ナダルの気配り

 全豪オープン男子シングルス決勝はジョコビッチがナダルを圧倒、3−0のストレート勝ちで優勝した。ゾーンに100パーセント入りっぱなしのようなジョコビッチのプレーだった。実はナダルに応援していたので、今夜はヤケ酒。(昨日はなおみちゃんに乾杯)。

 

 午後テレビをつけたら、試合ではないが練習のためコートにナダルが入るところがちょうど映った。通路を早足で独特の歩き方で歩き、コートに入る入り口の所で、ナダルは立っていた警備のおじさんにサッと握手を求め、握手をし、サッと離れて行った。解説の坂本さんが「こういうところが」と言っていた。ナダルの人間性を物語る、いつもの行動だった。小生も感動した。

 

 強い選手でも好きな選手とそうでもない選手がいる。一つの大きな基準は、礼儀と態度だ。特に裏方スタッフへの気配りなどにそれが表れる。大坂なおみ選手も実にやさしい。ボールパースンに捕りやすいようにボールをやる。

 

 それが全然だめな選手もいる。フェデラーをかつては尊敬していたが、ある時、水かドリンクのボトルを放り投げて、補助の少年が拾いに行った。それを見てからフェデラーを尊敬できなくなった。

 

 試合中では、ポイントを挙げた時のガッツポーズと声。ジョコビッチはその点がだめだ。昨日の女子決勝でも、クビトバはポイントを取るとノドの奥、歯が全部見えるくらい口を開けて大声で「カモーン!」。しかもそれを相手選手(大坂)の方へ向けてやる。ジョコビッチもそう。

 

 その点、なおみちゃんや錦織選手、あるいはナダルなどは、横か後ろ、あるいは前であっても下に向けてやる。相手へのマナーだと思う。本質的に相手へのアピールではないのだ。自分への「カモーン!」なのではないか。

 

 そんなことを言っても勝負は勝負。ナダルがジョコビッチに完敗したのは事実だ。でも、ローランギャロスは絶対勝ってね!


7年周期

 新聞の本の紹介で「ヒトは7年で脱皮する」(黒川伊保子著)という本が出たことを知った。

 

 ----「時代の風」を読まなければならないとき、7年前、28年前に何が起こったかを起点に考えると、今がつかめることがあると著者は言う。ヒトの脳には7年ごとの周期があると記す。その周期のうち、大衆全体で連動するものが、流行を生み出す基となると著者。クルマやファッションなどから多岐にわたる流行を読み解く。離婚や転職も7年周期で多いというアンケートにも触れる。----

 

 早速わが人生を振り返ってみると、ええ!? ホントだ。ほぼ7年周期で転職や人生の節目を迎えていた。7年周期の言葉で思い出したのが、神秘思想家のルドルフ・シュタイナーだ。彼の思想においては、人間の体、精神、その成長が7年周期になっていて、狙いは主にそれを踏まえた教育だったと記憶している。

 

 教育というものが苦手で、おまけに神秘思想といったものは若い時には傾倒したこともあったが、その後は眉に唾をつけすぎているほどだ。かといってシュタイナーの思想を疑ったり軽く見るということはない。何でも、創始者やオリジナルは謙虚に真剣に受け止めるが、それらの亜流がいやなのだ。

 

 でも人間や社会の7年周期説は、そうかもしれないと思う。人間や社会に降り注ぐ目に見えない気のようなものがある、というイメージが伴う。

 

 今朝の「あさイチ」に、冤罪を蒙った元厚労省幹部の女性が出て、いろいろ語っていた。大吉氏との掛け合いで、「ニュースで大々的に(逮捕の件が)報じられると、みんな信じてしまう」と言っていた。NHKの番組でそれが語られる。NHKに、当時の報道の責任はないの? と思ってしまう。

 

 考えてみれば、放送法には電波による放送を遍く国民が受け取れるようにとの規定がある。電波は遍く空から降ってくる。テレビを見たくない人は見なければいい、という自由があるようにも見えるが、遍く降ってくる電波というものはどこか異常で危険な状況ではないかと思う。ベルヌやドイルあたりにあったようなSF的地球の危機のイメージさえ湧く。ナチス、全体主義のような。大きくいえば、インターネットはそれに対する抑制役になりつつあるのか。無線LAN、Wifiはあるにしても。

 

 テレビは、もう終わりかもしれない。でも面白い番組は好き。って勝手なものだね自分は。


「平成最後の」だから何?

