無理に読むこともない

 大したケガ・病気ではないのだが通院しなくてはいけないことになって、だが人気のクリニックで待ち時間が最低で1時間半ぐらいなので、行く前に目をつぶって書棚から1冊の文庫本を選んだら、倉橋由美子氏の「偏愛文学館」だった。その最後の章は吉田健一「金沢」についてで、その中にこんな箇所があった。

 

 ----吉田健一の文章は、長くてまわりくどくて何を言っているのかわからない、普通の日本語の文章から外れた癖の強い悪文の代表のように見られることがありますが、これは話が逆で、そういう人は日本語、あるいは日本語に限らず、考えたことを正確に伝える文章というものが読めない人ではないかと思われます。----

 

 そのあと倉橋氏はその真逆な文章として、ちょっと前の時代のある高名な女流作家の文章を引用している。

 

 ----「すべてが、ネオン・サインの紅紫の惑わしの光の夜に転生しようとしている一歩まえの、なにか昆虫が脱皮を待って凝然と横たわっているにも似た、妖しい静止感の漂った舗道は、デパートの包を抱えた女や、気早い銀ブラの群れや、電車や、自動車の騒音のあいだで、かえって遠い山の宿にでもいて噂するように、いない友について語らせた」というような不自然な文章ですが、この種の生硬な文章で書かれた小説を読まされると頭痛がしてきます。ということは無理に読むこともないということでしょう。----

 

 倉橋氏は一種独特なポジションを築いた作家だが、評論やエッセイで他人の文章を引用するのが実に的確でうまい。続きはこう。

 

 ----これに対して、「……文章で読めるものと読めないものを区別することが出来る。それでどれだけ簡単に解り易く言葉が進められてゐても駄文は駄文であり、その反対に言葉遣ひが慎重であつて時には微妙を極めてゐてもこの真実がそこで語られてゐるといふことがあればそれが読むものの力になつて言葉に付いて行けないといふことは起こらない」(「変化」)と言われていることがまさに吉田健一自身の文章にも当てはまります。英語やフランス語の作品を翻訳することを通じて、どんな複雑微妙なことでも日本語で言えるところまで行き着いた結果がこの吉田健一の文章であるということです。

 その特徴はどんな複雑微妙なことでも正確に明晰に言える点にあって、人間が使う言葉がその域に達しなければそれは子供の片言にとどまり、大人が読むに足る小説やエッセイをそれで書くことはできません。----

 

 前半の方ではジュリアン・グラック「アルゴールの城にて」を取り上げ、その最後の方にこう書いている。

 

 ----今日では、普通の人は本を読まず、手紙その他の文章も書かず、読んだり書いたりするとしても、文章らしい文章は敬遠して、しゃべるように、あるいは携帯電話のメールのように書き、またそんなスタイルで書かれたものしか受けつけないようになっています。小説もそんなスタイルで書かれ、それが読まれるというわけです。しかし私は、メールのやりとりみたいな文章で「ぼくは……」「わたしは……」調で書かれたものなど、小説だとは思っていません。----

 

 ----今の若者たちのしゃべり方でしゃべり、メールの文章と同じ調子で文章を書くような人物が登場するような小説は読みたくないし、勿論自分で書くなど思いもよりません。----

 

 要するに、吉田健一についてセンテンスが長いとか読点がないとか、グラックについてセンテンスが長いとか形容が多く複雑だとか、そんなことでなく、いかに明晰かということ。吉田氏、グラック氏に小生が心酔するのは、倉橋さんと同じように「偏愛」するのは、その明晰さだ。複雑微妙なことを明晰に伝えているのだと思う。その複雑微妙とは生の、世界の豊かさと同義だ。それを書かないで何を書くのだろう。

 

 昨今の小説はまるで読まないが、ちらっと立ち読みで開いてみると、思わせぶりな言葉、意味のずらしが続いているだけで、ヘタなシンガーソングライターの歌詞みたいだ。倉橋氏ではないが、無理に読むこともないだろう。古くてもいい本さえ読んでいれば。


あるのは事実だけなのだ

 山田正紀「ミステリ・オペラ」の最後の方に、こんな言葉がある。

 

