大坂なおみ選手、今朝も勝利!

 昨夜は大坂なおみ選手のテレビ応援で大変だった。1球1球、祈る思いで見つめ、全精神エネルギーを使った。勝った後、祝杯のウイスキーのなんとうまかったこと。

 

 テニスのような競技で、試合は相手との対話、打ち合いは1球1球や組み立てでの、自分という人間の表現だ、とどこかで読んだ記憶がある。楽しいとはそういうことだ、と。だから「ゲーム」を「プレー」するのだ、と。よく、敵は相手ではなく己れといわれるが、大坂選手を見て、その通りだなと思った。

 

 第2セットを逆転で失い、トイレットブレークに行った時、「勝つ前に勝っていた」という。これは直訳の同時通訳だが、つまり、もう勝った、勝ちを意識してしまったということだろう。また自分は今「世界1位の人と対戦しているんだ」と言い聞かせたという。大坂選手は己れという敵に勝った。21歳で、大したもんだなあと感心する。

 

 今朝の日本マスコミとの記者会見で、日本の記者たちも劣化したなと思った。ろくな質問がない。どこかのテレビ局の女性記者が、ちょっと難しい質問に「日本語で答えてください」と要求していた。えらそうに! するとなおみちゃんは、あっさりと「それは英語で答えます」と英語で言って、英語で答えを言っていた。胸がすーっとした。記者たちもっと勉強しろよ、それ以前に失礼な物言いをするなよ。いつもそうだが、記者・マスコミ対なおみちゃんも、なおみちゃんの勝ち! 


チコちゃんの「日本中央」に疑問

 昨夜と今朝放送の「チコちゃん」を見たが、大人げないかもしれないが、疑問に思った。温泉饅頭や旅館の部屋に置いてあるお菓子は何のためか、という問題に対して、疲れないためとかの答えに「ボーっと!」。で、正解は「血糖値を上げるため」という。それって結局は湯あたり防止のためであって、最初の答えでいいではないか。なぜ番組で用意した言い方或いは論理の段階でなくてはだめなのか。それに、饅頭・お菓子については他局でももうさんざんやって、多くの人は知ってるよ。

 

 もっと疑問に思ったのが「日本の中心」。正解は「多くありすぎる」だって。そんなの「答になってないよ!!」。いろんな考え方、測り方があるのはもっともだ。だが青森県東北町にある「日本中央碑」についての処理は、あまりにも安易だ。役場の職員が「ま、自分のいるところが中心でいいのでは」みたいな結論。

 

 そもそも「日本」という名称についてやっておかないと。昔は青森をはじめ東北北海道、さらには千島列島、時代によっては関東までを含む地域の国の名前という説がある。そうすると中心は青森・東北町の地点になる。また青森県の十三湊に拠点を置いた安東一族の長は「日ノ本将軍」と名乗っていた。戦国時代まで「日本」はこうした地域のことで、豊臣秀吉もそう読んでいたとい。それがなぜ今の日本全体の呼称になったのかはわからない。

 

 どうせやるんだったらそうしたことまでやらなきゃ。緯度と経度とか、東海道の江戸と大阪or京都までの中間の宿場なんて、そもそも東海道であって日本じゃないし。番組のスタッフに言いたい。「ボーっとつくってんじゃないよ!」。


ダイジェストの嘘

 日曜日のテレビの定番、この1週間を振り返る、のスポーツコーナーを見た。テニスの全豪オープン、昨日の3回戦で錦織圭、大坂なおみが勝った試合についてやっていた。錦織については、3−0のストレート勝ちもあり、ラリーでの強さなど、アナウンサーの言葉もまあその通りだろう。

 

 でも錦織の場合、この1週間だったら、1、2回戦の苦戦も伝えるべきだろう。ビッグサーバーなど相手選手のタイプにもよる。その辺、解説の杉山愛さんの話は、編集で短くなっていたかもしれない。そうなら、もっと聞きたかった。

 

