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  • 2017.07.02 Sunday
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極限の想像力

岩木山夕景

 

 星占いに「想像力に際限はないことを認識すれば、すべての疑念が取り払われる」といった内容の言葉があって、なるほどと思った。想像力を極限まで推し進めてみること。打ち克ちがたい誘惑だ。現世を超え、宇宙を突き破る想像力。おそらく原始仏教なんかそんな感じなのだろう。禅宗でも道元なんかはその人の思想に魅力があるが、空とか無とかって果たして正しいのだろうかと最近疑問に思ってきた。何かすごい装置、からくりで、人は陥穽にはまってしまうのではないか。道元の深海を歩いて渡るみたいなイメージはすごく好きなのだが。いわゆる禅はなんだか。といって浄土系は生理的に受け付けない。古代インド思想史からまた勉強し直します。


たった一つの点

 再び、小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」から。

 

 ----「……天命があるのかないのかなど知らぬ。ただわかっているのは、天も地も動く……ということだけだ」

 「地も? 天を動かすのは、天の理(ことわり)だ。では何が地を動かすのだ?」

 「天の理があるのだから、地にも理があるのだろう」

 

 ----晴明は、

 「天も地も動く」

 そうつぶやいた瞬間、腹の底からふつふつと笑いが込みあげてくるのを感じた。……

 地が動くならば天も動く。……未来は定まっていない。

 気が抜けるほど簡単なことではないか。

 

 ----大きなパターンは確かにある。

 歴史に深く縫いこまれたそれを変えるのは容易ではない。……

 けれど、たった一つの点によってパターン全体が意味するものは変わりうるんだ。----

 

 最近ぼんやり考えていたことを、雲を払うように、はっきりさせてくれた。これこそ歴史、歴史と人間、人間の「理」ではないか。気が抜けるほど簡単なこと。大きなパターンはある。でもたった一つの点が、その意味を変える。未来は定まっていない。

 

 


「不自由」という言葉はなかった

 正月早々、読んだ本に出てきた数行がいまだに頭から離れない。小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」の一節。

 

 ----たとえば、「自由」という言葉。この言葉の意味は平安時代とその千年後では大きく変わってしまっている。千年後の自分はそれが、「FREE」という外国の言葉にあてて「何ものにも制限されずおのれの意思に従って行動する」ことであり、むしろ望ましい姿として、使われるということを体感として知っている。だが、平安にいる自分にとっては、自由とは「規律規範に従わず思うままわがままに振舞うさま」であると感じられる。もう一人の自分がいる世界で使われる「不自由」という言葉は、平安の世にはない。自由でない状態が、本来のあるべき姿、だからだ。

 縛られてなどいない。これがあるがままの姿なのだ。----

 

 安倍晴明が平安時代と現代にいて、行き来しながら考え行動するという小説。その中で晴明が考えたことだ。

 

 「自由」という日本語、訳語は西洋の「LIBERTY」を福沢諭吉があてたらしい。古来中国、日本では自由とは「わがまま放蕩」の意味だったという。

 

 「自由」という表記、漢字の問題と、哲学その他での概念の問題と二つあると思われるが、いずれにしろ上記の文章に接した時、かなりの衝撃を受けた。

 

 自由とは他の自由を阻害することでもあるのか否か。

 

 実は上記の文章による衝撃は、少なからず慰めと癒しを与えてくれた。自由とは絶対的なものではないという点において。

 

 でも……、と考え続ける毎日だ。


スリランカの3人の王子

神木

 

 ある資料を探していて、たまたま古いソフトに目が留まった。そのドキュメントに「セレンディピティ」という言葉があり、しばし本来の作業の手を止めて、読んだ。

 

 「セレンディピティ」という言葉は、「オトラント城奇譚」で知られる英国のホレス・ウォルポールの造語で「偶然に、幸運な思わぬ発見をすること。または思わぬ発見をする才能」とあった。まさにセレンディピティでセレンディピティを発見したわけだ。
 

 スリランカ、ちょっと前はセイロンの国の旧称というかアラビア語が「セレンディップ」。その3人の王子が探し物発見の名人で四六時中探し物をしている。だが目当てのものではなく別の珍しい、貴重なものを見つけてしまう、という話がある。ウォルポールはそこから取った。

 

 ソフト解説書というか宣伝文では過去の例を挙げている。考古学上の世紀の大発見でエジプト古代文明解明の鍵となった「ロゼッタ・ストーン」、アブラハム・リンカーンが貧しい少年時代、見知らぬ哀れな男にほだされて古い樽を1ドルで買った、開けてみたら「法律釈義」一式が入っていて、読みふけりやがて法律家をめざし、あげくは米国大統領にまで昇り詰めた……など。

 

 また身近な例も挙げている。例えば、初対面の人と会話を交わすうち共通の知人が何人も出てきて驚く。事典などをめくっていると突然目に飛び込んでくる言葉や写真にひかれ、本来の目的も忘れ見入ったりする。予備知識もなく期待もなく見た映画が思い出に残る作品になる、など。

 

 で、そうしたことを信じない人たちについて述べた言葉が、興味深かった。否定的発言や、批判や、皮肉や、辛口の発言が知的に見えると錯覚している人が多い世の中を誰が望んでいただろう? というのだ。その通りだと思う。そういう人たちの代表がテレビのキャスターやコメンテーターでしょうね。

 

 最近テレビを見るっていうとBSばっかり。地上波で見るのはテレ東ぐらい。仕方なく他局の番組を見るときはCMの間、消音にしている。NHKも番宣が多すぎて。

 

 最近はキャスターやコメンテーターばかりでなく、ニュースの現場の記者すら意見や批判を言う。ま、自分の真の意見というのじゃないけど、局の方針に沿った言動だけど。「@@の狙いがあるものとみられます」「批判(反発)は必至です」とか。朝日じゃなくとも、一つの(偏った)見方考え方からとらえるのは、それが簡単だからだ。仕事をしていないのをごまかしている。誰もどこも報道しなかったような大事な事実を見つけて来い、と言いたい。それが仕事でしょう? タブレット見ながらありきたりなレポートをして、しかもかんだりとちったりして。

 

 おっと脱線してしまった。本来の作業が遅れてしまった。でも「セレンディピティ」という寄り道も楽しい。


5万人と50人〜ボブ・ディランの受賞スピーチ

 休刊日だからというわけでないが、コンビニでスポーツ紙を買って読んだら、めっけものがあった。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞スピーチが載っていたのだ。要旨とあるが、全文に近いのではないか。その、それこそ要旨は

 

 ----幼い頃からノーベル文学賞をもらうような作家の作品を読んできた(キプリング、バーナード・ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、ヘミングウェーなど)。このリストに私の名前が連ねられることに言葉を失う。私の受賞の可能性は月面に立つのと同じくらいの確率だ。

 シェークスピアのことが頭に浮かんだ。彼は自分を劇作家と考えていた。文学作品を書いているという考えはなかっただろう。彼の文章は舞台のために書かれた。読まれるためではなく話されるためだった。創造的な構想が思考の中心にあったかもしれないが、もっと日常的なことも考え、対処しなくてはならなかった。ハムレットにふさわしい役者は、資金繰り、後援者が座る席、小道具の頭蓋骨をどこで手に入れよう、など。これは文学だろうかなんて考える暇はなかった。

 自分が歌を作り始め、認められるようになっても、夢は大したものではなかった。カフェやバーで歌う、大きなホールで歌う、少し大きくなってもレコードを発表し、ラジオで流れるぐらい。----

 

 こんな内容で、シェークスピアの例えは、なるほどと思う。文学をやってるとは意識してないという共通点だ。この後の言葉がとても印象的だ。

 

 ----これまで演奏家として5万人を前に演奏したこともあれば、50人のために演奏したこともあります。しかし50人に演奏する方がより難しい。5万人は「1つの人格」に見えますが、50人はそうではありません。1人1人が個別のアイデンティティー、いわば自分だけの世界を持っています。物事をより明瞭に理解することができるのです。----

 

 そしてノーベル賞委員会が少人数だということが自分にとって大切なこと、という。

 

 5万人と50人、この話はこのスピーチの、あるいはボブ・ディランの精神の鍵であり、今の世界への疑問、批判にもなり得る。

 

 ----しかしシェークスピアのように私も、創造的な努力とともにあらゆる日常的な物事に追われることばかりです。この歌にうってつけのミュージシャンは、このスタジオはレコーディングに適しているか、この歌のキーはこれで正しいか。400年もの間、何も変わらないことがあるわけです。

 これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問したことは一度もありませんでした。そのような問い掛けを考えることに時間をかけ、最終的に素晴らしい答を出していただいたスウェーデン・アカデミーに感謝します。----

 

 スピーチとして、ノーベル賞委員会への答えとして、これ以上の内容はないだろう。よほど考えたと思う。誠実に答え、でも自分の考えははっきり言っている。シェークスピアから400年、何も変わらないという一方で、時代は変わったのだ。彼が変えたのだ。

 ボブ・ディランの歌はあまり聞かない。カバーのは、バーズやジョージ・ハリソンなどいっぱい聞いている。そんな好きでも嫌いでもない。でも上記のスピーチに接してあらためて、今回の受賞はふさわしいと思った。彼は若い時はいろいろ悩みもしただろうが、今は健全な常識と感覚を持った「文学者」だと思う。

 

 ちなみにノーベル賞選考委員のホーラス・エングダール氏はこうスピーチしたという。「古代ギリシャの詩人や古代ローマの思想家に並ぶ価値のある歌手だ。文學界で不満を言う人があれば、神々は文章を書かず、歌い、踊ってきたと伝えたい」。

 ちょっと待って。ボブ・ディランは神ではない。人間だ。歌詞というか詩を書き、曲を書き、人に歌で伝えてきた。歌手というより詩人だ。だから文学賞がふさわしいのだ。

 

 テレビのニュースか何かでもボブ・ディランのスピーチについて触れていたと思うが、ひとことかふたことに省略。全文かこのぐらいの要旨を読んでみなくては何もわからない。スポーツ紙がよく載せてくれたと思う。


水平線はすぐそこ

七里長浜

 

 先日テレビのクイズ番組で知って驚いた。水平線までの距離は、計算すれば、4キロちょっとだって。近い! 近すぎる。なんかショック。

 

 水平線といえば古今東西、詩や歌にうたわれてきた。英語ではムーディー・ブルースの「New Hrizons」。ジェネシス時代のスティーヴ・ハケットのギターソロ「Hrizons」。名曲が多い。はるか遠くの水平線を越えて、みたいなイメージ。それが日本の昔の言い方でいうと、一里ちょっと! 水平線が一里塚! ウォーキングで4〜5キロなんてすぐですよ。

 

 ランボーの詩「永遠」は、「水平線」っていってもいいのではないかと思う。日本語訳は堀口大学、小林秀雄、中原中也など実に種類がさまざまだが、誰かのと誰かのが混じったみたいだけど、こう覚えている。というかこれが好き。

 

 ----またみつけたぞ! ーー何を? ーー永遠を。 それは太陽と番った海だ。----

 

 番った(つがった)がいいか悪いか議論はあるようだが、番ってもいいじゃん。違ってもいいじゃん。(なまってるのでなく)。ランボーはまさに19世紀後半の、詩のプログレッシブ・ロックなのだった。


よき細工は少し鈍き刀を使う

蓮の花

 

 白洲正子さんに小林秀雄氏についてインタビューした記事が1991年の新聞に載っていた。

 

 ----美しい<花>がある、<花>の美しさといふ様なものはない。----

 

 小林氏の「当麻」に出てくる有名な言葉を冒頭に掲げ、白洲さんが語る。

 

 ----小林さんのこの言葉の「花」を「物」に置き換えてみると、小林さんの美意識がよくわかってきます。

 物の美しさについては人は限りなくしゃべることが出来ます。形が良いとか色が素晴らしいとか、あるいはこの欠けた部分がいいとか。でも、真に美しい物はそれなりで自足しており、沈黙を強います。それは、相手が絵でも焼きもの、文学でも同じ。沈黙したものを対象に、我慢を重ねて、向こうが自然に語りかけてくるまで耐えるんです。待つんです。小林さんはそこに焦点をしぼって書いた評論家でしたね。

 小林さんは「器物の美しさ」と、「美しい器物」を使い分けている。「抽象的な観念」と「具体的な物」との違いであり、また、「惑わしに満ちた言葉」と「無言の物」との対決とでもいったらいいのかしら。----

 

 ----いまのひとはしゃべりすぎますね。評論家も、作家も。単なる知識の羅列か言葉の装飾、そして抽象的な美の讃歌。あんまり信用しませんね。そういう人たちは。----

 

 小林秀雄氏は吉田満氏の「戦艦大和」をどうしても刊行させたくて、河上徹太郎氏の紹介で、進駐軍に顔がきいた白洲次郎氏(正子さんの夫)に頼みに家に来て、それ以来のつきあいだという。

 

 小林氏もいろんな苦悩、煩悩、葛藤を経てある境地に達した。

 

 ----それ以降、文体にはっきりした違いがあらわれましたね。思想的に円熟していくと同時に、言葉は抑えられ、平明で読みやすい文章に変わっていきました。平明だからわかりやすいということではなく、「よき細工は、少し鈍き刀を使う」(徒然草)というでしょう。物が見えすぎる眼を御しながら、自由自在に己が姿を表せるようになったんです。----

 

 いまのひとはしゃべりすぎ、ってホントだね。鈍すぎる刀で不細工ばっかりつくっている。ちょっと昔、「そんなの関係ねー」というギャグが流行ったが、今は非常に激しくどうでもいいことばかりがメディアで喧伝されている。雑音ばかり。

 

 それと今思い出したが、最近テレビの音、ジングルというのかSEというのかチャイムみたいな音、どきっとするようなのが多い。つまり緊急地震速報と誤解するようなのが。あれ、やめてほしい。被災地の人はもっとどきりとするだろう。「あさイチ」の画面左上に出る時計も、ゆらゆら揺れて、どきっとする。無神経だね。


太陽の子である YES!

 この詩、この詩人はすごい。福士幸次郎。弘前生まれ。青森の浦町小、青森高育ち。日本の口語詩のパイオニアだ。以下の詩は詩集「太陽の子」の中の「自分は太陽の子である」。萩原朔太郎は、この詩の暗示がなかったら自分の「月に吠える」はなかったと言っている。※詩集「太陽の子」はネットで全文読めます。

<自分は太陽の子である>

自分は太陽の子である
未だ燃えるだけ燃えたことのない太陽の子である

いま口火をつけられている
そろそろ煤ぶりかけている
ああこの煙が焔になる
自分はまっぴるまのあかるい幻想にせめられて止まないのだ

明るい白光の原っぱである
ひかり充ちた都会のまんなかである
嶺にはづかしそうに純白な雪が輝く山脈である

自分はこの幻想にせめられて
いま煤ぶりつつあるのだ

ああひかりある世界よ
光ある空中よ

ああひかりある人間よ
総身眼のごとき人よ
総身象牙彫のごとき人よ
怜悧で健康で力あふるる人よ

自分は暗いみずぼったいじめじめした所から産声をあげた
けれども自分は太陽の子である
燃えることを憧れてやまない太陽の子である


 さらにこの詩集の冒頭にこの言葉が引用されている。

 錘
 これは全世界を失つて彼自身の靈魂を得た人の問題である
(アアサア・シモンズ「文藝上における象徴派の運動」)

 ああ、世紀末! そこから太陽!

 太陽の子という詩句から、プログレロックのYES「海洋地形学の物語」の第4楽章を思い出す。
 「NOUS SOMMES DU SOLEIL」〜We Are Of The Sun〜

 口火をつけられ、燻ぶりかけている、発火はもうすぐだ。
 

五感の語感

 養老孟司先生は

 ----文明化された情報化社会を生きる現代人は、動物と比べて意識を使うことに偏り、五感など感覚を使わないようにして生きている----

 という。

 夢枕獏氏は

 ----式神は、日本古来の神、つまり縄文の神々ではないかと思っている。
 ----日本人は、全ての自然物、動物、植物、石、水、風、あらゆるものに霊が宿っていると考えている民族である。
 ----かような八百万(やおよろず)の神がおわす国が、この日本国なのである。
 ----この神々のルーツが、縄文の神々ではないかとぼくは考えているのである。

 という。

 いいなあ。この考えに賛成というよりも、こんなことを考えて毎日暮らしたい。

 夏のちょっと前に聞くといいのがジェファーソン・エアプレインの「シュールレアリスティック・ピロー」。
 「トゥデイ」や「カミングバック・トゥ・ミー」を聞くと、高校の夏休みの前を想い出す。ふと別のクラスの女の子の顔を想い出したりする。特にその子が好きだとかいうのではなくて、その年頃の少女というもの全般に対する愛のようなものを感じる。これって何なんでしょう。(知るか!そんなもの、と言われそう)。
 感覚、ということです。

 言葉じゃないよね、とかよく歌詞なんかにあるが、厳密に言えば「意識じゃないよね」なのだと思う。言葉を過大評価しても過小評価してもいけない。しっぺ返しを食らう。

 五感、の語感、互換、語間。

言葉は見つめ合いのセッティング

 新聞で今日見た一番衝撃的な文章はこれ。霊長類学者で京都大学の学長、山極寿一氏のゴリラに関する文章で、氏がゴリラと身近に暮らして

 ----奇妙に思ったことがある。それは、ゴリラが私の顔をのぞきこむように見つめることだ。----

 まず3メートルぐらいで立ち止まり、見つめる。それから顔を寄せてわずか20センチ。それは、あいさつだという。みつめあうことがコミュニケーション。

 ----よくよく考えてみると、人間も同じようなことをしている。毎日いろんな場面で私たちは対面している。でも、対面すればすぐに言葉を交わすので、会話をするために対面していると思っている。本当にそうだろうか。言葉が声による情報交換の手段なら、別に対面しなくたっていいはずだ。……それは、おそらくゴリラと同じように、対面しながら相手の気持ちを了解しあうことが必要だからに違いない。----

 そして人間の対面は少し距離を置いて、相手の目の動きを手がかりにして感情の動きを読んでいるという。人間の目は白目の部分が大きく、視線の方向や細やかな目の動きをとらえるという。

 ----人間が対面する目的は、目の動きを読みながら相手と心でつながるためなのではないだろうか。言葉はむしろ、その機会をつくり、その機能を高めるためにできたのではないか、とさえ私には思えてきたのである。----

 これってすごいことでしょ。コペルニクス的転回でしょ。人間は誰かと対面すれば、すぐ会話してしまう。でも本当は見つめ合ったり、少なくとも目の動きで気持ちを知ることが重要。言葉による会話は、それをうまくするための手段。というよりその準備、お膳立て、前振り。ここに目的と手段のはき違えがある。

 言葉は見つめ合うための手段、ツール。恋愛にも文学にもいえるのかも。哲学にも。でもメディアはそうじゃないところに問題がある。

 イケメンゴリラ、というより哲学者的ゴリラ、死んじゃった。ああしてネットに画像が出回って、いやんなっちゃったのかも。

 

 

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