 得意技の雑誌立ち読み早読みで、全く同感とうなずいたのがあった。金田一秀穂さんのコラムで、最近何かにつけて「平成最後の」という言い方をするが、それって何なの? というのだ。特にテレビだが、新聞その他でもよく使われる。意味があるの? だからどうだっていうの? 

 

 金田一さんはさらに、昭和から平成への時と比べて、特に感慨がないともいう。それは多くの人が感じていることだと思う。昭和の重さに比べて、平成はいかにも軽い。平成には大災害や重大事件はあった。大変な時代ではあった。だが昭和にも災害、事故事件はあったし、何より戦争というこれ以上ない惨禍があった。

 

 時代の重さを比べてもしようがないかもしれない。でも「平成最後の」という言い方は、なんというか、みみっちいのだ。そうやって盛り上げていこうみたいな。

 

 何故か。考えていくと、ある事に行きつきそうになる。恐らく金田一先生もそれはわかっていて、でもこのコラムには書いていない。まして小生などがいうのは、あまりに恐れ多いことなので、いえません。でもそのことが平成を軽くし、元号・時代の移行を軽くしたのだ。

 

 昭和天皇は偉かった。


時代劇の匂い

 里見浩太朗さんがテレビで最近の時代劇について語っていた。坐った目上の侍に女性が立ったまま何かを報告する場面があった。里見さんがディレクターに「あの時代、そんなことはあり得ない」と注文をつけた。女性も必ず坐ってから話をするはずだというのだ。だがディレクターは、この場面は尺もないしこのままで、とスルーしたという。里見さんいわく「時代劇の匂いというものが失われていく」と嘆いていた。

 

 時代劇の匂い、時代の匂い、つまり日本の匂いということになろう。里見さん演じる水戸黄門の再放送を見て、偉大なるワンパターンは知りながら、日本人は好きだよなあとつくづく思う。悪代官と越後屋の「おぬしも悪よのう」。それを痛快に暴く。昨日は「必殺仕事人スペシャル」の再放送をやっていて、ついつい最後まで見てしまった。真逆のようで、実は構図は黄門様と同じなのだ。普通だと明るみに出ない悪を、超法規的に裁く。仕事人の場合は殺す。

 

 ふと、思った。ゴーン事件では毎日のように法律に則った議論があふれている。でも法律を離れ、日本的心情で裁くとどういうことになるか。日産本社の社員はともかく、切られた下請け工場の経営者・従業員にとって、数十億単位の報酬や家族・友人への優遇。日産だけでなく、多くの貧乏にあえいでいる人たち。報道されているすべてを事実と判断することは避けるべきだろうが、照射が重なって、これはやっただろうと最低限わかることはある。

 

 日本的心情とか倫理とか、武士道とか、持ち出せばたちまちたたかれるだろう。古い、もう時代が違う、危険だ、とか。でも日本人の体の中のどこかで、「許せない」と憤っている部分があるはずだ。日本を植民地だと思っているのか、と。欧米は日本の司法制度を批判していると、したり顔で言うコメンテーターがいるが、ここは欧米か? 多くの日本人が疑問に思うもう一つは、元検事がそれを批判したり、元検事が容疑者の弁護人になっていることだ。それが近代的現代的司法制度というものなのか。

 

 中村主水、じゃなかった藤田まことさんが主演した映画で「明日への遺言」というのがあった。戦時中、無差別爆撃をした米軍の兵士を死刑に処した日本軍の責任者が、戦後裁判で堂々と主張をして、GHQの判事も検事もその人間性に打たれるが、結局は死刑に決まり、執行される。「遺言」とは日本的倫理、日本のすばらしさであった。「日本の匂い」。それを失うな、と。