 大坂の試合についてのナレーションは不満だった。第1セット、大坂の強いサーブ、ショットを相手に返され、歯車が狂ったという。確かに強いほうだろうが、恐々というか弱気な、置きにいってる打球だった。

 

 野球の投手の投球にもいえるが、生きた球かどうかということ。ラケットをたたきつけるなど、大坂のイライラは第2セットの前半ピークに達した。だがそこからよく立ち直り、開き直った。思い切り打つようになり、あとは一方的に試合をゲットした。精神面の成長がポイントだったと思う。そこをテレビで伝えてほしかった。

 

 制約のある時間で、すべては伝えきれない、ダイジェスト、要約しまとめる、編集する、だから仕方ないだろうといわれるかもしれない。嘘、間違いではないだろう、と。だが細かいが大事な事実を伝えないとしたら、それは嘘、間違いではないだろうか。

 

 新聞でもそうだが、編集、要約で捨てられる部分にこそ、実は大事なものがあるということはないか。これはスポーツだけでなくて、もし政治や外交その他のジャンルにもいえる。ここに報道、マスコミュニケーションの欠陥、陥穽がないか。

 

 WOWOWで、試合が終わり落ち着いた頃、錦織が現地スタジオに来てインタビューに答えていた。今大会試合中、伊達公子さんがコートサイドレポートをしているのだが、いろんな話をした中で錦織が「コートサイドに伊達さんがいるな、暑くないかな、と思ったりして」と笑わせていた。でも笑いごとでなく、少しでもよけいな注意を錦織に払わせるのはどうかと思う。主催者も、試合中にカメラマン席のちょっと上あたりでしゃべってるのは禁止したらどうか。コートサイドレポートは邪魔です。WOWOWに言いたい。即刻やめていただきたい。


テレビは言語的メディア

 古い新聞の切り抜きがあまり多くたまったので、スキャナーで次々に取り込んだ。ある切り抜きを見て「えっ!」と驚いた。書き手は蓮実重彦氏、1995年ある日の讀賣新聞文化欄。カットだか見出しが多くてわずらわしいが、「潮流20-21 世紀末から」の連載で、蓮実氏の「映画という体験」の<中>で、見出しは「突きつめた視覚的可能性」「大衆の関心を奪い去った テレビの本質は言語性」というものだ。

 

 最近テレビを見ていて、テレビも言葉だよな、とぼんやり思っていた。うるさいし、文法的な間違いも多いが、テレビは映像でというより結局は言葉なのだ。それをはっきり、しかも1995年に指摘していた。さすが蓮実先生。要約させていただきます。

 

 ----1950年代の米国で、テレビの普及がハリウッドの撮影所システムに壊滅的な影響を与えた。テレビという新たな視覚的メディアを受け入れた人々が、映画の観客であることをやめてしまった。日本にも10年遅れで波及した。だが日本で溝口健二や小津安二郎が晩年にも傑作を撮りえたのは、活動を保護する撮影所システムがかろうじて機能していたから。ジョン・フォードやアルフレッド・ヒッチコックら巨匠の活動もほぼ60年代に終わりを告げた。----

 

 ----テレビがなければ、撮影所などとうの昔に消滅していても不思議はないといった状況なのである。こうして、大衆娯楽の代名詞だった映画は気まぐれな大衆に裏切られ、産業としては存立の基盤を失う。にもかかわらず、映画が撮られ続けているのは、商品としての作品の質を管理しつつこれを生産し供給するシステムがテレビにほとんど存在しておらず、その限りにおいてソフトとしての映画を必要としているからにすぎない。----

 

 ----テレビ会社の映画製作への意欲は決して高くない。それには、出資者としてのリスクを負うよりも、出来上がった映画を買うほうが遥かに効率的だという理由がひとまず考えられる。だが、それにもまして、テレビが本質的に言語的なメディアとして成立しているという事情が存在している。CNNのニュースが典型的であるように、テレビにあってはレポーターのコメントが決定的であり、画面はその補足的なイラストにすぎない。