 ----「萩原桐子はその手記のなかでしばしばヒュー・エバレットの平行世界(パラレル・ワールド)に言及している。そのことを思い出さざるを得ない。平行世界にあっては、人がなにかを選択し行為するたびに、量子的な波動関数が変化を起こし、無限に”世界”が分岐されることになる……多分、現実にも”歴史”とはそういうものだろう。”歴史”には”真実”などというものはない。あるのは”事実”だけなのだ。しかも、それはどのようにも解釈されうる”事実”でしかない。人間の数だけの”事実”があって、数えきれないほどの解釈があるといっていい」----

 

 「ミステリ・オペラ」の最初の単行本は2001年刊行。裏表紙の惹句はこうだ。

 

 ----平成元年、東京。編集者の萩原祐介はビルの屋上から投身、しばらく空中を浮遊してから墜落死した。昭和13年、満州。奉納オペラ「魔笛」を撮影すべく<宿命城>へ向かう善知鳥良一ら一団は、行く先々で”探偵小説”もどきの奇怪な殺人事件に遭遇する。そして50年を隔てた時空を祐介の妻・桐子は亡き夫を求めて行き来する……執筆3年、本格推理のあらゆるガジェットを投入した壮大な構想の全体ミステリ。----

 

 パラレル・ワールドというと、2つの世界みたいだが、実際(?)には無限にあるということか。唯識みたいだ。信じるか信じないかは貴方次第です。


悟りの大量生産〜選択を誤るから前へ進む

 AIだの量子コンピューターだのといわれる昨今、書棚を見まわしてみると、もうすでに腐ったというか今では通用しない本が多い。それでもまだ生きている本、価値ある本もある。そうした本だけに囲まれて、読んで暮らしたい。

 

 でも、意外なことに雑誌で今読み返すととても興味深い内容が載っていることがある。今日手にしたのは「朝日ジャーナル」の1987年(昭和62)1月16日号で、当時の値段は280円とある。

 同誌主催のシンポジウム「独裁者を生む社会」〜ヒトラーはすでに「神話」か〜。映画「我が闘争」を見た後の座談会である。出席者は評論家の草森紳一氏(2008年没)ら3人、司会は同誌編集長の筑紫哲也氏だ。この中で草森氏の発言が目を引いた。

 

 草森 ヒトラーはやっぱりすごいなって、ふと今日見ていて感じたんですけど、「悟り」の大量生産をやったんじゃないかなっていう気がするんですよね、装置として。要するに、「無」。まあ悪くいえば頭が空っぽになるという、それをみんな期待していたという部分を押さえ込んだといいますか。

 

 草森 倫理的な問題は後からいろいろ言われちゃうけれど、藤田嗣治はやっぱりあれが最高傑作じゃないですか、戦争を描いたやつ。反戦争主義とも言えるぐらいな要素さえ、その絵に内在している。彼の絵のほとんどはデザイン的だが、戦争画はリアリズムなんですね。ナチスもデザイン国家だが、絵画はリアリズムです。これは大いに解かねばならぬ謎ですね。

 

 草森 僕は、ヒトラーの時代のような形の再現はまずないだろうと思う。ナチスはやっぱりヨーロッパの何千年の歴史を全部背負っている。マイナスの徒花みたいなところがあって。で、それが終わってから、また世界中に散ったと思うんですよね。----

 実際はもっと見えない形でナチズムは再編成され、何度も壊れながら再生を繰り返している。ヒトラーのような人物が出てきて何々という形は、いわゆる「低開発国」以外には起こらないんじゃないかなという気がする。

 

 (会場からの質問) ヒトラーというのは同時代人にとって救世主であって、ヒトラーとともに何か彼らの国民的な重圧を解決しようとしたのじゃないか。結局大衆はヒトラーによって夢を実現しようとして、選択を誤ってポシャッちゃったという気がするんですけれども。

 草森 人間の歴史はもうその連続で、選択を誤らないということがまずあり得ないというのが、中国史をつぶさに読み続けた僕の歴史観です。選択を誤るから時は前へ進むんですね、ある意味で。だから、正しかったかどうかという問題は、一応僕は自分の中から外してあります。 

 

 この人は信用できるな、というか尊敬に値すると思う。借り物じゃない、自分のワーク・言葉・思想の持ち主という点で。さてナチズムは今、どんなところに拡散しているのか。日本では、たとえば政府、総理大臣ではありません。ではどこに。既存マスコミはその一つであることは明らかだ。そのほかにも、いっぱい広がっている。たちの悪いことに細かくなって。


よかったねジーヴス!