 

 理性的な(とも思えないけど)法律論でなく、思いっきり感情的なゴーン事件論があってもいいのではないか。


頭蓋骨と若さ

 お医者さんから「立派な骨されてますね」と言われた。そんなこと言われたことがないから、びっくり。あっ、でも待てよ、昔若い時に一度言われたことあったかな。骨が立派、骨が丈夫ってどういうことなんだろう。調べてみた。出て来るのは骨粗鬆症とか骨密度といった言葉ばかり。でも、とにかく骨が丈夫なのはいいことらしいということはわかった。

 

 歳より若くみえるともよくいわれる。確かに公務員や銀行員だった同級生たちには老けてるのが多く、彼らよりは見た目が若いつもりだ。驚いたのは骨とも大きな関係があるということ。歳を取れば、あるいは骨が弱ければ、頭蓋骨も小さくなってくるんだとか。その結果、顔にしわが寄ったり、頬の肉が垂れ下がったりするのだという。頭蓋骨が丈夫さを保っていると、顔の皮膚にも張りがあるのだという。

 

 自分の頭蓋骨! 自分の骨! 自分の骸骨! 意識したこともなかった。でも考えてみると、今この瞬間も自分の骸骨が歩いたり、動いたり、活動してるわけだ。なんだか気持ち悪い。もちろん骨の上に筋肉や血管や皮膚があって、人間の形をしているのだが、骸骨が行動を共にしていることも事実だ。

 

 骨や骨髄は意外に重要な役割をはたしていると、テレビで聞いたことはある。自分の骸骨は何を考えているんだろう。何も考えていないといえるだろうか。ホットプレートのコンセントに間違って触って、感電しかけたことがある。ゆるいリズムの周波数で衝撃が伝わったような感覚があった。あの時、自分の骸骨が光っただろうか。

 

 自分の骸骨にふさわしい生き方を、その上の血肉や神経はしているだろうか。今年は変なことばかり考える年になりはしないだろうかと心配。年越し、正月と骨休めをしすぎたせいだろうか。人間は誰でも、骨を折り、どこかに骨をうずめるのだろうか。身体的には骨が丈夫と言われたが、「骨のある人間」といわれたい。あっ、この歳で、もういいか。


宇宙の田舎

 生まれ故郷でなくても、田舎の景色を見ると、なつかしいと感じることはよくあると思う。なぜなのか。なつかしさとは何なのか。

 

 好きでよく聴いてきた音楽で、かつて何度か行ったことのある田舎の風景を思い出すことがある。こことそこの空間の距離が、時間の幅=古さとパラレルのような気がする。なつかしい感覚を覚える。なぜなのか。

 

 故郷とは必ずしも出生地ではないかもしれない。自分が母親から生まれた(産まれた)場所とは限らない。故郷とはある感情が焼きついた場所なのだ。それを希求するから故郷が存在する。すると、遺伝子が希求する故郷とは宇宙なのか。

 

 普段暮らしている場所は地元。それについてあまり意識しすぎるのはどうかと思う。もちろん、今暮らしているところは大事で、そこが故郷なのだと思っていい。だが大事なのは故郷で「地元」ではない。

 

 地方の自治体や団体、地方マスコミが地元、地元とまるで叫んでいるかのようなプロパガンダを日々しているのには、勘弁してくれと言いたい。人は四六時中それを意識して生活しているわけではない。

 

 人は宇宙で生まれ、地球上に住んでいる。今暮らしている自治体(県や市町村)のために生まれたのではない。どこに行こうと、どこで暮らそうと自由だ。人口流出に対して、若い人たちに地元にとどまってほしいなんていうのは、人間の尊厳を侵すものだ。それこそ「生産性」で判断しているではないか。

 