 ニュース番組におけるキャスターやスポーツ番組における解説者、あるいは芸能番組におけるレポーターの存在は、テレビという言語的なメディアにとっては必須のものだというべきだろう。テレビで人気者となるには、たて続けにしゃべりまくることで(何をいうかは、さして重要ではない)、カメラを独占しなければならない。----

 

 ----映画は、ほぼ40年におよぶ無声映画の歴史を通じて視覚的な表象の可能性と限界とをさぐりあて、映画独特の語りの技法の繊細化に成功した。例えば、二人の人物が言葉を交わすという光景を視覚的に表象するには、どんなアングルの撮影とどんなリズムの編集が有効であるか。そのことに充分自覚的だった1920年代の無声映画は、いわゆる切り返しショットを制度化することになったのである。

 二人の人物が向かい合って言葉を交わすことの多い小津安二郎のトーキーは、無声映画が確立したその技法を極端にまでおしすすめることで、独特の時間と空間を創造した。本質的にはその無声映画的な技法を無自覚に踏襲しているテレビのインタヴュー番組が、ほとんどの場合、小津より遥かに後退しているのは、テレビが言語的なメディアで、視覚的な表象はあくまで補足的なものにとどまっているからだろう。----

 

 近年はテレビ局が映画製作に出資し、テレビでの宣伝にも力を入れているが、映画とテレビそのものの撮影システムなどは別個のものだ。またテレビの製作者はそれはそれで工夫しているのだろう。だが以前にも書いたが、せっかくいいドラマやドキュメンタリー、面白いバラエティーをやっても、ニュースやニュースショー、ワイドショーは「言葉、言葉、言葉」だ。しかも中身のない、無教養な、浅はかな、知ったかぶりの、もっともらしい、偏狭な、視野の狭い、誤解錯覚の、勘違いの、時には人権を擁護するふりをしてある種の人々の人権を傷つけている、言葉、言葉、言葉。アナウンサーでもアクセント、切り方の間違った話し方。あるいは耳にタコができる「一体何が?」とか。逆にそういう常套句が、視聴者を離れさせていることに、気がつかないのか。


20世紀初頭のロンドンの心霊探偵コンビ

 BS12(トゥエルビ)で興味深い番組=海外ドラマが始まった。金曜日夜放送の「フーディーニ&ドイルの怪事件ファイル〜謎解きの作法〜」というので、天才奇術師のハリー・フーディーニと、「シャーロック・ホームズ」の作者コナン・ドイルが、20世紀初頭のロンドンで起こる事件の謎を解明していくという内容。昨年スターチャンネルで放送し好評だったらしい。

 

 実に不思議な、神秘的な事件が発生し、どう解決していくか皆目見当がつかないが、最後は明快な結論に導く。考え方生き方の対照的に違う二人の推理が絡み合っていく。ともに捜査に当たるロンドン警視庁(スコットランドヤード)の女刑事もなかなか魅力的。コナン・ドイルは後半生、心霊現象とか神秘主義の研究に傾倒したというから、このドラマの設定はぴったりだ。

 

 ホームズのシリーズは古いのからカンパーバッチのから「エレメンタリー」まで、アガサ・クリスティのポアロシリーズもずいぶん見たが、これらに勝るとも劣らないドラマづくりだ。

 

 フーディーニは実在の奇術師で「脱出王」の異名を取った。超能力、心霊術に最初は傾倒したが、その後はそのいかさまを暴露するサイキックハンターとしても知られたという。

 

 テレビはこうした海外ドラマの逸品をどしどしやってほしい。報道、ジャーナリズムはもういいから。BS大好き人間。


半分、おもしろい

 年末年始、テレビを見て飲んで食って寝て、過ごした。テレビは意外にいい番組をやっていたと思う。「探偵ナイトスクープ」傑作選では2回ほど落涙しました。大晦日の夜は「紅白」と「笑ってはいけない」と「よゐこ無人島生活」を細切れに見た。紅白を見るのは久しぶりだったが、歌合戦というよりパフォーマンス合戦。そのなかでサチモスのサウンドは印象に残った。「チコちゃん」によれば「紅白歌合戦」の「紅白」は番組を立ち上げた制作者が剣道の紅白戦から名づけたというが、男女共同社会の今、そろそろ名前、形式を変えたらいかが?

 

 元日午前はフジの「爆笑ヒットパレード」が旬のお笑い芸人を集めて、一人勝ち。午後は「志村&所の戦うお正月」がかつては定番だったが、予算削減のせいかこじんまりとやっていて昔日の面影はない。つまんない。夜は「格付け」で、YOSIKIさんが相変わらずあけぼののおかきが止まらなくなっていたが、食べ物の問題で総じて若い世代が間違っていたのが気にかかる。それ以上のことはない。3日午前はテレ朝が「激レアさん」名作選をやっていて、これでも2回ほど泣きました。

 

 総じてレギュラー番組で昨年放送された傑作選みたいなのが多く、これも予算不足なのか、でもいい内容を見ることができたのは幸い。4日NHKBSプレミアムの「神様の木に会う〜人と巨樹の命の物語」もよかった。一方で、NHKに言いたいが全体に番宣CMの多いことにはあきれた。もうその番組の本編は見たくもない。逆効果ではないかと思う。

 

 非常に考えさせられたのは2日夜のNHK総合「新春テレビ放談2019」。驚いたことに、民放のテレ朝、テレ東の番組製作者やネット動画サイトの経営者(某女優さんの恋人?)、カンニング竹山さんらも出ていて、ドラマやバラエティーの民放の人気番組について論じたり、昔のNHKではありえない顔ぶれと内容だった。この何年かの印象に残る番組、最近の傾向など、率直に討論していた。結局論題はテレビに未来はあるか、だった。

 

 出席者も言っていたが、テレビの未来も大丈夫なのではないかと思わせる内容だった。一瞬、小生もそう思った。でも次の瞬間、気がついた。この討論ではドラマとバラエティーについてしか扱っていないのだ。大事なものが欠けているだろう。報道だ。ニュース、ニュースショー、そしてワイドショーも含まれるだろう。テレビが国から放送免許をもらっている根幹は報道である。なぜ報道について扱わないのか。これがなければテレビの未来について論ずることは無意味だ。

 

 そしてそれを考え合わせれば、結論はテレビに未来はない、あるいはほとんどない。いっそのこと局を横断して、ニュースと娯楽を切り離してはいかが? ニュース専門チャンネルをつくり、あとは娯楽とスポーツ、映画などやったらいかが? 

 

 にしても出席者の間で「視聴率なんてもう意味がない」との認識で一致していたのには驚いたというか笑ってしまった。代理店の人間も出席してれば面白いし、本当の意味で「テレビに未来はあるか」の議論になるのにね。というかネットでは、やっているか。ていうか美人女優と浮名を流す人の発言に迫力がなく、ネットのサイドからもっと過激な人を出したら、もっと実のある議論になっていたと思う。


間違いだらけのチャンネル選び

 気がつくとテレビはほとんどBSしか見ていないという日がある。地上波のワイドショーやバラエティーなど代表的な番組で、肝心な場面になるとCMまたぎで引っ張る。我が家の法律で、CMまたぎをされた時、またはチャンネルを切り替えた時にCMをやっていた局はスルーする。もう見ない。

 

 ドラマは時代劇を多く見る。NHK・民放問わず、地上波・BS問わず。現在地上波民放ではほとんど時代劇はやっていないが、BSでは再放送を含めけっこうやっている。山本周五郎シリーズなんかとてもよかった。NHKは地上波・BS問わず、割と面白い。また昨夜のBSフジ「剣客商売」はよかった。原作者でいえば山本周五郎、池波正太郎などが好き。藤沢周平は嫌い。暗くて、必ず女が手籠めにされたりして。それでドラマを成り立たせるって、浅見光彦シリーズとかワイド劇場みたいだ。安易で、女性に失礼だ。

