小さく揺れる枝

 ----散文という芸術は切分法的な思考に支配されている。表現されないとすれば、思考は心のなかで凝固するからだ。観念とは、目にすることのできない珍しい鳥のようなものだ。目に見えるものとは、鳥が飛び立った直後に小さく揺れる枝にすぎない。----

 

 ----悲惨な出来事に対してしかるべき退屈を覚えられれば、笑うこともできると人は言う。喜劇役者は自殺と紙一重のところにいる。----

 

 「アヴィニョン五重奏」のページを開くたびに、静かな興奮の毎日です。仕事もちゃんといっぱいやってるよ。その余暇にだが、余暇というには中身の濃い時間です。


謝らない、反省しない人

 書評欄で面白いのを見つけた。奥野克巳著「ありがとうもごめんなさいもいらない 森の民と暮らして人類学者が考えたこと」。文化人類学者の著者が、ボルネオ島マレーシア領の狩猟採集民プナンと生活を共にし、暮らしを観察した記録という。ノンフィクション作家の中村安希氏が評者。

 

 ----プナン社会では「ごめんなさい」と言わないそうである。過失を反省するという習慣がない。四六時中謝ってばかりのわれわれからすると、ちょっと理解の範囲を超えている。と、しかしここで、著者はこう自問する。私たちは、どうして常日頃からこんなにも謝ってばかりいるのか。反省するという人間行動とはいったい何なのか、と。

 その過程で、それぞれの社会が持つ時間や善悪の観念の違いを突き当て、ある疑念へと行き着く。よりよい未来と成長を追い求めて常に反省を強いる私たちの社会、向上至上主義への問いへと…。

 プナンは反省しない。感謝もしない。向上心もなければ、学校教育にも無関心。時間の観念や方位方角、貸し借りや所有の概念もなく、----

 

 と、ここまで読んで最初に思うのは、いいなあ、と。これが人間本来の姿、これが「自由」ということではないか、と。ところが、センテンスの途中から続けると

 

 ----一方で地位や貢献度に関係なく、獲物の均等な分配には執拗なまでのこだわりを見せる。「ケチであってはならない」という共同体の価値観を体現するリーダーは、誰よりも質素でみすぼらしい身なりをしている。こうしたプナンの姿勢はどれも、私たちの姿勢を問うてくる。----

 

 うむむ。いわゆる原始共産制社会なのか。だとすると、上記の「自由」って? 共産制を維持するための手段なのか。学校教育はともかく、「時間の観念や方位方角、貸し借りや所有の概念」は、むしろ自由のための手段ではないのか、とさえ思ってしまう。

 

 この本、そして書評者は、とても貴重な問題提起をしてくれたのだと思う。でも決して謝らない、反省しない人間が同じ職場にいたら、頭に来るよね。そういうのが根性と勘違いされて、出世したりするからね。現代日本文明社会はやはりおかしい。

 

 


脆い蜘蛛の巣

 日曜日の午後、読書をして、いい言葉に出会うといい気持ち。ホントの休息。

 

 ----「同一性とは、我々が身に纏ってきた一貫性の、弱弱しい暗示にすぎない。それは幻想であり、かつまったくの現実でもあり、幸福には不可欠なものなのだーー幸福が不可欠のものならばだが」トビーは洟をかみながら、肩越しに「へぼニーチェ!」と叫ぶ。----

 

 ----「アッカドを覚えているかしら、よくわたしたちに言っていたわ。『急げ、急げ。時計から時が漏れ出しているというのに、我々はまだ『大いなる秘密』をかすめただけなのだ』ねえブルース、わたしは彼の言う通りに急ごうとしたけれど、どうしてか足を踏み外してしまった……」----

 

 ----言語は大変結構なもので、我々はそれなしではやっていけないが、同時に言語は人間の最悪の発明でもあり、沈黙を堕落させ、知性の花弁をむしり取ってしまう。長く生きるほど、私は恥ずかしくなる----

 

 ----質量に重力が含まれているように、愛には悲しみが含まれている----

 

 ----因果律という作用は強力で数学的なものであり、心的な現象すらもそれから逃れられない----

 

 ----「我々の時代には、あまりに大きな自由が、人間の素晴らしき関係に形と重みーーすなわち真理ーーを与える脆い蜘蛛の巣を破壊してしまった。健康は我々のなかで歯痛のごとく猛威を振るっているが、生における美しき流儀、文体における美しき流儀も、粗忽なものにすっかりお株を奪われてしまった」----(ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏機船爛奪轡紂爾△襪い楼任侶主」藤井光訳より)

 

 この五重奏の第一巻は1974年の刊行で、エディンバラ大学の賞を受賞したというが、1970年代前半においてすでに現代をも予言しているような、それでいて古典的に通用するような言葉がちりばめられている。

 

 訳者の藤井氏のあとがきには、この第一巻にはグノーシス主義が大きく影を落としている、とある。ダレル氏ほどの作家の作品に接すると、西欧キリスト教文明も、なかなか一筋縄ではいかないなと思う。でもなんかどこかで仏教とも通じてくる感じもする。原著の刊行時、1974年にはリアルタイムで読めなかったが、むしろ若い時に読まなくてよかったかなあと思う次第。混乱に真っ逆様に振り落されていたかも。


常套句の催眠術

 先日出張に使ったバッグをよく見たら、ホテルで無料で置いてある新聞があった。普段はなるべく新聞を見ないが、ただだったので、しかも日曜日で書評欄があったのでゆっくり読もうと持って来たのだった。

 

 面白い書評が重なる時は重なるもので、つまらない時はまったくつまらない書評ばっかりというのはこれまで体験していた。この日は前者。紅茶を飲みながら読んだ。

 

 ----フィオナ・マクラウド/ウィリアム・シャープ著「夢のウラド」

 フィオナ・マクラウドといえば、芥川龍之介最後の恋人として知られる松村みね子の名訳「かなしき女王」や、荒俣宏訳「ケルト民話集」など、英国幻想文学好きにはおなじみの作家といっていいかもしれない。

 マクラウド、本名はウィリアム・シャープ。男性作家シャープが、女性作家マクラウドを名乗って活躍していたわけである。この事実は死後に判明、本書解説によると女性と信じて手紙でプロポーズまでしていた男性陣があわてふためいたとか。----

 

 マクラウド名義の作品は「暗く悲しく美しいケルトの神話的世界を描いた」。本書後半のシャープの作品は「キリスト磔刑を目撃した放浪の民の現代までに至る呪いの年代記……ちょっとコミカルな恋愛小説もあり、仏植民地下アルジェリアの砂漠の反乱を背景とした仏軍兵士と現地人に育てられたスペイン人女性の運命を描いた戦争小説あり、ロンドンの闇社会に生きる女性とテムズ川水上警察官の悲恋と悲劇あり、いやはやなんともほんとに同一人物の作品なのとびっくり仰天に豪華絢爛」という。こういう一筋縄ではいかない作家、興味津々。

 

 ----古田徹也著「言葉の魂の哲学」

 導きの糸となるのはウィトゲンシュタイン、そしてカール・クラウスだ。……クラウスは作家として知られるが、十九世紀末から四十年弱にわたって個人誌「炬火」を執筆・出版。当時の新聞ジャーナリズムを批判し続けた。ナチス内部のヒトラー独裁体制が確立した千九百二十一年の誌面に、彼はこう書きつけている。「日常の交わりで使う決まり文句の鮮度を高めること、かつては意味をもっていたのに今では物言わなくなった言葉の身元確認、それらを人間に教えることは有益だろう。……根源に近づけば近づくほど、戦争から遠ざかるのだ」----

 ----しっくりくる言葉を探すとき、私たちは似た意味の言葉の間で迷う。この迷いは、単なる表現の厳密さの問題ではない。それは道徳的な行いだとクラウスは言う。迷う過程で言葉の多面的な意味に触れた人は、常套句の催眠術から目覚めることができるからである。----

 

 クラウスの対極にあるのが当時のドイツの新聞であり、当時も今も日本の新聞だ。つまり表面で言ってるのとは正反対に国、国民を戦争に近づけているのだ。言葉の鮮度、使い方によって。それがわからないか。気がついている人はいる。と思う。

 

 ----若林恵著「さよなら未来」

 「IT革命」が世界を変えたという。本当だろうか。伝達のデバイスが変わったのは事実だ。だが伝えられる中身に、何かしら革命的な変化は起こったのか。----

 

 ----リン・H・ニコラス著「ナチズムに囚われた子どもたち 上下」

 本書はナチスの登場から崩壊後の数年にいたるまで、ドイツ国内と、独ソによって侵攻・占領された中東欧地域での子どもたちの受難を描いた分厚い歴史書である。----

 ----とりわけ、1944年6月にギリシャのディストモで起こった、パルチザンの攻撃に対する親衛隊の報復の描写は印象的だ。三五〇人の死者のうち、半数以上が子どもだったと推定されており、子どもどころか胎児までもいたぶり殺す、凄惨を極めるものであった。また、ナチスの崩壊とともに集団自殺に巻き込まれた乳児や、ベルリン市街戦のとき、敵軍の戦車を爆破して捕虜になった八歳の子どもにも言及されている。