 ノスタルジーとは、病気なのだという。昔、ヨーロッパのどこだかの兵士が長い間故国を離れ外国に駐留していると体の不調を訴える者が続出した。それがノスタルジーだ。心、精神の問題でなく、身体に現れた症状のことなのだという。それは上記のような空間というより時間の距離で説明できるのではないかと思う。

 

 目に焼きついた風景(光景)、心の風景という言い方があるが、本当はそこの風景に自分が焼きつけられたのではないか。いろいろ好きな場所があるという人は、いろいろな場所に自分の意識を焼きつけたのだ。あるいは意識が焼きつけられたのだ。で、その時に対しての希求。それが郷愁というものなのではないか。

 

 そのうえで、人が生まれ育った土地、育んでくれた自然・風景・方言・文化が、貴重なのだと思う。地球自体が宇宙のローカル、田舎だものね。でも、宇宙に都会ってないのだという気がする。いずれにしても、中央と地方とか、都会と田舎とか言ってるのは本来すごく変な概念だと思う。田舎はいいが、こうした概念の田舎くささはたまらないから。

 

 都会から田舎へ移住する人は、都会へのノスタルジーで体調が悪化する人はないか。います。そういう人を知ってるもの。赤ちょうちんやカラオケが恋しいというのも切実な場合があるのだ。都会から田舎へ移住する人は気をつけた方がいいかも。


三原さんの演技もよかった

 フィギュアスケートの全日本選手権女子フリーは見ごたえのあるものだった。GPや同ファイナルを見てくると、全日本はゆるいかなと思っていたが、認識違いでした。上位3人の勝負のあや、どこで勝ちどこで負けたかは非常に興味深かった。個人的には4位に終わったものの、三原舞依選手の美しい演技がフィギュアの芸術性を再認識させてくれ、ハイボールがおいしくなった。

 

 解説は荒川静香さん。実に的確で、しかも選手にあたたかくやさしく。ほかの人の解説は聞けない。荒川さん、日本スケート連盟の副会長なんですね。やっぱり現役時代から主体性を持ってコーチを選んだり、五輪金メダル獲得に至る戦略を打ち立ててきた人は違う。フィギュア人生の勝者です。

 

 男子(だけではないが)の解説では佐野稔さんが断トツ。実に面白いし、なるほどなと思わせる説得力がある。そして荒川さん同様、選手にやさしい目線を注ぐ。あとの人はだめ。技の名前だけえらそうに連呼して。あとリンクサイドのリポートなどで、村上佳菜子さんが意外にいいんだよね。メレンゲその他で達者だなあと思っていたが、専門のフィギュアで本領を発揮していた。

 

 今朝のフジテレビで昨夜の名勝負をくわしくやっていたが、司会者の、いかにも「視聴者の皆さんはわからないだろうが」的解説に腹が立った。フィギュアのファン、少なくとも関心のある人はみんなそれぐらい知ってるって、てなことばかり。なんで視聴者は無知と決めつけるの? それと佐野さんなどがしゃべってる時にかぶさってくるのはやめて。聴きたいことを聴く権利を阻害しないで。

 

 上位の3人、GPファイナルで演技順の抽選の前だったか、「おザギ遅いね」「おザギ、ハリー・アップ!」なんて笑顔で盛り上がっていたのが楽しかった。おザギ、つまりザギトワのことだ。坂本と紀平ならわかる感じがするが、あの宮原さんまで言ってるんだもの。今の日本の若い世代は強いね、精神的に。他の競技でもそうだが。

 

 昨日の新聞の書評欄のどこかに、日本の元号の2つ前は古き良き時代といわれる傾向があるといい、来年からは昭和もそういわれるか、という記述があった。書いた人に、あんたこそ古いよ、と言いたい。もうすでに、昭和はそういわれている。


人との距離

 BSだったか、人類ができてきた歴史をやっていたが、まさに奇跡の連続だったという。その回でやっていたのは、猿というか類人猿でアジアにいたのは気象だか病気だかで絶滅した。だが、気象の偶然で浮島ができ、それに乗って海流でアフリカに流れ着いた類人猿が生き延びた。それがその後世界各地に広がったという。