 最近うれしかったことは、皇后様が誕生日に当たってのコメントで、退位して時間ができたら、ジーヴスものの小説を読みたいと述べられたことだ。ちょうどその数日前から読み返していたのだ。英国のP・G・ウッドハウスの連作小説だが、何度読み返しても腹を抱えて笑ってしまう。シリーズ中の一巻の題名のように「比類なき」ユーモア小説である。

 

 訳者によるあとがきを見たら、面白い対比があった。ウッドハウスの小説には聖書やテニソン、シェークスピアなどの詩が頻繁に引用されている。英国貴族社会が舞台であればある程度はうなづけるが、それにしてもペダントリーの宝庫だ。で、我が国におけるペダントリー爛漫の探偵小説として、小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」があるが、これが「新青年」に連載されていた時期とウッドハウスが盛んに作品を発表していた時期が同じだという。1930年代、日本でいえば昭和戦前。だからといって何かのつながりを指摘することはできないが、第一次大戦と第二次大戦の間という時代は不思議に文化の花が咲いた時期とはいえるだろう。英国と日本、二人の作家はそうした文化のある面での象徴ともいえるのではないか。

 

 ってくどくど考えなくたって、面白い小説は面白い。人間の世の中も、捨てたもんじゃないと思わせてくれる。


生物は勝手にルールを変える

 注目した言葉

 

 ----出会いは偶然が多い。

 私は科学者なので、何事も必然、すなわち科学としたい。それでは出会いは科学的に説明できるか。

 経済学者は偶然は科学で説明できる、それが統計学、つまり確率なのだという。しかし出会いをそんな簡単に説明されては困る。出会いは神秘なのである。神秘の中には偶然も必然も入っている。だから人と人の出会いは神秘である。----

 <吉村作治氏=「出会いの神秘」(曽野綾子著)書評から>

 

 ----本書の最大の論点は、人間も含めて生物はアルゴリズムで、生命はデータ処理にすぎないのか。そうだとすれば、私の過去のデータをすべて集積しているアルゴリズムは、私よりも私自身をよく知っていて、人生上の重大な決定を下す際に、私よりも正しい決定を下すことになるのだろうか、というところにある。

 評者はしかし、それにはくみしない。ビッグデータに基づく決定は、過去の経験を統計的に処理して導かれる最適値にすぎないからだ。生物は時に勝手にルールを変える。これはAIにはできない芸当なのだ。----

 <池田清彦氏=「ホモ・デウス」(ユヴァル・ノア・ハラリ著)書評から>

 

 同じようなことを言ってる気もする。吉村氏の書評ではさらに、出会いの神秘とは日本語では「縁」といって、「今どきはそれをネットワークという安っぽい言葉で片付けているが、縁にはそれを超えた人と人との情念が付いている」と書いている。

 

 でも面白いのは最後の方で「著者はこれまでたくさんの人と出会ったことだろうが、神秘といえる出会いは少ないという。出会いから自分の人生に大きな力を与えてくれてこそ、出会いの神秘性が出てくるのだ」とも書いているのだ。なんかプラマイゼロみたいだが、突き詰めればそうなるのか。

 

 書評を読むのは本を買うかの参考にするのが目的で、本来は原著を読むべきだというのは正論。さらには書評の文章の一部を引用してはだめで、全部読まないとわからないだろうともわかっている。でも言葉とは不思議なもので、一部切り取る方がいいかもという場合もある。野党やマスコミが政治家の発言や文章の一部を切り取って批判するのとは、もちろん訳が全然違うが。


数学と詩が共存するとき

 「オーブリー、あなたはじきに小説を書き始める。ついに! −−−その小説が人間の何たるかについての比喩になってくれればと思うわ。でもそれは自惚れた言葉ね。ただ覚えていて、心を打つ比喩とぴったりの形容詞という二つの誘惑者は、しっかりと手綱を締めておかないと、詩人にとっての天敵になってしまう」

 

 「ヨーロッパ史における最後の偉大な芸術の比喩たるプルーストは、人生観において相対的で偶発的だ。自我、感覚、歴史……。自署とは記憶であり、中心となる概念は、存在とは記憶を通じて進歩するというものだーーー人工的に生かされるものを通じて。歴史! だが、東方の視点からすれば、歴史とは単なる噂話にすぎない。五感、五つの芸術がその羽毛なのだ。なぜなら、相対性理論と場の理論の後には陰気さが生じ、宇宙は隅々まで無意味になるからだ。相対性は相関性をもたらすのではない!」

 

 「十分に放っておくことができれば、現実とは至福なのだと君は分かるだろう。それ以下ではない! いつも目指されていたように、数学と詩が共存するとき、言葉の衝突が起こり、君は『過程』の讃歌を書く」(以上「アヴィニョン五重奏后船インクス あるいは暴かれる秘密」藤井光訳より)

 

 ダレルが「アヴィニョン五重奏」を書いたのは20世紀だが、書かれていることは21世紀に向けて、21世紀を意識してのことのように思われる。作中に出てくるプルーストは19世紀末から20世紀前半にかけて活動した作家だが、主著「失われた時を求めて」は1910年代の作。そして20世紀を代表する文学となった。ダレルは1912年生まれで1990年没。上記に出てくるように、プルーストをかなり意識している。共感か反発かという問題ではなくて。


すべてを見通す者の痛み

 久しぶりの休みの午後、音楽を聴きながら本を読んでいると、至福の時を感じる。大げさかもしれないが「永遠」とはけっこう午後の時間の中に、ある瞬間訪れる。

 

 音楽はやっぱり70年代のプログレを嚆矢とする。ピンクフロイドの「On the turning away」のラスト、ギターのソロは、この曲にはこの音色、サウンドでなければと思わせる。ここにサンタナの音色が出てきても似合わない。ヤン・アッカーマンでも。

 

 と思ってたら次は「Focus at the Rainbow」の「Answers? Questions! Questions? Answers!」が流れた。この曲はヤン・アッカーマンのギターでなけりゃだめ。キーボード、フルートのタイス・ヴァン・リアの演奏も素晴らしい。ライブの演奏として、名作といえるのではないか。

 

 次はムーディブルースの「Running Water」。ジャスティン・ヘイワードのソロの曲だが、悠久の河の流れを思わせる。ああ、やっぱり70年代なのだ、自分には。読んでいる本はロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏」のいよいよ最後「后.インクス あるいは暴かれる秘密」(藤井光訳)。こんな言葉が出てくる。

 

 「シルヴィー、また連中に狂気に追いやられてしまってはだめだ。……君の病は単に、一人だけすべてを見通す者の痛みが強くなったものなんだ。日本であれば、君が経験した洞察を祝ってパーティーをしてもらえるくらいさ! それを第一歩として、ヨガ行者は最終的な全知への到達を成し遂げる!」

 

 「僕の文体は、映画のフィルムで言えばジャンプカットにあたる。根本にある図とはもちろん、生まれ変わりとは事実だという承認だ。古き良き直線的な小説の安定した筋書きは退場し、その代わりに用いられる、ソフトフォーカスのパリンプセストにより、役者たちは互いに変容し、望むならば互いの内的な生活空間に溶け込むことができる。すべてが、そして誰もが身を寄せ合い、『一』なるものに向かっていく」

 

 「いいかい、偽装とは純粋な現象学の一つだ。僕がこうして並べた照明をくぐらせてきた基本的な物語の難解さは、懐かしの推理小説と変わらない。歪みや喚起が放り込まれるのは、根本的な問いをいくつか発するためだーー現実とはどれほど現実なのか、もし現実であるならばそれはなぜか? すると、詩には存在する権利はないのか?」

 

 前後がどんなかわからなければ、科白の意味はわからない、といわれそうだが、前後を読んですぐわかるという小説、文章ではない。すべてがこんな調子なのだ。「僕の文体は……」のところがそれを言っているのかもしれない。要するに(ダレルの作品に一番ふさわしくない言葉だが)、ダレルにとっての、この作品・文章が、現実なのだ。言葉という神との闘いかもしれない。

 

 けっこう年寄りになってからこんな小説を書くなんて、いいもの食っていい酒飲んでたのかな。西洋人ならではの体力(精神の)だな。今の日本の文学はモヤシだな、まるで。

 