 だが、子どもは歴史にただ翻弄されるだけの客体ではなかった。抵抗組織に入り非合法のビラを普通の新聞に紛れ込ませて配ったり、パルチザンに参加し武器を握ったり、空襲の最中、瓦礫を掘り起こす作業を大人に任せられたり。戦争終了後に食料配給の手伝いを大人に任され、はりきってテキパキこなした子どもたちの姿が、本書のなかでほとんど唯一明るい場面である。----

 

 最後の方に「ほとんど唯一明るい場面である」とあるが、これのどこが明るいのか。


巨匠による世界の像

 文学は今の世の中ですでに死滅したものととらえているが、本は残っている。もう一度、本物の文学を読もうと思った。しかも大作を。大作を読む行為を大読という(いわないか)。本を読む行為に一定の期間エネルギーを費やすことは、その本の中の時間、世界に生きることだ。そこら辺の文学もどき(文学の死骸)に何の義理があろう。読みたい本物を読んでいいのだと思った。

 

 で、ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」である。とりあえずその「機廚痢屮爛奪轡紂次舛△襪い楼任侶主」に着手。ダレルの文体は形容詞や比喩を何のためらいもなく堂々と使う。文体、文章に関して、どんな拘束もいやだとばかり。恐らくダレルがどこかの「文章教室」に行くと、めっちゃ叱られると思う。形容詞を使わないでそのことを表現しなさい、と。そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、とばかりダレル節が全開。

 

 小説の中によく、ある人物の言葉、エピグラムというか箴言というか、が出てくる。それがまた実に深い。「アレキサンドリア四重奏」でもそうだが、ダレル文学の重要な核だ。例えば

 

 ----「現代の作家にとっては、現実なんてもう古臭くて使えたもんじゃない。俺たちは芸術の力で現実を蘇らせて、現代的にしなくちゃだめなんだ」

 

 「君たちが学んだことを考えてはならない。なるだけ早く、学んだことに生成したまえーーー身をもって生成したものは忘れるからね」

 

 「本当に死ぬものとは、過去の集合的な像なんだ。連続して存在してきた一時的な自己のすべてが、ある瞬間に集合するんだよーーーそれは完璧な集中の一瞬、明晰そのものの理解で、望むなら永続するものなんだ」

 

 「死にもそれ自体の明確な特性というものがある。大哲学者たちは常に、死の特性が証立てる世界の像に生あるうちに入り込み、心臓がまだ脈打つうちにそれと一体になろうとしてきた。彼らは死の特性を我が物としたのだ」----

 

 大げさな、とか、古臭い、野暮、カッコつけとか何と言われてもいい。これらの言葉に加えて、地の文章がアラベスク的に広がり、展開していく。文章を、言葉を読むことの醍醐味を満喫させてくれる。これに比べれば現代日本作家たちの小説なんて屁みたいなものだ。文章を書くこと、そしていい文章を読むことは生きていることと同義語だ。いい歳をした青二才といわれてもいい。いわゆる「文学」なんて大嫌い。いい文章とつまらない、ひどい文章があるのみ。ダレルの小説はヴィンテージもの。藤井光氏の訳文もすばらしいと思う。

 

 


思考の公務員ばっかり

八甲田晴天

 

 ドゥルーズ・ガタリの「千のプラトー」の完訳が初めて出たころ、鷲田清一氏が94年に新聞に書いた書評は、書評自体がエキサイティングだった。リゾーム(地下茎)などの新しい概念について

 

 ----それらは、基礎や中心や深層からの距離でもって階層的に、あるいは系譜的に語られる秩序のモデルのまさに反対物である。秩序がこのように樹木や根のイメージで語られるとき、この秩序に反するものは混乱や混沌として規定されるしかないが、著者たちは右のような概念群でもって、地下茎のイメージで語られるような、もう一つ別の秩序(というよりはむしろ非秩序)とその運動のかたちを取り出したのである。----

 

 ----思考の概念を管理・統制する「思考の公務員」になることよりも、時代の関節を組み換えることをめざすこの著作が孕んでいるさまざまの問題は「ポストモダン思想のマニュアル」などといったレッテルを貼ることで回避されてはならない。現在の思想の論争に哲学の研究者がほとんど加わらず、小説や詩の現在について国文学者がほとんど口を挟まず、アートの現在を美術史研究者がめったに批評しないという、知のアンバランスがひどくめだつこの国で求められているのは、思考の専門家を作りだすことで人びとに「考えることをやめさせる」本ではなくて、考えることを始めさせる本だからだ。----