 

 またネアンデルタール人が滅んでホモサピエンスが生き延びたのは、言語能力の差だという。ある学者によれば、言語能力と道具をつくる能力は対応していて、ホモサピエンスは精巧な釣り針や柄のついた手斧をつくることができたので、魚や動物を獲ることができたという。

 

 そうした歴史は現在の人類にも遺伝子として残っているのだろうか。動物は縄張りというか個体のまわりにバリアみたいなのがあり、それ以内の距離に他人、他動物が入ってくると警戒したり威嚇するという。で、人間にもあると思う。東京で満員電車に乗っている時は仕方ないだろうが、比較的スペースが空いている場所・時間で、不自然に近づいて来られるのがすごくいやだ。ある時、ホントに空いているのに、目の前に女性が後ろ向きに立った。普通にこっちが呼吸して息を吐いたら、女性のうなじあたりに息がかかりそうなのだ。腹立つ!

 

 新聞の「14歳の君へ」という連載に養老孟司さんが書いていて、大人になったら人との距離感を大切に、という。これは精神的にというか人間関係の話だが、ある距離を無視して、いわば暴力的に縮めようというのはだめだし、ある時は怖い。物理的に一挙に距離を縮めようとするのが、例えば殺人、暴力、暴行などだ。そんなに他人に近づきたいのか、そんなに弱いのかと言いたくなる。

 養老さんは、意見が食い違ってもぶつかって決定的にならないように、とアドバイスしていた。それはやさしさというより、知恵なのだ。だってそんなバカと至近距離の関係を結ぶことになるのはいやだもん。古い米国の西部劇なんかで、男同士が殴り合い、勝負がつかず、終わってにっこり握手、なんて身震いするほど気持ち悪かった! ある時には距離を取るために、注意深く発言したりしなかったりが必要なんだろうと、この歳になって気づいたのはもう遅いか。


僕の前に道はない

 病気・怪我がほぼ治り、元気なはずなのだが、手術が済んだ時や傷口の回復状況を確認した時の昂揚感はもう消えた。人って(自分だけか)忘れやすい。そのうえしばらくの期間、張りつめていたものがほどけた反動か、疲れが出てぐったり。弱いなあ。

 

 肉体的な喧嘩は子供の頃以来したことがないが、危ない目には何度か遭ってきた。危ないというより緊張の極致だ。その筋の人たちと極めて近い距離で接した。学生の頃、高校の同級生でやはり都内の大学に進学した友だちの下宿に遊びに行った。彼もいけるくちなので、夜は近くの居酒屋の暖簾をくぐった。

 

 入った途端、やばいよやばいよ。かなり混んでいた店内のほとんどの客がその筋の人たちだったのだ。そういえば近くに何とか結社というのがあったなと思い出しても後の祭り。仕方ない。覚悟を決めて席についた。隣のテーブルから「それじゃあお前は国体というものを何だと思っているんだ! 国民体育大会じゃねえぞ!」という声が聞こえた。議論は熱を帯びていた。こっちは緊張でビールをこぼしたり煮込みのモツを落としたり。それでも酒が入ると気が大きくなり、友だちとバカ話して何事もなく過ごした。でも、店に入った瞬間の、いくつものきつい視線は忘れられなかった。

 

 社会人になり、関西に出張した折り、都心部のホテルが取れずやや郊外のホテルに泊まった。ホテルの朝食は高くて敬遠。近くに牛丼チェーンがあって、安い朝定食を出していたのでそこに入った。やばいよやばいよ。東京の居酒屋で遭遇したのと同じ状態。ほとんどがその筋の人たちだった。あ、そういえば。またまた思い出した。近くに有名な組織の本部があったのだ。どうして自分はよくこんな目に遭うのか。

 