 それにしても、日本であればパーティーをしてもらえる、というところはケッサクです。


一枚のマット

 ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏検.札丱好船礇鵝舛△襪い肋霰の争い」(藤井光訳)の最初の方に、ヨガについて出てくる。スイス生まれの英国人精神科医であるヒロインのコンスタンスがジュネーヴで、ある人物としばらくぶりに再会する。ユダヤ系英国人銀行家ゲイレン卿の付き人・運転手だったマックスだ。容貌はすっかり変わってしまった。インドに行って「新しい学問を学んで」きたという。彼はヨガ行者・指導者になっていた。

 

 ----ヨガ行者への転身に伴う心境の変化について語るマックスの、厳粛かつ簡明な口調は、面白いという以上のものだった……彼の変わりようと、それを明言する生き生きとした口調に、彼女は心打たれた。まったく別人のようだ! 「もちろん、我々の教場でのヨガは治療そのものではないですが、ここに来てから、ヨガを実践する人々の劇的な変化を目にして、これは一体何なのかと考え始めましたよ。今では医師たちが手に負えない人たちを我々のもとに送ってきます。教室は重圧や精神的緊張に苦しむ人たちでいっぱいですよ……精神の崩壊に向かうのを避けられるよう、我々が手助けしているわけです。インドに行けば彼らは驚くでしょうね。そもそも、重圧に苦しむ自我などというものがないのですから。でも、一度教場にいらしてみてはどうです? 素敵なところですよ」----

 

 というわけでコンスタンスは見学に行く。

 

 ----それはある種の反響を彼女の心に作り出した。そこに加わり、型を学びたいという、なかば形にならない欲望。つまるところ、彼女の医学的な務めとは、極限状態になった重圧という問題に関するものではなかったか? この古来の方法をしばらく学び、おのれの医学の体系とどう関係してくるのかを見極めてみてもいいではないか?----

 

 というわけでコンスタンスは「まずは、どうやって、どこから始めればいいのか教えて」と問う。マックスはこう答える。

 

 ----「お望みでしたら、一緒に外の雑貨店まで行きましょうか。手頃なヨガのマットを買えますよ。それが第一の重要な行為です。あなたにとっては非常に大事なものになりますよ。ある意味では離れられなくなります。行をしていると、あなたのなすことすべて、呼吸や心のすべてが、そのマットに染み込むように思えてくる。そうでなければ、その上に横になって休むといい。大した値段ではありません。教場でも羽毛布団ですから。ですが、気に入った色のマットをいつも手元に置いておくのはいいことです……どのみち、そうしたくなります。そのマットは手持ちの聖書のように大事なものになります。あなたの努力の記録ですから」----

 

 というわけでコンスタンスは小さな布団を買って、マックスとともにまた教場の授業見学に戻る。

 

 ----二人が中庭に入ったとき、彼女の目に、火をつけた鉢でみずからの布団を燃やす二人のヨガ修行者の姿が飛び込んできた。その逸脱行為に唖然とした彼女は立ち止まり、指差すとマックスに言った。「一体どうして……?」と当惑した声を上げた。彼は吹き出した。「彼らは悟ったんですよ!」とだけ言った。

 彼女はすっかりまごついていた。「でも、あなたがさっき言っていたヨガのマットの話では……」と途方に暮れて言ったが、彼は首を横に振り、さらに長い笑いを発した。「いいですか」とようやく彼は言った。「彼らのしていることは謎などではありませんが、単なる知的な説明はやめておきましょう。この話はそのままにしておく方がいい……しばらくは。後になれば、ご自分で分かります」

 二人はまた階段を上り始めた。あれこれ思い巡らせる彼女の頭に、突然の閃きが訪れた。彼女はぴたりと立ち止まった。「分かったわ! 愛着ね!」

 「そうですよ」彼はにやりとした。「それです!」

 

 「これから初心者の学級に入ってもらうのは、それで基本のABCが学べるからです。後になればその文字が単語になり、さらにはそれが文になっていきますよ……」----

 

 マックスは拳闘士のチャンピオンを目指し、挫折したという。

 

 ----「それで今は?」と彼女は尋ねた。

 「幸いなことに、私は後知恵なしでも幸せですよ。どうすれば気持ち良く瞑想ができ、広い世界での出来事と調和していけるのかを教えてもらいましたから!」----

 

 ダレルは子供のときだったかインドにいたこともあったように記憶している。で、以前の若いときの作品にも東洋的思想がたびたび顔をのぞかせる。キリスト教、グノーシス、テンプル騎士団などてんこ盛りのこの作品でも、ヨガなどがスパイスのようにふりかけられている。ビートルズやロックミュージシャンがインドやヒンズー教に惹かれたのの元祖?

 日本の仏教の研究は明治期、欧米からの輸入で本格的に始まった。悲しい。それを思い出した。ま、それはいいが、一枚のマットと修行で始まる心身のニューワールドっていうのは、なかなか魅力がある。


自転車泥棒

 気になった言葉。新聞の書評欄から。

 

 ----「絶望は甘い。絶望していれば、それ以上落ちることはないから」----(島田雅彦氏の言葉)

 

 ----「自転車泥棒」では、主体(人間)と客体(自転車)の複雑な関係が織りなすドラマが展開されるが、これを本当に理解するには、ローマ法以来の「占有」(「所有」ではない)という概念を知る必要があると述べる。だが、著者によれば、欧州では常識であるこの概念が、日本社会には根づいていない。----(木庭顕著「誰のために法は生まれた」の書評から)

 

 ----(SNSについて)新しいメディアが出てくると、その特性を生かした表現が模索される。その過程は緊張感があって創造的である。しかし、やがてその様式は波及し、定番化する。創造性は失われ、定型化されたコミュニケーションに踊らされる。----(久保田晃弘・きりとりねでる共訳編著「インスタグラムと現代視覚文化論」の書評から)

 

 ----仏像鑑賞に拍車をかけたのは、大正期に入っての古寺巡礼ブームだ。仏像に美を探る和辻哲郎の見方は、仏教者でも研究者でもない一般の鑑賞者を飛躍的に増大させた。和辻の「古寺巡礼」が、戦後の白洲正子や現在のいとうせいこうの見方、語り方にも通じるとする分析は興味深い。----(碧海寿広著「仏像と日本人」の書評から)

 

 このほか「いじめ」についての本が紹介されていたが、以前から抱いていた疑問だが、「いじめをなくせ!」という論より、「いじめによる『自殺』をなくせ!」の論の方が大事というかとりあえず先ではないだろうか。それじゃいじめられてどんな心身の状況になっても我慢しろというのか、といわれるかもしれない。答はYES、だ。それには杉良太郎氏の歌の文句で答える。「いいさそれでも生きてさえいればいつかやさしさに巡り合える」。どんなに傷ついても、それは癒える。死ねば、癒えない。それに、いじめは簡単にはなくならない。「いじめ」という言葉を流布、定着させてしまった以上は、それは存在し続ける。と思うのだが。夏休みの終わり、「学校に行きたくない」という、あるいは兆候をみせる子供さんは行かせない方がいい。絶対に。


お前が唱えろ!

虹

 

 ----学ばなくてよい、ただ南無阿弥陀仏と唱えるだけでよい、そう言った坊主もいた。だが、唱えなければ救われないというのも気に入らない。まだ、言葉を発することもできないうちに死んでいく赤ん坊もいる。それは救われないのか。この厳しい世の中に、望んだわけでもないのに産み落とされ、生きる力に乏しく、慌ただしくこの世を去って行った者たち。彼らは南無阿弥陀仏が言えなかったから救われないのか。

 それはほかの者が唱えてやればいいのだ。そう言った坊主もいた。だったら、坊主、お前がひたすら唱えてまわればいいではないか。なにも、唱えるだけでいいなどと人に押しつけず、お前がこの世のあらゆる人と生きもののために、南無阿弥陀仏を唱えつづけろ。そして坊主はこう言えばいい。なにもしなくていい。ただ生きて、死ぬだけで、すべての人と生きものは救われる。それは、わたしが祈りつづけているからだと。

 われながら、不遜な考えだと思う。

 だが、そうした考えが、この仏像の素朴なかたちに出ていると思えなくもない。----

 (風野真知雄「卜伝飄々」より)

 

 風野氏の最近の作品、ますます過激です。でもホント上記の言葉に同感です。菩提寺のご住職には言えないけど。


calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< December 2018 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM