。文化人類学者の著者が、ボルネオ島マレーシア領の狩猟採集民プナンと生活を共にし、暮らしを観察した記録という。ノンフィクション作家の中村安希氏が評者。

 

 ----プナン社会では「ごめんなさい」と言わないそうである。過失を反省するという習慣がない。四六時中謝ってばかりのわれわれからすると、ちょっと理解の範囲を超えている。と、しかしここで、著者はこう自問する。私たちは、どうして常日頃からこんなにも謝ってばかりいるのか。反省するという人間行動とはいったい何なのか、と。

 その過程で、それぞれの社会が持つ時間や善悪の観念の違いを突き当て、ある疑念へと行き着く。よりよい未来と成長を追い求めて常に反省を強いる私たちの社会、向上至上主義への問いへと…。

 プナンは反省しない。感謝もしない。向上心もなければ、学校教育にも無関心。時間の観念や方位方角、貸し借りや所有の概念もなく、----

 

 と、ここまで読んで最初に思うのは、いいなあ、と。これが人間本来の姿、これが「自由」ということではないか、と。ところが、センテンスの途中から続けると

 

 ----一方で地位や貢献度に関係なく、獲物の均等な分配には執拗なまでのこだわりを見せる。「ケチであってはならない」という共同体の価値観を体現するリーダーは、誰よりも質素でみすぼらしい身なりをしている。こうしたプナンの姿勢はどれも、私たちの姿勢を問うてくる。----

 

 うむむ。いわゆる原始共産制社会なのか。だとすると、上記の「自由」って? 共産制を維持するための手段なのか。学校教育はともかく、「時間の観念や方位方角、貸し借りや所有の概念」は、むしろ自由のための手段ではないのか、とさえ思ってしまう。

 

 この本、そして書評者は、とても貴重な問題提起をしてくれたのだと思う。でも決して謝らない、反省しない人間が同じ職場にいたら、頭に来るよね。そういうのが根性と勘違いされて、出世したりするからね。現代日本文明社会はやはりおかしい。

 

 


華丸氏の「オフサイド」最高!負けるな信用金庫!

 NHK朝ドラ「半分、青い。」に関して、面白いこと考えちゃうことがあった。昨日の放送分の最後に、律が突然鈴愛にプロポーズした。そこでこの回は終わり。直後の「あさイチ」の冒頭、司会者の華丸大吉はどういえば困ったかのよう。そこで華丸氏がひと言、得意の川平慈英氏の物まねで「プロポーズは、オフサイドだ!」。腹を抱えて笑ってしまった。

 

 唐突なプロポーズ、半年の放送期間の中で今の時期を考えれば、鈴愛がOKするわけはない。恐らくここはNOだろう。律のプロポーズはフライングもしくはオフサイドでノーゴールしかない。さらに言えば、昨日の朝はW杯で日本がセネガルと引き分けて勝ち点を取り、決勝トーナメント進出に大きく前進したばかりなのだ。

 

 民放の朝ワイドだったら華丸氏もサッカーについて言いたくてしかたがないところ。そこでプロポーズは「オフサイド!」と出た。今日の放送では大吉氏が、北川さんが華丸に話があるそうだ、と言っていた。北川さんとは作者の北川悦吏子氏のことだ。これは面白いことになりそう!

 

 さて考えちゃうこととは何か。今日の放送では、いきなり4年後に飛び、鈴愛は漫画が売れなくて、アルバイトなんかしてる。心配した母親が鈴愛に見合い結婚を画策。師匠の秋風羽織に手紙を出し、鈴愛本人にも手紙と見合い写真を送る。そして見合いの相手とは地元の信用金庫に勤める男性だというのだ。

 

 いかにもありそうだ。最初、鈴愛の就職がいったんは決まった職場は地元の農協だった。今度は見合いの相手が「信用金庫」! でもこの設定、地方に暮らす人や、特に信用金庫に勤めている人にちょっと失礼ではないか。漫画家、恋愛、都会……その対極にあるのが信用金庫というのは。イメージとしてわかるというかすっぽりはまっているけど、でもなあ。都会の脚本家の大家が、田舎をばかにしてるという構図に誤解されないかと心配する。

 

 それにしても華丸大吉の司会は面白い。民放と違ってNHKは制約も多い。だがかえってその中での発言、切り返しが面白くなっている。で、「半分、多い。」の今日の放送分では、律のプロポーズは、やはり「オフサイド」だった。


脆い蜘蛛の巣

 日曜日の午後、読書をして、いい言葉に出会うといい気持ち。ホントの休息。

 

 ----「同一性とは、我々が身に纏ってきた一貫性の、弱弱しい暗示にすぎない。それは幻想であり、かつまったくの現実でもあり、幸福には不可欠なものなのだーー幸福が不可欠のものならばだが」トビーは洟をかみながら、肩越しに「へぼニーチェ!」と叫ぶ。----

 

 ----「アッカドを覚えているかしら、よくわたしたちに言っていたわ。『急げ、急げ。時計から時が漏れ出しているというのに、我々はまだ『大いなる秘密』をかすめただけなのだ』ねえブルース、わたしは彼の言う通りに急ごうとしたけれど、どうしてか足を踏み外してしまった……」----

 

 ----言語は大変結構なもので、我々はそれなしではやっていけないが、同時に言語は人間の最悪の発明でもあり、沈黙を堕落させ、知性の花弁をむしり取ってしまう。長く生きるほど、私は恥ずかしくなる----

 

 ----質量に重力が含まれているように、愛には悲しみが含まれている----

 

 ----因果律という作用は強力で数学的なものであり、心的な現象すらもそれから逃れられない----

 

 ----「我々の時代には、あまりに大きな自由が、人間の素晴らしき関係に形と重みーーすなわち真理ーーを与える脆い蜘蛛の巣を破壊してしまった。健康は我々のなかで歯痛のごとく猛威を振るっているが、生における美しき流儀、文体における美しき流儀も、粗忽なものにすっかりお株を奪われてしまった」----(ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏機船爛奪轡紂爾△襪い楼任侶主」藤井光訳より)

 

 この五重奏の第一巻は1974年の刊行で、エディンバラ大学の賞を受賞したというが、1970年代前半においてすでに現代をも予言しているような、それでいて古典的に通用するような言葉がちりばめられている。

 

 訳者の藤井氏のあとがきには、この第一巻にはグノーシス主義が大きく影を落としている、とある。ダレル氏ほどの作家の作品に接すると、西欧キリスト教文明も、なかなか一筋縄ではいかないなと思う。でもなんかどこかで仏教とも通じてくる感じもする。原著の刊行時、1974年にはリアルタイムで読めなかったが、むしろ若い時に読まなくてよかったかなあと思う次第。混乱に真っ逆様に振り落されていたかも。


スペクターサウンドの機微

 フィル・スペクターとはつくづくすごい人だなあと思った。BSTBS「SONG TO SUL」の再放送でロネッツの1963年のヒット曲「 ビー・マイ・ベイビー 」を取り上げていた。でもロネッツの話より、プロデューサーのフィル・スペクターの話になっちゃうのだ、存在が大きくて。

 

 スペクターサウンドは「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれた。録音で複数のテイクを重ねていくオーバーダビングを何度も繰り返す。重厚なサウンドは当時としては斬新で多くのミュージシャンに影響を与えた。スペクターは偏執的なまでに理想とするサウンド作りにこだわったという。

 「ビー・マイ・ベイビー」をカバーしたのはベイ・シティ・ローラーズ 、リンダ・ロンシュタット、 ジョン・レノン、それに我が国の弘田三枝子氏などなど多数。ドラムの出だしなど、当時としては新しかったとあらためて思う。

 

 曲・アルバムをプロデュースしたり影響を与えたのはキース・リチャーズ 、ブライアン・ウィルソン、ライチャーズ・ブラザーズ、 ビートルズ、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングティーン、大滝詠一氏などなど実に多く、いずれも大物。ちなみに大滝氏が手掛けた松田聖子氏の「風立ちぬ」は、もろスペクターサウンドだ。

 

 ビートルズとのからみでは、ポール・マッカートニーとのエピソードが興味深い。「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」にオーケストラやコーラスをかぶせたスペクターのプロデュースを、ポールは「オリジナル・コンセプトを無視した過剰プロデュース」と強い不満を持ち、憤慨したというのだ。でもオーケストラ、コーラス付きのあの曲が好きです。

 

 ジョン・レノンとジョージ・ハリスンはソロ・アルバムのプロデュースをスペクターにしてもらっている。私は特にジョージ・ハリスンの「オール・シングス・マスト・パス」が大好きなのだが、スペクターサウンドなくしてはあんな名作にはならなかったのでは、と思う。決してジョージの力量をおとしめているのではなく。あのスペクターサウンドの響き、余韻の中には、人生の、世界の機微が含まれている、確実に。

 
 ご承知の人も多いと思うが、フィル・スペクターは2003年2月、自宅で女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕され、今も収監中だ。何年か後に出所の予定と聞いたが、どうなるのか。

 

 ロネッツの他のヒット曲の紹介を聞いているうちに、耳になじみの曲がテレビから流れてきた。「WALKIN'  IN  THE  RAIN」だ。ウォーカー・ブラザーズがカバーしてヒットした。そういえばウォーカー・ブラザーズのサウンドもフィル・スペクターに似ている。ドラムやストリングス、エコーの使い方が。いや実にスペクターの影響は大きい。20世紀の音楽の功労者だ。

 


問題だけで答なしが問題

 日本の今の時代のヒット曲を聞いて、なぜ物足りない感じがするのか、考えた。問題提起にはなっていても、答がないからだと思った。歌に問題提起か、といわれるかもしれないけど、どんな音楽でも、あるいはどんな作品(文学、美術、映画その他)でも、問題提起と答、という構造があると思う。答の方は音楽でいえばサビとかカタルシスとかと似ているが必ずしも同じではない。また問題提起イコール答という場合もなくはないと思う。

 

 日本の昔の歌は問題提起に必ず答があった。昨夜、脳ベルSHOWヒットスタジオを見た。つのだひろさんなんかお元気で今も声量たっぷり。そしてたとえば橋本淳・筒美京平コンビの作品などに接すると、問題提起と答がちゃんとあると思う。今の時代のヒット曲にはそれがない。問題だけ出されて、最後は突き放される。欲求不満で、寂しく、空しい。問題提起したのはそっちなんだから、あとはちゃんと始末してくれよ、と言いたくなる。

 

 これは今の時代のテレビなどマスコミ報道でも同じではないだろうか。毎日毎日、「問題」の集中豪雨だ。答は示されない。永遠に先送り、というか担保もしない。投げ掛けっ放しの連続、奔流、堆積だ。目に見えない問題で飽和状態だ。

 

 だがしかし、それらマスコミによる「問題」は、実はないのだ。「現実」と同じように。その点で、音楽や芸術、いわゆる作品と呼ばれるフィクションは違う。問題提起はしている、だから責任取ってよ、ということなのだ。どうオチをつけるか、とりあえず決着させるか。現代の小説にもいえるが、あとは読者の感じ方考え方とらえ方という突き放しは、力量のなさだと思うべし。

 

 昔のプログレッシブロックのバンドでオランダのフォーカスというのがあった。ほとんどがインストルメンタルで、クラシックをよく取り入れて、抜群のテクニックとセンスがあった。その3枚目アルバムの中に「ANSWERS?  QUESTIONS!  QUESTIONS?  ANSWERS!」というのがあった。この頃のプログレには(だけでないが)問題提起と答がちゃんとありました。

 

 今日のNHKEテレ「日曜美術館」にロバート・キャンベルさんとジローラモさんが共演でびっくり。面白い取り合わせ。この日のテーマは建築・デザイン・機能的に見た日本の美術館。驚いたのは、ジローラモさんはなんともともと建築家だったのだ! 彼が言っていて、日本で暮らすようになって、それまで当たり前というか普通だったイタリアの芸術を見直した、価値を再評価したというのだ。うむ、なかなか。

 美人のソフィーさんという美術評論家も出ていた。帰りにジローラモさんが誘惑しないかと期待、いや心配したものだ。


常套句の催眠術

 先日出張に使ったバッグをよく見たら、ホテルで無料で置いてある新聞があった。普段はなるべく新聞を見ないが、ただだったので、しかも日曜日で書評欄があったのでゆっくり読もうと持って来たのだった。

 

 面白い書評が重なる時は重なるもので、つまらない時はまったくつまらない書評ばっかりというのはこれまで体験していた。この日は前者。紅茶を飲みながら読んだ。

 

 ----フィオナ・マクラウド/ウィリアム・シャープ著「夢のウラド」

 フィオナ・マクラウドといえば、芥川龍之介最後の恋人として知られる松村みね子の名訳「かなしき女王」や、荒俣宏訳「ケルト民話集」など、英国幻想文学好きにはおなじみの作家といっていいかもしれない。

 マクラウド、本名はウィリアム・シャープ。男性作家シャープが、女性作家マクラウドを名乗って活躍していたわけである。この事実は死後に判明、本書解説によると女性と信じて手紙でプロポーズまでしていた男性陣があわてふためいたとか。----

 

 マクラウド名義の作品は「暗く悲しく美しいケルトの神話的世界を描いた」。本書後半のシャープの作品は「キリスト磔刑を目撃した放浪の民の現代までに至る呪いの年代記……ちょっとコミカルな恋愛小説もあり、仏植民地下アルジェリアの砂漠の反乱を背景とした仏軍兵士と現地人に育てられたスペイン人女性の運命を描いた戦争小説あり、ロンドンの闇社会に生きる女性とテムズ川水上警察官の悲恋と悲劇あり、いやはやなんともほんとに同一人物の作品なのとびっくり仰天に豪華絢爛」という。こういう一筋縄ではいかない作家、興味津々。

 

 ----古田徹也著「言葉の魂の哲学」

 導きの糸となるのはウィトゲンシュタイン、そしてカール・クラウスだ。……クラウスは作家として知られるが、十九世紀末から四十年弱にわたって個人誌「炬火」を執筆・出版。当時の新聞ジャーナリズムを批判し続けた。ナチス内部のヒトラー独裁体制が確立した千九百二十一年の誌面に、彼はこう書きつけている。「日常の交わりで使う決まり文句の鮮度を高めること、かつては意味をもっていたのに今では物言わなくなった言葉の身元確認、それらを人間に教えることは有益だろう。……根源に近づけば近づくほど、戦争から遠ざかるのだ」----

 ----しっくりくる言葉を探すとき、私たちは似た意味の言葉の間で迷う。この迷いは、単なる表現の厳密さの問題ではない。それは道徳的な行いだとクラウスは言う。迷う過程で言葉の多面的な意味に触れた人は、常套句の催眠術から目覚めることができるからである。----

 

 クラウスの対極にあるのが当時のドイツの新聞であり、当時も今も日本の新聞だ。つまり表面で言ってるのとは正反対に国、国民を戦争に近づけているのだ。言葉の鮮度、使い方によって。それがわからないか。気がついている人はいる。と思う。

 

 ----若林恵著「さよなら未来」

 「IT革命」が世界を変えたという。本当だろうか。伝達のデバイスが変わったのは事実だ。だが伝えられる中身に、何かしら革命的な変化は起こったのか。----

 

 ----リン・H・ニコラス著「ナチズムに囚われた子どもたち 上下」

 本書はナチスの登場から崩壊後の数年にいたるまで、ドイツ国内と、独ソによって侵攻・占領された中東欧地域での子どもたちの受難を描いた分厚い歴史書である。----

 ----とりわけ、1944年6月にギリシャのディストモで起こった、パルチザンの攻撃に対する親衛隊の報復の描写は印象的だ。三五〇人の死者のうち、半数以上が子どもだったと推定されており、子どもどころか胎児までもいたぶり殺す、凄惨を極めるものであった。また、ナチスの崩壊とともに集団自殺に巻き込まれた乳児や、ベルリン市街戦のとき、敵軍の戦車を爆破して捕虜になった八歳の子どもにも言及されている。

 だが、子どもは歴史にただ翻弄されるだけの客体ではなかった。抵抗組織に入り非合法のビラを普通の新聞に紛れ込ませて配ったり、パルチザンに参加し武器を握ったり、空襲の最中、瓦礫を掘り起こす作業を大人に任せられたり。戦争終了後に食料配給の手伝いを大人に任され、はりきってテキパキこなした子どもたちの姿が、本書のなかでほとんど唯一明るい場面である。----

 

 最後の方に「ほとんど唯一明るい場面である」とあるが、これのどこが明るいのか。


朝の啓示

眠犬

 

 

 眠気に勝てない時は、眠ろう。朝起きてからまた考えよう。

 

 最近、朝早くといっても6時くらいだが目が覚める。7時くらいまで布団の中で考える。いろんなことを。やがて一つのことに収斂されてくる。それによって、その記憶が生まれた時、出来事が発生した時には気づかなかったことがわかる。というようなことがよく起こる。自分は、他人のある行動や言動について、怒ってもいいような事態でもその時には気がつかない。これって損な性分? それとも得な性分? ヒトがいいっていうにもほどがある? 要するに、遅いのだ。ずれてるのだ。やっぱり損かな。

 

 ウィリアム・ブレイクの詩の一説にこんなのがある。

 

 think in the morning, act in the noon, eat in the evening, and sleep in the night.

 

 あったりまえだのクラッカー、と言ってしまえばそれまでだが、特に「think」は朝がいいというのは本当だと思う。「あっ、あの時のあれはこういうことなんだ(こういうことだったんだ)」とわかることが多いですよ。


巨匠による世界の像

 文学は今の世の中ですでに死滅したものととらえているが、本は残っている。もう一度、本物の文学を読もうと思った。しかも大作を。大作を読む行為を大読という(いわないか)。本を読む行為に一定の期間エネルギーを費やすことは、その本の中の時間、世界に生きることだ。そこら辺の文学もどき(文学の死骸)に何の義理があろう。読みたい本物を読んでいいのだと思った。

 

 で、ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」である。とりあえずその「機廚痢屮爛奪轡紂次舛△襪い楼任侶主」に着手。ダレルの文体は形容詞や比喩を何のためらいもなく堂々と使う。文体、文章に関して、どんな拘束もいやだとばかり。恐らくダレルがどこかの「文章教室」に行くと、めっちゃ叱られると思う。形容詞を使わないでそのことを表現しなさい、と。そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、とばかりダレル節が全開。

 

 小説の中によく、ある人物の言葉、エピグラムというか箴言というか、が出てくる。それがまた実に深い。「アレキサンドリア四重奏」でもそうだが、ダレル文学の重要な核だ。例えば

 

 ----「現代の作家にとっては、現実なんてもう古臭くて使えたもんじゃない。俺たちは芸術の力で現実を蘇らせて、現代的にしなくちゃだめなんだ」

 

 「君たちが学んだことを考えてはならない。なるだけ早く、学んだことに生成したまえーーー身をもって生成したものは忘れるからね」

 

 「本当に死ぬものとは、過去の集合的な像なんだ。連続して存在してきた一時的な自己のすべてが、ある瞬間に集合するんだよーーーそれは完璧な集中の一瞬、明晰そのものの理解で、望むなら永続するものなんだ」

 

 「死にもそれ自体の明確な特性というものがある。大哲学者たちは常に、死の特性が証立てる世界の像に生あるうちに入り込み、心臓がまだ脈打つうちにそれと一体になろうとしてきた。彼らは死の特性を我が物としたのだ」----

 

 大げさな、とか、古臭い、野暮、カッコつけとか何と言われてもいい。これらの言葉に加えて、地の文章がアラベスク的に広がり、展開していく。文章を、言葉を読むことの醍醐味を満喫させてくれる。これに比べれば現代日本作家たちの小説なんて屁みたいなものだ。文章を書くこと、そしていい文章を読むことは生きていることと同義語だ。いい歳をした青二才といわれてもいい。いわゆる「文学」なんて大嫌い。いい文章とつまらない、ひどい文章があるのみ。ダレルの小説はヴィンテージもの。藤井光氏の訳文もすばらしいと思う。

 

 


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