 

 ----リゾーム的な思考とはずいぶん隔たった場所にいた「超越」の哲学者K・ヤスパースもまた、哲学についてこう述べていた。「哲学者たることは、すべての時代を通じて同じかたちであるのではない。そうではなくて、それぞれの時代に対して根源的に新たなるものでなければならない」、と。そしていま、ドゥルーズとガタリがそういう挑発をしている。----

 

 よくいったもんだ「思考の公務員」とは。ホント、あらゆるジャンルで「公務員」ばっかりな日本。それはさておき(置きたくないのだけれど)哲学者の、今の時代の「新たなるかたち」って何だろう、どんなだろう。

 

 今の若い人たちに、根源的なものを求めているような人が少ないように思われる。あるいは直感で避けてるような。自分たちの頃は空海にでもフーコーにでも体当たりしたけどね。玉砕したけど。


瞬間の連鎖現象

夕景

 

 横尾忠則氏が「瞬間を生きる哲学〜<今ここ>に佇む技法」(古東哲明著)について書いた書評にこんな一節がある。

 

 ----本書は「いまこの瞬間のなかにすべて<人生の意味、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも>」存在することを明らかにしようとする。この瞬間は過去にも未来にも存在しない。たった「今ここに」しか存在しない。これが生きることの重要性であることを著者は全編を通して熱く語る。本書では芸術創造は「つまるところこの瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」であり、そして「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験であると指摘する。近代の時間は垂直に流れるが創造的時間は過去、未来ともに現在に同化することで瞬間の連鎖現象が起き、「陶酔と至高」に至る。----

 

 「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験である。最近考えていることの一つの答というか示唆があるような気がした。過去はない。あるのは記憶だけ。未来はない。あるのは期待と不安だけ。今ここがすべてで、それを楽しめばいい。時間はない。でも、時間を超えて生きることと同時に時間体験である、というところに救われる気がした。

 

 また見つけたぞ! 何を? 今を


美と健康を万人が目指す病的社会

雪黄葉

 

 ちょっと古い新聞の切り抜きを整理したら、面白い言葉を発見(再発見?)した。新聞の政治経済社会面は信用しないが、昔は文化(学芸)欄や科学欄にはいい記事や外部寄稿者による優れた文章が載っていたものだ。今はこれもさっぱり。

 ところでフランスの世紀末の作家ラフォルグはデカダンス、象徴派の最強作家だが、その小説「伝説的道徳劇」を仏文学者の阿部良雄氏がある新聞で紹介していた。

 

 ----ハムレット、ローエングリン、サロメといった名作、伝説の主人公たちが、昔とも現代ともつかぬ時代錯誤的な舞台に登場する。自意識的な皮肉の効いた文体の生み出す雰囲気は、緊張をはらんで、限りなく狂気に接近する神経症の世界を感じさせる。文学に「ヒステリー」めいた戦慄を求める読者なら、何度読み返しても飽きることはない。----

 

 ----パロディーであるから、ハムレットは旅回り一座の花形女優と駆け落ちしようとして殺されたり、アンドロメダはペルセウスでなく龍(実は王子)と結婚したりするが、そうしたどたばたの中から、輝かしく直立する身体を誇らしげに、時にはスポーティーですらある新しい女性像が出現する。----

 

 阿部氏の文章がまた秀逸だ。最後はこう締めくくる。

 

 ----狂気あるいは病が高貴な特権であった十九世紀から、美と健康が万人の目標となるような二十世紀への移行を、抒情的にしるしづける一巻、と言うべきかも知れない。----

 

 

 なるほど。「狂気あるいは病が高貴な特権であった十九世紀から、美と健康が万人の目標となるような二十世紀への移行」。ここが阿部氏の一番言いたかったことかもしれない。「美と健康」を万人が目指す社会、世界。

 

 だが二十世紀から二十一世紀になって16年目。なんか再び「狂気あるいは病が高貴な特権」になってきてる気がしないでもない。テレビ、雑誌、メディアは相変わらず「美と健康」をがなり立てているが…。それは新たな「狂気あるいは病」ではないか。

 

 思い出したのはキング・クリムゾンの「21世紀のスキツォイドマン」だ。世界は実はこの曲以上になってるのではないか。二十世紀の世紀末は1990年代ではなくて1960~70年代だったという説はけっこうある。私もそう思う。

 

 そして今は1930年代に似ているという説を今朝どこかのブログで見た。歴史は同じ轍を踏むのか、踏まないのか。

 

 ところでラフォルグの「伝説的道徳劇」や詩が吉田健一氏の訳で見事な日本語になった本を私は持っています。古本屋でいくらにもならないかも知れないが、自分の中ではトップクラスの高価な書籍。神保町だったら価値がわかるかも知れないが、絶対売りません。


上島竜兵さんの文章に感銘

 この数日忙しくて、今日も朝、新聞を読むヒマもなくて、夜も忙しくて寝てしまおうと思ったが、何げなく開いた新聞でとても「いいなあ」と思う文章に出くわした。

 

 ダチョウ俱楽部の上島竜兵さんが書いた、これは共同通信配信の読書欄だと思うが、「池波正太郎の銀座日記(全)」についての書評である。

 

 ドラマで共演したTOKIOの松岡昌宏さんに「食卓の情景」を薦められて、池波氏の本を読むようになったという。

 

 池波氏の食通ぶりや多才ぶりを取り上げたあと、こんな文章を書いている。

 

 ----芸能人も最近は、サッカーに詳しかったり、小説を書いたり、いろんな人がいて、お笑いしかできない俺はうらやましい。でも志村けんさんに昔、「趣味持った方がいいんですかね」と相談したら「お笑いが好きで、お笑いで食っているプロなんだろう。それだけでいいんじゃないか」と言ってもらって、多才にあこがれつつ、この道一本でいいとも思っているのだ。

 

 ----俺も55歳。「リアクション芸で、昔はこれができたのに今はできねえな」なんて思うこともあるけれど、それも年を重ね、生きていくということなのだから悪くないと、この本を読むと思う。----

 

 いいなあと思う。いや、すごいと思う。こういう人こそ自分で見て、考える、真のインテリだ。言ってることもそうだけど、文章がいい。リズムがある。この人の文体だ。すでに本を出してるんだね、この人。

 

 志村けんさんの言葉もいい。上島竜兵さんには志村さんから声が掛かり、共演するようになったという。わかる気がする。

 

 「小説を書いたり」というところが、本人が意識してかしないかは別にして(してるね)、誰かさんへの皮肉とも取れる。

 

 忙しい日曜日の夜、束の間、滋養をいただきました。上島さん、もっと書いてください。


火花と花火

花火

 「火花」(又吉直樹著)について森村泰昌氏が興味深い論評を書いていた。渋谷の街の描写について

 ----今どきこのような持って回った言い回しを駆使する「純文学」は見当たらないのではないか。----

 という。続けて

 ----だが「火花」では、昔、有象無象の小説家たちが腐心したであろう、「懐かしい」文学的表現が冒頭から始まり、その後も繰り返される。
 その「純文学」を礼賛するかのような美的文体は、又吉直樹がこよなく愛する、太宰治をはじめとする文学作品のパロディーとも感じられるほどだが、かえってその臆面もなさが、忘れられつつあるよき時代の文学の復興めいて、そこが読者の共感を呼ぶ力となる。----

 この辺は、わかる。音楽で50〜60年代のが今の若い人に受けるのと同じだ。問題は森村氏のこの後の指摘だ。「火花」でこうした典型的な「純文学」的表現を除くと、ほとんどは漫才のボケとツッコミの会話、いわば漫才の台本になっているという。この二重構造、二面性が奇妙な読後感、不確定なゆらぎの感覚になっているという。

 ----「又吉」は、芸能界も文學界も大好きで憧れているが、どちらにもおさまりきらない自分を知っている。その身の置きどころのなさを、むしろ武器として心に秘め、この小説の執筆に賭けたのである。----

 そして締めくくりのこの指摘。

 ----「神谷+徳永=又吉」は、世界の常識を覆す究極の漫才を求めてやまなかった。思うにその究極の漫才とは、他ならぬこの「火花」自体のことである。
 ピース又吉が求める究極の漫才は、小説という形でのみ成立し、又吉直樹が憧れる太宰の衣鉢を継ぐべき小説は、漫才の台本として書かなければ成立しえなかった、と言わねばなるまい。----

 うーん。 この逆説、この背理、この二重性。見事な指摘と言わねばなるまい。

 今の若い人、いやいつの時代でも若い人は大変だ。身を取り巻く何かが多くて。メンドクサイ。吉田健一氏はそれに耐えうる体力、若さがあるから耐えられると指摘していた。

 年を取ってくると、余計な夾雑物が取り払われて、むしろシンプルにすっきりしてくる。でも若い人でもよく考えれば、すっきりするよ。今言えるのはそれだけ。

 それにしても森村氏の視点はさすがだ。

calendar
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM