思考の公務員ばっかり

八甲田晴天

 

 ドゥルーズ・ガタリの「千のプラトー」の完訳が初めて出たころ、鷲田清一氏が94年に新聞に書いた書評は、書評自体がエキサイティングだった。リゾーム(地下茎)などの新しい概念について

 

 ----それらは、基礎や中心や深層からの距離でもって階層的に、あるいは系譜的に語られる秩序のモデルのまさに反対物である。秩序がこのように樹木や根のイメージで語られるとき、この秩序に反するものは混乱や混沌として規定されるしかないが、著者たちは右のような概念群でもって、地下茎のイメージで語られるような、もう一つ別の秩序(というよりはむしろ非秩序)とその運動のかたちを取り出したのである。----

 

 ----思考の概念を管理・統制する「思考の公務員」になることよりも、時代の関節を組み換えることをめざすこの著作が孕んでいるさまざまの問題は「ポストモダン思想のマニュアル」などといったレッテルを貼ることで回避されてはならない。現在の思想の論争に哲学の研究者がほとんど加わらず、小説や詩の現在について国文学者がほとんど口を挟まず、アートの現在を美術史研究者がめったに批評しないという、知のアンバランスがひどくめだつこの国で求められているのは、思考の専門家を作りだすことで人びとに「考えることをやめさせる」本ではなくて、考えることを始めさせる本だからだ。----

 

 ----リゾーム的な思考とはずいぶん隔たった場所にいた「超越」の哲学者K・ヤスパースもまた、哲学についてこう述べていた。「哲学者たることは、すべての時代を通じて同じかたちであるのではない。そうではなくて、それぞれの時代に対して根源的に新たなるものでなければならない」、と。そしていま、ドゥルーズとガタリがそういう挑発をしている。----

 

 よくいったもんだ「思考の公務員」とは。ホント、あらゆるジャンルで「公務員」ばっかりな日本。それはさておき(置きたくないのだけれど)哲学者の、今の時代の「新たなるかたち」って何だろう、どんなだろう。

 

 今の若い人たちに、根源的なものを求めているような人が少ないように思われる。あるいは直感で避けてるような。自分たちの頃は空海にでもフーコーにでも体当たりしたけどね。玉砕したけど。


瞬間の連鎖現象

夕景

 

 横尾忠則氏が「瞬間を生きる哲学〜<今ここ>に佇む技法」(古東哲明著)について書いた書評にこんな一節がある。

 

 ----本書は「いまこの瞬間のなかにすべて<人生の意味、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも>」存在することを明らかにしようとする。この瞬間は過去にも未来にも存在しない。たった「今ここに」しか存在しない。これが生きることの重要性であることを著者は全編を通して熱く語る。本書では芸術創造は「つまるところこの瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」であり、そして「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験であると指摘する。近代の時間は垂直に流れるが創造的時間は過去、未来ともに現在に同化することで瞬間の連鎖現象が起き、「陶酔と至高」に至る。----

 

 「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験である。最近考えていることの一つの答というか示唆があるような気がした。過去はない。あるのは記憶だけ。未来はない。あるのは期待と不安だけ。今ここがすべてで、それを楽しめばいい。時間はない。でも、時間を超えて生きることと同時に時間体験である、というところに救われる気がした。

 

 また見つけたぞ! 何を? 今を


美と健康を万人が目指す病的社会

雪黄葉

 

 ちょっと古い新聞の切り抜きを整理したら、面白い言葉を発見(再発見?)した。新聞の政治経済社会面は信用しないが、昔は文化(学芸)欄や科学欄にはいい記事や外部寄稿者による優れた文章が載っていたものだ。今はこれもさっぱり。

 ところでフランスの世紀末の作家ラフォルグはデカダンス、象徴派の最強作家だが、その小説「伝説的道徳劇」を仏文学者の阿部良雄氏がある新聞で紹介していた。

 

 ----ハムレット、ローエングリン、サロメといった名作、伝説の主人公たちが、昔とも現代ともつかぬ時代錯誤的な舞台に登場する。自意識的な皮肉の効いた文体の生み出す雰囲気は、緊張をはらんで、限りなく狂気に接近する神経症の世界を感じさせる。文学に「ヒステリー」めいた戦慄を求める読者なら、何度読み返しても飽きることはない。----

 

 ----パロディーであるから、ハムレットは旅回り一座の花形女優と駆け落ちしようとして殺されたり、アンドロメダはペルセウスでなく龍(実は王子)と結婚したりするが、そうしたどたばたの中から、輝かしく直立する身体を誇らしげに、時にはスポーティーですらある新しい女性像が出現する。----

 

 阿部氏の文章がまた秀逸だ。最後はこう締めくくる。

 

 ----狂気あるいは病が高貴な特権であった十九世紀から、美と健康が万人の目標となるような二十世紀への移行を、抒情的にしるしづける一巻、と言うべきかも知れない。----

 

 

 なるほど。「狂気あるいは病が高貴な特権であった十九世紀から、美と健康が万人の目標となるような二十世紀への移行」。ここが阿部氏の一番言いたかったことかもしれない。「美と健康」を万人が目指す社会、世界。

 

 だが二十世紀から二十一世紀になって16年目。なんか再び「狂気あるいは病が高貴な特権」になってきてる気がしないでもない。テレビ、雑誌、メディアは相変わらず「美と健康」をがなり立てているが…。それは新たな「狂気あるいは病」ではないか。

 

 思い出したのはキング・クリムゾンの「21世紀のスキツォイドマン」だ。世界は実はこの曲以上になってるのではないか。二十世紀の世紀末は1990年代ではなくて1960~70年代だったという説はけっこうある。私もそう思う。

 

 そして今は1930年代に似ているという説を今朝どこかのブログで見た。歴史は同じ轍を踏むのか、踏まないのか。

 

 ところでラフォルグの「伝説的道徳劇」や詩が吉田健一氏の訳で見事な日本語になった本を私は持っています。古本屋でいくらにもならないかも知れないが、自分の中ではトップクラスの高価な書籍。神保町だったら価値がわかるかも知れないが、絶対売りません。


上島竜兵さんの文章に感銘

 この数日忙しくて、今日も朝、新聞を読むヒマもなくて、夜も忙しくて寝てしまおうと思ったが、何げなく開いた新聞でとても「いいなあ」と思う文章に出くわした。

 

 ダチョウ俱楽部の上島竜兵さんが書いた、これは共同通信配信の読書欄だと思うが、「池波正太郎の銀座日記(全)」についての書評である。

 

 ドラマで共演したTOKIOの松岡昌宏さんに「食卓の情景」を薦められて、池波氏の本を読むようになったという。

 

 池波氏の食通ぶりや多才ぶりを取り上げたあと、こんな文章を書いている。

 

 ----芸能人も最近は、サッカーに詳しかったり、小説を書いたり、いろんな人がいて、お笑いしかできない俺はうらやましい。でも志村けんさんに昔、「趣味持った方がいいんですかね」と相談したら「お笑いが好きで、お笑いで食っているプロなんだろう。それだけでいいんじゃないか」と言ってもらって、多才にあこがれつつ、この道一本でいいとも思っているのだ。

 

 ----俺も55歳。「リアクション芸で、昔はこれができたのに今はできねえな」なんて思うこともあるけれど、それも年を重ね、生きていくということなのだから悪くないと、この本を読むと思う。----

 

 いいなあと思う。いや、すごいと思う。こういう人こそ自分で見て、考える、真のインテリだ。言ってることもそうだけど、文章がいい。リズムがある。この人の文体だ。すでに本を出してるんだね、この人。

 

 志村けんさんの言葉もいい。上島竜兵さんには志村さんから声が掛かり、共演するようになったという。わかる気がする。

 

 「小説を書いたり」というところが、本人が意識してかしないかは別にして(してるね)、誰かさんへの皮肉とも取れる。

 

 忙しい日曜日の夜、束の間、滋養をいただきました。上島さん、もっと書いてください。


火花と花火

花火

 「火花」(又吉直樹著)について森村泰昌氏が興味深い論評を書いていた。渋谷の街の描写について

 ----今どきこのような持って回った言い回しを駆使する「純文学」は見当たらないのではないか。----

 という。続けて

 ----だが「火花」では、昔、有象無象の小説家たちが腐心したであろう、「懐かしい」文学的表現が冒頭から始まり、その後も繰り返される。
 その「純文学」を礼賛するかのような美的文体は、又吉直樹がこよなく愛する、太宰治をはじめとする文学作品のパロディーとも感じられるほどだが、かえってその臆面もなさが、忘れられつつあるよき時代の文学の復興めいて、そこが読者の共感を呼ぶ力となる。----

 この辺は、わかる。音楽で50〜60年代のが今の若い人に受けるのと同じだ。問題は森村氏のこの後の指摘だ。「火花」でこうした典型的な「純文学」的表現を除くと、ほとんどは漫才のボケとツッコミの会話、いわば漫才の台本になっているという。この二重構造、二面性が奇妙な読後感、不確定なゆらぎの感覚になっているという。

 ----「又吉」は、芸能界も文學界も大好きで憧れているが、どちらにもおさまりきらない自分を知っている。その身の置きどころのなさを、むしろ武器として心に秘め、この小説の執筆に賭けたのである。----

 そして締めくくりのこの指摘。

 ----「神谷+徳永=又吉」は、世界の常識を覆す究極の漫才を求めてやまなかった。思うにその究極の漫才とは、他ならぬこの「火花」自体のことである。
 ピース又吉が求める究極の漫才は、小説という形でのみ成立し、又吉直樹が憧れる太宰の衣鉢を継ぐべき小説は、漫才の台本として書かなければ成立しえなかった、と言わねばなるまい。----

 うーん。 この逆説、この背理、この二重性。見事な指摘と言わねばなるまい。

 今の若い人、いやいつの時代でも若い人は大変だ。身を取り巻く何かが多くて。メンドクサイ。吉田健一氏はそれに耐えうる体力、若さがあるから耐えられると指摘していた。

 年を取ってくると、余計な夾雑物が取り払われて、むしろシンプルにすっきりしてくる。でも若い人でもよく考えれば、すっきりするよ。今言えるのはそれだけ。

 それにしても森村氏の視点はさすがだ。

「金沢」とYES

 ジュンク堂で久々に単行本を買った。角地幸男著「ケンブリッジ帰りの文士 吉田健一」だ。ひとことでいえば面白かった。エキサイティングだった。

 吉田健一氏といえば、ともすればその独特な文体に焦点が当てられがちだ。角地氏は文体はもちろん、吉田氏の思想について迫る仕事をされたと思う。

 キーワードは「現在」だ。吉田氏の晩年の著作、小説でも評論でも、繰り返し繰り返し現在について書き、思考を進めている。それは最後に突き詰められて、悟りみたいな境地に到達している。

 角地氏のこの本で興味深かったのは、吉田氏がその境地「現在」に達した地点から何が見えるか、そこを突いている点だ。

 悟りは到達点でなく出発点。人も仏も何度も何度も悟る。問題はその後だ。

 それにしても吉田氏の著作ほど引用しにくいものはないと思う。きりがないからだ。また吉田氏の思想のポイントを引用するにしても、吉田氏の文章をそのままどこまでも紹介するしかない。だったら原典を読んで、といったところだ。

 その中で角地氏は相当な努力をされたと思う。吉田氏のエクリチュール、思想をこれほど整理したかたちで提示した評論はなかったと思う。

 今読み返しても、掘り返しても、吉田氏の思想は新しい。常に新しい。欧州の哲学と比べても、遜色ないどころか先を行っている。

 一度、現在に生きるコツを覚えると、人生が変わる。吉田氏以後、日本の文学・思想界は何やってきたんだろうと思う。

 角地氏も吉田氏の本を最初に刊行された時のを多く持ってらっしゃるみたい。って小生も持ってるんだぞ、原書房のとかいっぱい。神保町に持ってけばいい値で売れるかもしれないが、売らない。1970年頃、学生で吉田健一を読んでるヤツなんかいなかった。空き時間、図書館で持参の吉田本を読んでいた。あの頃がなつかしい。

 「金沢」なんか、プログレのYESの「Close to the edge」に似てる、その世界が。そういえばちょっと前、クリス・スクワイヤーさんが亡くなったんだね。ベースの。すごいベースワークだった。

 吉田氏の思想というか文章の中で、1つ異論があるとすれば、「意識」というの。あまり「意識」という言葉を使ってほしくない。突き詰めれば、それでいいのだが、言い方。

 大森荘蔵氏は「時は流れず」といい、吉田健一氏は「時は流れる」という。でもどっちも同じことを言っていると思う。

俗と俗のメディア

来訪鳥

 窓辺に珍しい来訪者、これはヒヨドリみたい。しばらくたたずんでいた。And your bird can sing!

 朝日読書欄で、加藤秀俊氏の「メディアの展開 情報社会学からみた『近代』」について紹介していた。加藤氏の言葉。
 ----「一般にメディアとはテレビやラジオ、新聞などですが、もう少し言うと、人と人をつなぐものすべてです。原点はカミ・ホトケと人をむすぶもの。聖と俗をむすぶものが、俗と俗をむすぶようになったのです」----

 ああ、そうだ。そうなんだ。

 またこの本には
 ----江戸時代は役者の「格付け」が盛んだった。それは「現代の歌手、俳優、テレビタレントからアナウンサー、気象予報士」と同じ――という一節もあるという。

 加藤氏は以前から「江戸時代から現在までは連続している、という半世紀変わらない自説」を持っているという。

 それはそう思う。いい面と悪い面があるが、庄屋様と百姓のムラ社会だもの日本は今も。

 テレビをつけ、何か面白い番組やってないかとチャンネルを変えていく時に限ってCMばかり。腹が立つ。押しつけじゃないか。「それなら見なきゃいいじゃないか」「見る見ないは自由」というかもしれない。でもその時、その瞬間、見たくもないCMを放送していることについては、強制、圧制、ファシズムだ。

 やはり国(総務省)から免許をもらって放送していることの問題というか矛盾が根本にある。最近このことについて言った人がいたようだが。

 こういう点についてはホント、日本は田舎くさいムラ社会なのだ。地方なんて自治体と地方紙、地方民放、地銀でがんじがらめにされてるし。江戸時代と変わらない。

永遠に見つづける自己

残照

----「あなたは、浄土信仰はむろんのこと、密教の即身成仏にも満足できなかったのではありませんか。」
 「たしかに、そういえばそういうことになりますね。私は即身成仏よりも、もっと多くを望んだのです。見る自己と見られる自己、永遠に自己を見ている自己、こういう視点をおのれのものにしたかったのです。あの金色堂のミイラは、私とはなんの関係もありませんが、いわば私自身をモデルにした、私の作品のようなものではありますまいか。私は八百数十年、私自身ではないが、私自身とひとしい存在を、飽きもせずに見つづけてきたということにもなりましょう。」----

 上記は澁澤龍彦氏の短編集「唐草物語」の中の「金色堂異聞」という作品に出てくる会話である。澁澤氏が平泉に行って、なんと藤原清衡がタクシーの運転手になっている人物に観光案内される、という設定。清衡は当時恵まれていた金から金丹を服し不老長寿の身になっていた……という。

 「見る自己と見られる自己、永遠に自己を見ている自己、こういう視点……」。いいなあ。あこがれるなあ。恐らく澁澤氏が望んだ視点だったのだろう。時空を交錯して、永遠に見つづけているのだ、きっと。

わかんないじゃん

 風野真知雄氏の新作「信長・曹操殺人事件」が面白かった。歴史のミステリーと現代の殺人事件がからむシリーズで、今回は織田信長は三国志の英雄・曹操のパクリという仮説が軸になっている。

 その本筋は読んでいただくしかないが、この小説に登場するちょっと脳タリン?とされるアイドル女優のセリフが振るっている。

 ----「だって、歴史とか、ほんとのことってわかんないじゃん。タイムマシンでさかのぼって、実際のところを見てきたわけじゃないんだから」

 ----「でも、ほんとのことって、見た目じゃわかんないじゃん。人だって、見た目と中身は違うよ。あたしなんか、こんな馬鹿なのに、知的って言われるんだよ」

 ----「日記にも嘘書いたりするよ。いまの世の中も、ものすごくマスコミが発達してて、ぜんぶわかっちゃいそうだけど、ほんとのことってわかんないじゃん。あたしなんかも、よく記事書かれるけど、嘘ばっかだよ……」

 ----「たぶん政治とかもそうだよ。腹黒い人たちだから、ほんとのことなんか言うわけないし、だいいち、世の中のことなんか思惑通りにはならないから、政治家とかもよくわかってないんだよね」

 ----「そういうこと考えると、歴史ってあんまり信用しちゃうとまずいかなって気がして、なんか嵌まる気になれない……」----

 いやあ、いいですね。同感。この女優、設定ではハリウッドでも評価された「知的な」女優ということだが、普段日本では周囲からすれば「天然」? 織田信長を「のだおぶなが」と言い間違えたりする。

 でも上記の発言を聞いて、主人公の歴史探偵は、意外と鋭いかもと思う。つまり知識でなく感覚が、ということ。言っちゃなんですけど、中村玉緒さんとか浅田美代子さんってバラエティーに出てる時は「?」の連続だが、映画やドラマの演技はすごいものね。

 上記の小説の女優は、まるっきり同じではないかもしれないけど、本能的直観をストレートに言ってる。言えてる。よけいな曇りのない目で。

 上記で風野氏が皮肉っぽく書いているが、思うに歴史って信長や明治維新や226事件のようなことだけではない。世界史、日本史でもない。今日の出来事、昨日の出来事だって歴史だ。

 つまりジャーナリズムだ。メディア、マスコミがかかわってくる。実際には。それでいいのか、ということだ。鵜呑みにしていいのかということ。

 ほんとの歴史は今日、今現在の空間的時間的感覚だと思う。その積み重ね。かつて誰だったか作家が、自分が今書くということは地震計なのだと言っていた。その感覚が重要だと思う。(あっ、地震予知とかそんなことでなくて)。世界の震えと同時進行ということだ。カッコいい!
 

無答責

河畔コスモス

 さて何故かまた三島由紀夫である。昨今の事象について、三島だったら何と論評し、「斬って」捨てるか。ホントそれが知りたい。「昭和天皇実録」の件だけでなく。

 「文學界」昭和55年12月号に「三島由紀夫死後十年」の特集があり、野口武彦氏は以下のような三島の論を紹介している。

 ----現憲法第一条の天皇のいわゆる「象徴」規定は、天皇の非世俗君主性を含意していると述べた段落に続けて、三島は以下のように論じている。

 天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において現実所与の変転する政治的責任を免れてゐればこそ、保障されるのである。これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ論理的でない。なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。そのやうな天皇が、一般人同様の名誉棄損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、「栄典授与」(第七条第七項)の源泉に対する国自体の自己冒瀆である。----

 三島が掲げた「天皇」は「文化概念としての天皇制」といわれる。で、現憲法は三島からすれば「論理的詐術」で「国自体の自己冒瀆」なのである。

 上記は三島が「楯の会」などに配布した「問題提起」という文章の一節。続いて野口氏は同じ「問題提起」から引用しつつ次のように書く。

 ----その要点は、第一章「天皇」と第二章「戦争放棄」との対立矛盾をいかに解消するかにあるのだが、まず第一章については、「われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する」という立場から、前述した天皇の「神聖」の復活を主張しているのは、三島として当然だろう。第二章に関しては、三島は「自衛隊は明らかに違憲である」と断言する。----

 だから第九条を全文削除して、新たに「天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化」を忠義の対象とする軍隊を創設せよ、と三島は言っているわけだ。

 軍隊創設はともかく、自衛隊は違憲だと断言しているのだ。結局憲法の、そして戦後民主主義の欺瞞を衝いているわけだ。

 三島というと「天皇」を叫び割腹したアナクロ的な、国粋主義的な人物のイメージも一部にあるようだが、戦後今に至るも日本が目を背けようとしてきた「禁忌」的な部分に敢えて切り(斬り)込んだのだ。

 今年11月25日で44年、来年で45年になる。まだまだ検証するべき三島の思想と思う。

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