思慮深く無分別に、注意深く不注意に

 星占いの言葉にドキッとした。

 

 ----今あなたが得ることができないのは「究極の答え」です。一回食べただけで満腹になり、その後一切食事をとる必要はない。そんな食事はありませんね? あるいは、一晩寝ただけで一生分に相当する睡眠がとれるので、ベッドや布団をすべて処分しても構わない。そんな睡眠もありませんね? これらの例と同じく、究極の答えは存在しないということです。

 

 ----その問題を一時的に解決する方法が見つかったら、ためらわずにその方法をありがたく受け取りましょう。ご安心ください。たとえその方法がダメになっても、次から次へと別の解決方法が出てくるでしょうから! 当面は、思慮深く無分別になり、注意深く不注意になってください。----

 

 ほっとした。別に苦境に立っているわけではないが、救われる思いがした。

 

 仏教や何やを(ほんのちょっとだが)かじって、わかったことは、たとえ悟りの境地に立ったとしても、それ以後永遠にその中で生きているわけではなく、一晩寝れば翌朝から、またイチから、いやゼロから始まるということだ。無限にそれの繰り返しということ。疲れるような話だけど、悟りの記憶があるんだったらそこまでの過程を楽しめばいいんだなあと。記憶っていっても悟り自体でなく幻想のようなものだけど。

 

 究極の答えは存在しない。一時的に解決する方法が見つかったら、ためらわずにその方法をありがたく受け取りましょう。


五木さんの言葉

 細川たかしさんの「望郷じょんがら」に、「いいことばかり手紙に書いて」という歌詞が出てくる。歴史、といえばおおげさだが、自分の家系を調べたり祖父母や親類を思い出す際にも、そういう作用がはたらいているのだろうと思う。でもいいことから思い出さないと、いやな点に目をつけると、やる気にならないものね。

 

 吉本隆明氏とフーコーの対談であったか、「歴史は偶然のように、常に理念の失敗のように出てくるのはなぜか」という言葉があった。日本史でも世界史でも、そうだよね。極度な陰謀論はどうかと思うが、でも謀略や嘘や偶然的な出来事、失敗、行き違い、誤解などでできていると思えてくる。中にはホント、ひどい話もある。

 

 今の世の中も、信じられないような無知、思い違い、嘘、矛盾の論理を平気で打ち出し、そこそこの地位にいる人もいる。会社や組織、各職場に必ずいる。それはほとんどの人が否定しないと思う。それでも世の中、なんとか回っている。歴史と同じなのかな。

 

 若い頃は、家系や親類から自由でいたかった。だって関係ないもの、自分は自分だと。歳を取ってきて、もうそうしたものから自由になったと感じる。そうすると逆に冷静に客観的に家系などを見ることができる。不思議なものだね。よく昔は、結婚は家と家のこと、新郎新婦だけのことじゃないといわれ、それに対して封建的と批判もあった。

 

 でも、封建的云々じゃなく、やっぱり家と家なのだなあと今は実感する。ちょっとその辺わからなくなってきた最近、雑誌の対談だかで五木寛之さんの言葉を目にした。親、祖父母、祖先などから、遺伝子だけでなく受け継いでいるものがあり、それを大切にしないと、といった意味だった。ああ、そうか、ホントだなと思った。救われる思いがした。五木さんに感謝します。


なんでもない風景

 新聞に載っていた荒川洋治氏の文章に共感した。

 

 ----どんな風景のなかを歩いてきたか。美しい風景でもないし、心洗われる風景でもない。なんの変哲もない風景のなかを通ってきたと思う。

 たとえば、いなか道を歩く。何かの草がはえている。ガードレールのついた道。情緒もない。取柄もない。見どころもない。この地点と別の地点をつなぐ。それだけの、まさに殺風景なものだ。歩くときは目をつむっているほうがいいな、とも感じる。いなかだけではない。平凡な風景はここかしこにある。

 ぼくは最近、そういう風景に興味をもちはじめた。人が見ている風景の大半は、そういう風景であるからだ。----

 

 この部分だけで(引用は)いいかなとも思うが、この後、荒川氏は小説のフォークナー「八月の光」、木山捷平「七人の乙女」のある箇所を引用し、「特徴のない風景も、描かれると姿を変える。特徴を身につけるのだ」と書いている。また西脇順三郎の詩を引用してこう書いている。

 

----西脇順三郎の名詩「旅人かへらず」は、春夏秋冬の郊外の風光をめぐる。この長編詩の最後は

 

 水茎の長く映る渡しをわたり

 草の実のさがる藪を通り

 幻影の人は去る

 永劫の旅人は帰らず

 

 感動的な結びだけれど、そこにも普通の風景がひそんでいただろう。「水茎の長く映る」とはいえ、それはそのように書いてみただけのことかもしれない。詩情が実景をおおいかくしているのだ。小説も詩歌も、よき風景に応えるだけではない。平凡なものにも反応した。そのしるしである。----

 

 こうしてあらためて見ると、西脇順三郎氏の詩もいいなあと思う。それはおいて、荒川氏はこう続ける。

 

 ----こうした地味な風景があることで、ことばが生まれる。思いも生まれた。人から見放されたかのような風景にも意味があるのだ。人はみな、それらといっしょに、とても長い時間を過ごしてきたのだ。----

 

 別になんということもない風景、それは都会の裏通りでも農村漁村でもだが、いいなあと思う。火野正平氏の「こころ旅」でも、三宅裕司氏の(回復を願う)「ふるさる探訪」でも、エピソードや人との会話もいいが、実はこのなんでもない風景が映るからいいんだなこれが。おそらくそういう人もけっこういて、それが根強い人気の秘密なのではないか。

 

 トシかな、とも思う。でも世界の超絶景みたいなのは疲れる。若い人は見たらいい。本物の景色を、海外旅行して見たいとは思わない。見る側の、知識や意識がちゃんとしてないと、見てもなんにもならない。写真ばっかり撮ってるのもばからしいが、心のカメラがいいカメラでないと、綺麗には映らない写らない。BSで見てれば、それでいいと思ってしまう。

 

 でも今日の「こころ旅DC」(ディレクターズカット)を見てて、ちょっと違和感を覚えた。手紙の主は、現在いる地方の町を、なんにもない町どうということはない町、でも思い出がある、てな具合に紹介推薦していた(途中で本人が出て来たのは興ざめだったが)。これを採用した監督(ディレクター)はおそらく都会育ちだったのではないか。昼日中、通りは誰も歩いていない。でも田舎の通りはそんなものだ。珍しくもなんともない。なんにもないということを「売り」にしてほしくないのだ。

 それと、上記のなんでもない風景とは、似ているようで違うものだ。ここ、微妙なところで、わかってほしいのだが。ものすごく美しい話、悲しい話、面白いエピソードがあってもいい、もちろん。その本筋と関係なく、道すがらに映る平凡な風景がいいのだ。都会育ちの監督は知らないからしようがない。それはそうだ。でも、自分が知らないこともいっぱいあるっていう意識だけは持ってほしい。

 

 文学(本物の)とは、荒川氏が紹介したように、ドラマティックな風景でなく、地味な風景の上に生まれた言葉から発展したものではないか。昨今の文学賞受賞作みたいにヴァイオレンスの力を借りるのは、それだけポテンシャルが低いことをみせているようなものだ。それにしても昔は西脇順三郎氏の詩はあまり好きではなかったが、今、その一端に触れて、意外にぐっと来た。感傷に走らず理知的でそれでいてぐっと来る。読み返してみようっと。


全ての人が神仏、己自身、その辺のエロ坊主も

 身近な人が死に、知り合いの人は小生を利用しようとしていたことがわかり、ちょっと落ち込んだ。そんな時、「宗像教授異考録」シリーズを読み返していたら、以下の言葉に出会った(再会?)。

 

 ----仏典によればブッダ入滅から、56億7千万年後に弥勒という菩薩が鶏頭山に現れて人類を救済します。

 

 ----時代は変わってもこの世に怒りの種は尽きない。神も仏もあるものかと嘆くことも多いな。

 

 ----全ての人が神仏だと考えよ。全ての人が己自身だと考えよ。

 

 ----人が死ねば”我”(アートマン)という霊魂になって巨大な光の渦に導かれる。”梵天”(ブラフマー)ーーー宇宙を創造した神。我(アートマン)は梵天(ブラフマー)の一部”梵”(ブラフマン)に戻る。

 

 ----梵天はなぜ世界を造ったのかーーー全ての人生を経験するためだ! 全ての人生の総体が世界だからだ!

 

 ----苦痛の中で死んでいく経験もあれば……それを鞭打って嘲る者の経験もある。修行を積んだ高僧も、その辺のエロ坊主も全ておまえさんと同じく我(アートマン)であり梵(ブラフマン)なのだ。善も悪もなく時間の順序もない。

 

 ----何百億何千億もの人として生まれ、喜び悲しみ、苦痛と死の恐怖、それぞれの人生を何千回何万回と生きて何千回何万回と死ぬのだ。----(第1集第4話「大天竺鶏足記」より)

 

 前に仏教関係の書物で接したことがあったような言葉だが、あらためて感じ入った。「全ての人が神仏、己自身」とはなかなか考えにくいが、だってあいつが神仏や己自身とは思いたくないが、でもその次元ではないのだろう。と、ごまかしてもだめか。己の一部とは、認めたくないけれど、考えてもいいのかな。自分は人を利用したりしないけれど。でも。

 

 少し、いやかなり気持ちが落ち着いた。


アメフトと略さないで!

 アメリカンフットボールの事件の報道に、いやんなっちゃった。「……というのが真実です」とコーチが言った。真実はあんたが決めることじゃないよ、「事実」でしょ?!

 

 会見を打ち切ろうとした広報担当もえらそうだけど、会見の記者の質問もひどいね。なんも勉強してない。ところで新聞社や通信社OBで大学なんかに天下り?してる人間も多い。その辺の実態を探る報道なんてできないのか。官僚もマスコミも一緒か。

 

 テレビのニュースなんかで「アメフト部」というのは、なんだかなあ。略さずちゃんと「アメリカンフットボール部」と言ってほしい。2秒も違わないでしょ。

 

 (反則プレーを)指示した、しないはどうでもいいんじゃない? そこまで選手を追い込んだ、追い詰めたのは指導者の責任でしょ? というか選手のプレーの責任は指導者にあるんじゃないの? 刑事事件としては監督の責任は問えないとか、関係ない!

 

 昔、上司に日大OBがいて、部下に東大OBがいてこいつができないヤツで、上司がいつも怒鳴りつけていた。日大がんばれ!

 

 関西学院大がんばれ! 日体大もがんばれ! 


人間のプロはいない〜山崎努氏の言葉に感銘

 立ち読みは楽しい。思わぬ名言やインパクトのある言葉に接することがある。「サライ」に俳優の山崎努氏のロングインタビューが載っていた。

 

 氏は「人間はみなアマチュアだ。人間のプロはいない」という。思春期から進学、就職、結婚、出産、子供の成長・独立など、人生の節目、だけでなく出来事はすべて「初体験」であるという。人間は手探りで、試行錯誤でやっていくしかない、という。

 

 反論がありそうだ。結婚を二度した人はどうなのか。浪人して受験を二度した人は、就職を二度三度とした人は? でも、最初の結婚は一度だけである。受験も就職も。実際、一度だけだから人生の諸事をみんなすることができる。知らないということは強い。知っちゃったらあんな恥ずかしいこと、大変なこと、わずらわしいこと、できるわけがない。でもこの世には少なくとも恥ずかしさなんかを感じずに二度三度とできる人もいるらしい。

 

 挫折は何度もありそうだ。でも、こんな言葉を同じ誌面で見つけた。人生で試練があった時、それにがむしゃらに立ち向かわないで、脱力感でやり過ごす、そして、もしもこうなったらいいなあという願望をよわ〜く抱く。そうするとその願望がかなえられることがあるというのだ。

 

 これってわかるような気がする。いや、実際あった。なんだか神様や運に対する時も、作戦というか駆け引きが必要な気がする。目立たないように受け止めてやり過ごし、目立たないように希望を祈願するのだ。激しく、強く、大きな声・音を立てて、でなく、そうっと、さりげなく。


トントントントン宇宙の2トン

 昨日の鈴木大拙の言葉で、もう一つ思い出した。一番大きな言葉かもしれないのに、なんで忘れていたのか。ったくもう自分は。

 

 ----大拙がテーブルをトントンたたき(日野の2トンでない)、岡村さんに、この音をどこが聞いたかと問うた。岡村さんは、ただ「耳」というと違うといわれそうと思い、「全身」と答えた。大拙は、違う、全宇宙が聞いてそれが岡村さんに顕れたのだよ、と言ったという。----

 

 この辺は最新物理学にも通じそうだ。

 

 さて以下は山崎正和著「リズムの哲学ノート」の書評(安田登氏)から。

 

 ----そして「あらゆることは意欲でなんとかなる」という「自由意志の桎梏」に閉じ込められている私たちが、本当の意味で自由になるために、森羅万象に生成するリズムを体感しながら生きることを提案する。季節の変化を繊細に感じ取り、年中行事を丹念に営み、日常の些事を心を込めて行うことが、そうした感覚を研ぎ澄ましていくことなのだ、と。

 本書を読み終えて街に出ると、人波のリズムにも身体は共振し、自己が拡張していくのを感じられるだろう。----

 

 そう、リズムなのだ大事なのは。そして日常の些事。これは道元にも通じる。

 何事においても不調、うまくいかない時は、リズムに乗れていない、あるいは忘れている状態である場合が多い。時間、リズムを感じるような精神状態、なんら難しいことはなく、ただ感じればいいのだ。大森荘蔵氏は「時は流れず」と言い、時間はないのだ、意識はないのだと言い、そのことで自由を取り戻すことを逆説的に主張した。訓練すればだれでも二週間ぐらいでできるようになると書いていた。

 

 

 世界卓球選手権で国際卓球連盟はとんでもないことをやらかした。ルール破りの大会中の南北合同チーム承認だ。ルールに基づくというスポーツの根本を踏みにじった。平和のためにここはルールを変更して、というのはファシストの言いぐさであり行動である。スポーツの純粋性が政治の汚れた靴底に踏みにじられるのには怒りを覚える。

 

 日本女子も中国には勝てなかった。今朝のテレビで元全日本女子チャンピオンが「パワー」「回転」「スピード」の3要素を挙げて解説していたが、小生に言わせれば、というかあらゆるスポーツに言えることだが、「時間」と「空間」がいかに大事かということだ。中国との決勝でも、いやホントに中国選手に脱帽です。「時間」では、速い球だけでなく少し遅い球を交えて相手のリズムを微妙に狂わす。「空間」では前陣が多い中国選手でも、時には台から離れてプレーする。この辺が中国選手はうまい、すばらしい。ただ速いとか強いとか球のキレとかでなく、この辺が今後特に東京五輪への課題であり、これを克服すれば日本の金メダルはかなり見えてくると思う。

 

 それと選手のコメントで気になるのが「楽しんでプレーする(プレーできた)」の言葉だ。誤解されないかと思うんだよね。この「楽しんで」はもちろん飲み会やバーベキューなんかとは違うわけで、苦しい時もそれを上、外から別の自分が見ているような、楽しさに変える、というより楽しい側面にも気づきながら、ということだと思う。非常にストイックな楽しさ。ゲームをプレイ。修行を積んだ者だから味わえる楽しさ。だから簡単に言って、皆さんが理解できるような言葉、境地じゃないので。

 中国から日本勢で唯一の白星を挙げた伊藤美誠さんは、きっとこの楽しさを身につけ味わっていたのではないかな。


もう一度リンゴを

 テレビから聞こえる言葉で、こんなに一字一句に集中したことは久しぶりだった。NHK・Eテレ「こころの時代」で今日放送の(再放送だが)「大拙先生とわたし」だ。禅の研究で知られる仏教哲学者・鈴木大拙について、鈴木大拙記念館(金沢市)名誉館長の岡村美穂子さんが語る。ニューヨーク生まれの岡村さんの自宅に、鈴木大拙が寄宿し米国での活動の拠点にしていた。岡村さんは15歳の時に80歳の大拙に出会い、以来大拙の活動を支えた。録画ができない場所でたまたまチャンネルを切り替えていたら目にしたもので、記憶に頼らざるを得ないのだが、以下、印象に残った言葉を記す。

 

 ----自由とは仏教用語である。大拙が米国の人びとに説いたのは、西洋(キリスト教)の自由は、初めに何か不自由なものがあってそこからの自由。だが仏教の自由は「自ずからの由」の自由なのだ、と。

 

 ----大拙が「路上」などで知られる作家、ジャック・ケラワックらビート族(岡村さんの言葉=なんかひょうきん族みたい)、つまりビートニク、ビートジェネレーションの人たちと会話した際、西洋の自由とは腕の肘を逆方向に曲げるようなものだと説いた。それは痛いし、腕が使えなくなって不自由だ、というのだ。ケラワックは感心して聴いていたという。

 

 ----同じく米国のキリスト教徒たちに、エデンの園から追放されたアダムとイヴの話をして、禁断のリンゴを食べたから追放された、ではどうすればいいのか、と尋ねた。みんなわからないという。そこが苦しいところなのだと。すると大拙が言った。「もう一度リンゴを食べればいいのだ」と。

 

 このほか仏教における「無」「時空」「今」「現在」など興味深い話がいっぱいあって、全部は覚えきれなかったけど、時間の経つのを忘れるほど聞き入った。「もう一度リンゴを食べればいい」のところでは思わず笑ってしまった。普通の面白いとか可笑しいとかあるいは嘲笑でもない。不思議な笑い。でもなんだか救われるような気がした。勝手にリンゴを酒に置き換えたりしちゃって、もう一杯!とかはだめだろうなあ。15歳の時の岡村さんの写真が映し出されて、ホントにきれい。美少女とかいう次元を超えて、聖なる美しさだった。80歳を超えた仏教哲学者と聖少女……。妖しさを感じるのはゲスの極みだが、恐らくそんなゲス世界を超えた関係なのだろう。悟りの世界に歳(の差)は関係ないのだ。


置かれた場所で咲けなくていい

 新聞の書籍広告を見て、ドキッとした。こんな言葉が目に飛び込んだ。

 

 「生きる意味なんて見つけなくていい」「置かれた場所で咲けなくていい」

 

 かなりのインパクトだ。置かれた場所で咲けなくていいなんて「世界で一つだけの花」に五寸釘刺すパワーだ。書籍名は「禅僧が教える 心がラクになる生き方」。著者は青森県の恐山菩提寺の住職。わああっ。

 

 読者の反響にも、この本のこんなのが引用されていた。

 

 「自分を大切にすることをやめる」「なりたい自分になれなくたっていい」。

 

 大体この手の本は嫌いなのだが、これにはひかれた。反語的表現といえばそれまでだが、要するに今の世の中、上記の反対の言葉があまりに、当たり前のように支配しているから、新鮮な驚き、共感を覚えるのだと思う。

 

 昨夜WOWOWで放映の映画「未来よ こんにちは」で、施設に入っている老母が食事をとらなくなり、悪い夢ばかり見ているという話があって、それは寂しいからだという。悪い夢というのは、困ったこと、わずらわしい状況といったことなのだが、お年寄りはそれでもそれが欲しい、あこがれるというのだ。

 

 恐らくそうした夢は、心の平衡を保つための正常な作用なのだと思う。寂しいというのは、映画では娘がちっとも面会に来ないという実際的な意味だったが、仮にしょっちゅう来たり、家に一緒にいても、「寂しい」のだと思う。孤独の寂しさでなく、人生の終盤になって特にやるべきこともない所在なさの寂しさなのだ。体の自由がきいて、いろんなことをやれるのだったら、そんなに感じなくてもいい寂しさなのかもしれない。安楽に、ベッドやロッキングチェアにいて、当面心配することわずらわしいことがないからいい、ということではない、ということだ。

 

 恐山の禅僧の言葉、カッコいい。本当にその通りにするのは、逆にすごく難しいのかもしれないが。禅の修行のように。同じ青森の昭和大仏の住職は「世の中なかなか思い通りにはならないが、やった通りの結果にはなっている」といっていた。恐るべし青森。

 

 


無数の運命

 「アレキサンドリア四重奏」でおなじみの(誰に?)ロレンス・ダレルの晩年の作品に「アヴィニョン五重奏」というのがあって、翻訳も出ている。ちょっと高いのが何しろ5巻もあるので、どうしようかと購入を迷っている。

 

 そこでまたジュンク堂で立ち読みした。立ち読みするのに値段は関係ないのだが、安い本は気軽に手を出し、高いのには恐る恐る手を伸ばす。我ながら貧乏性で苦笑いした。

 

 さて。「アヴィニョン」の一番最後の方(第5巻の終わりの方)に、こんな内容の言葉を見つけた。記憶に頼っているので、細かい字句は正確でないかもしれない。

 

 ----一人の人間にはメロンの種のように、多くの運勢がある。海岸の砂のように、無数の運命がある----

 

 その中でたった一つの運命を生きているのだという内容だ。なんだか悲しいようなうれしいような、いずれにしろ身の引き締まる思いになる。シナトラの「マイ・ウェイ」みたいに、後悔はいくつかじゃない。有り余るほどにある。でも、っという気持ちになる。

 

 またこんな言葉があった。

 

 ----今の世の中は人間の質が落ちて、知恵が単なる情報になってしまっている。----

 

 なるほどなあと思う。大体「情報」という言葉が胡散臭い。かなり、激しく、疑問に思う。知恵に対して、いい写真家の作品に対するインスタグラムみたいなものだ。

 

 クラシックをかけながらパソコンで仕事をし、ほぼ一日テレビを見なかった。ネットも見なかった。実にすがすがしい気分。昔、吉田健一氏は作品のなかで、新聞やマスコミを「青ミドロ」みたいと表した。掻き分けたいが、手が汚れてイヤというヤツ。テレビのワイドショーや一部のネットは、これだ。


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