 

 さて、最近民放のテレビを見て、大丈夫かな、と感じる。それはCMが少ないこと。そのかわり自社番宣やAC(公共広告機構)が多い。フリースポットが多い。だから何度も同じCMが繰り返し繰り返し放送される。その点でNHKは関係ないかというとそうではない。NHKだって、どれだけ番宣の多いことか。あまり何度も見せられると、本チャンを見たくなくなる人もいるぜよ(竜馬風)。いずれにしてもテレビ局は大丈夫か。心配することもないか。

 

 それと、新聞もチラシが少なくなってきた。紙面の広告の方はすでに減衰ぎみ。社会の公器なんていわれた新聞に、こんな広告載せて大丈夫? てなのがよく載っている。なりふり構わずってところか。もはやクラシックメディアはネットに勝てないのか。

 新聞は政治・経済・社会・オピニオンなんてやめて街・民間・住民が情報源のニュースしか扱わないようにしたらどうか。官製の情報はもういい。

 

 テレビのクルマのCMで安全装備のが多くなった。うっかり前進かバックをして、他のクルマや歩行者にぶつかりそうになる。だがコンピューターの自動安全装置が作動して止まる、ヒヤッとしても大丈夫という内容だ。これっていいの? そうした状況にまずならないよう運転することが先でしょ? そうした状況は仕方ない、ありだな、と思わせてしまうよう。本末転倒ではないか。そうして「状況によっては作用しない場合もある」と小さな字幕で逃げを打っている。クレームはないのか。放送局の考査機能ももうないのか。ホント死にますよ。ドライバーもテレビも。

 

 


タイタニックは火と氷で沈んだ

 大変だこりゃ、誰かに教えなきゃ、と思ったのがこれ。NHKBS1で12月10日(月)に放送、12月18日(火)に再放送された「世界のドキュメンタリー」でタイトルは「タイタニック 新たな真実」だ。

 

 ----タイタニックはなぜ沈没したのか? 出航前に船倉部の石炭庫で火災が発生し、鎮火せぬまま航海を続けたのが原因とする説を、豪華客船や乗組員の動きをCGで再現しつつ検証。

 乗組員だった電気技師が撮影した船体には、側面に焦げ跡が見て取れる。会社は負債を抱え、出航延期は即、倒産。ボイラー作業員は少人数で、火がついた石炭は動力炉に投げ込むしかない…巨大な氷山を目前にしてもスピードを上げ続けたタイタニックの謎も解ける。火災により鋼鉄の強度も極端に低下し、史上最大の豪華客船が、浸水開始から2時間で沈没する悲劇につながったという。 

 1912年当時の資料を再発掘し徹底検証。----

 

 番宣の文句は以上だが、要するにタイタニックは出航前から石炭庫で火災が発生、消すことはできず動力炉にせっせと投入するしか手がなかった。なのでエンジン全開、めいっぱいのスピードで航行せざるを得ず、氷山を避けきれなかった。またボイラー室の隔壁の鋼板が火災の熱でゆがみ衰え、海水がそれを破って次々と浸水。ゆえに短時間でタイタニックは沈んでしまったというのだ。

 

 新たな真実! そしてタイタニックの船会社、ホワイトスターライン社は火災を知っていながら、航行を続けさせた。何としても航海を成功させなくてはいけなかったのだ。驚愕の真相! 番組の最後の文句はこう。「タイタニックは火と氷で沈んだ」。

 

 ジェームズ・キャメロン監督はもう一回、映画を撮り直さなきゃね。しかしホント、ひどい話だ。その時点で航海を中止すれば、あのおびただしい死はなかったのに。こうした失敗がすべての歴史、災害・遭難・事故の中で、氷山の一角でなければいいが。でもほかにもありそうだ。ああ、人間って! 

 

 英国のドキュメンタリーってすごい。NHKも負けてられないよ。

 


カラヤンがエロ事師?

 さっきNHK第一のラジオを聴きながら風呂に入っていた。「新日曜名作座」が楽しみなのだ。西田敏行さんと竹下景子さんの語りがいい。この番組の音楽担当は池辺晋一郎さんだが、テーマ音楽は古関裕而さんの作品でこれがまたいい。日本の歴史伝統、それも偉い方のでなく庶民のそれを思わせる。番組のテーマ音楽としては富田勲さんの「新日本紀行」と双璧をなすと思っている。

 

 いい気分で汗を流していたら、あれっ?と思う言葉、正確にはアクセントが出てきた。次の番組の「音の風景」だった。今日は東京・日比谷公園あたりの音で、昭和何年だかに市政会館(日比谷公会堂)で開かれたクラシックコンサートの録音を紹介した。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を指揮していたのが、「カラやん」という女性アナウンサーの読みだった。そのアクセントが「ラ」に来ているのだ。もちろん指揮していたのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンである。

 

 カラやん? まるで大阪の親しいオッサンみたい。思い出したのは野坂昭如氏の代表作「エロ事師たち」のスブやんである。スブやんの友だちのカラやんが「悲愴」を指揮していたのか! 吹き出してしまったが、直後に思った。天下のNHKでも、アナウンサーがアクセントを間違うてしまうようになったんか!(大阪弁)。

 

 昔、漫才かコントでカラヤンをカラやんと言って、相方が「お前の友だち、大阪で指揮してんのか」みたいなのがあった。ホントです。コントの世界が現実になってしまったような(変な言い方だが)なさけない気持ちになった。指導したりチェックする人はいないのか。あの、老いてなお貴公子然とした端正なマスクと金髪のカラヤン氏に、失礼ではないか。

 

 最近のテレビ(ラジオ)の日本語のアクセント、ほかにも目茶苦茶だけどね。それこそNHKからはアクセント辞典みたいな本も出ていたと思う。せっかくの音楽、音源も指揮者名のアクセントひとつでお笑いになってしまう。NHKさん、気をつけてほしい。


ニュースにならないだけ

 テレビのニュースというか、どこか地方の面白い話題を扱った中で、地元の人が「世の中暗いニュースばかりなので、せめて明るい話題を発信したい」旨の発言があった。そういえばそう。地震、台風、豪雨など災害をはじめ事件事故でニュースはあふれかえっている。

 でも、もう一度考えてみれば、新聞やテレビはそうした「暗い」といわれるニュースを扱うものなのだ。あるいは政治や経済、エネルギー、環境など幅広い分野で「問題」を扱うメディアなのだ。時には「問題」を曲げて、或いはつくってでも。

 

 以下はネットで見つけた言葉。勇気づけられました。こうした言葉を発見することが「ニュース」なのだと思う。

 

 「世界は歴史上もっとも住みよくなっている。日本も住みよくなっている。それがニュースにならないだけ」(池田信夫氏)

 

 「世界の中であなたが見たいと思う変化にあなた自身がなりなさい」(マハトマ・ガンジー)

 

 池田氏のは環境問題に関することで、ガンジーのは哲学的だが、私の中では結びつくのです。毎日毎日、世界は、自分は、変化している。思うのだが、メディアの仕事って本来、日々発生する無数の出来事の中で、新しい潮流の表れ、現れ、顕れ、或いは兆しといったものを発見発掘することなのではないか。

 

 そうすればどんなに面白くどんなに貴重な仕事になるだろう。わくわくする。ごくまれにそういうニュースもやってるけどね。ほとんどはもう腐ってる。セミの死骸をつついているようなもんだ。マスコミが毛嫌いする(最近はそうでもないが)官庁、官僚みたいに、いや地方の役所のように「前例」を重視した手法。新しいものはすぐには、よくわからないものだ。だから避ける。虫の触角には到底及ばないだろうが、せめてアンテナをよく張ってほしい。真にエキサイティングなニュースを流してほしい。


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