 ほかにもあったのだ。上京したての頃、渋谷で道がわからず、向こうから来た3人連れぐらいの男性たちに聞いた。若い一人が「何をー!」みたいに言いかけたが、年長の人が制して、ていねいに教えてくれた。都会を知らない田舎者は怖さも知らなかった。学生生活にも東京にも慣れた頃、悪友とあるスナックに入った。スナックといっても小さなステージがあって、時折りバンドの演奏もある店だった。酒が入って盛り上がった頃、奥の方にいたいかにもそれらしい男性が近づいて来た。「学生さんかい? 盛り上がってるな。この後演奏があるから、おにいちゃんコンガをたたいてみないか」。震え上がった。断ることはできない雰囲気だ。友だちも小生の腕を押して「やったら?」という(ひどいヤツだ)。戦場に行く気持ちでステージに上がり、一生懸命たたいた。物事にあんなに一生懸命取り組んだことはなかった。1曲終わってほっとしたら「おにいちゃん、うまいじゃないか。もう1曲やってくれ」。人生の試練は簡単には終わらないのだと学んだ。でも2曲目が終わったら解放してくれた。そのあとは何事も起こらなかった。

 

 総じて、あれらの人たちは小生にはやさしかったと思う。同じく学生時代、友だちと居酒屋で議論していたら、女将さんがビールを2本、持って来た。「頼んでないですけど」「あちらのお客さんから、飲んでくれって」。見たらいかにもそういう男性。「あなたたち、お礼を言わなくちゃだめよ」と女将。二人で立ち上がり「ありがとうございます!」と言ったら、その人は黙ってうなずいた。自分らの話し声は聞こえる距離だった。まじめな議論をしていたが、それが気に入ったのか。理由はわからないが。

 

 社会人になりだいぶたってそこそこ仕事もやれるようになった頃、一人の男性と知り合い、話をするようになった。その人は政治家の事務所にいて、正式な秘書とか事務所長とかの肩書ではなかったが、実際はすべてを取り仕切っているという噂だった。もう一つの噂は、昔だか今でもだか、その筋と関係があるとのことだった。

 

 時折り目つきが鋭くはなるが、普段は仕立てのいいスーツとネクタイがよく似合う紳士だった。いろんな話をした後、彼が言った。「政治の世界もヤクザの世界も共通した魅力があってね。それは道が決まっていないということなんだ。自分の考え、行動で道はどうにでも開けていく。それが面白くて。決めるのは自分なんだ。他人じゃないんだ」。

 

 小生に実際にわかるとは言えないのだが、わかるような気がした。そこで唐突に思い出したのは、およそ正反対のジャンルの言葉だった。

 

 ----僕の前に道はない
   僕の後ろに道は出来る
     ああ、自然よ
   父よ
   僕を一人立ちさせた広大な父よ
   僕から目を離さないで守る事をせよ
   常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
    この遠い道程のため
    この遠い道程のため----

 

 高村光太郎の詩である。中学時代ごろに教科書で習っただろうか。それをその人に言おうかと思ったが、青くさいと思われそうでやめた。

 

 そしてそれは特殊な世界のことではなく、誰にも言えることなのではないかと思った。公務員とか教師とか固い職業にはあてはまらないといったこととは違う意味で。

 

 今の時代、「特殊」な世界も道を決められてきてる、やりにくい、厳しい時代かもしれない。いやほとんどが。でも職業とかの話ではなく、自分の道を自分で決める、切り開く、そんな自由に今でも今からでもあこがれる。あの人はいいことを教えてくれた。


怪我の回復の快感

 病気というか怪我というか、病院で診てもらい、小さな手術をしてもらい、あとは家で毎日薬を塗りパッドで保護して、を続けている。最初は患部を見るのもいやだったが、日に日に回復してきれいになっていくのを確認するとうれしいものだ。なんか、花など植物を栽培している気がする。少しずつの回復が少しずつの成長を見守るのと似ているのだ。秘かな楽しみになってきた。これは変態だろうか。とにかく患部が椅子やソファー、クルマの運転席などに当たることを気にしなくてもよくなるのは、すごい解放感だ。

 

 自分へのごほうび、でなくて自分へのお見舞いとして、遅ればせながらKindleを買った。先日のセールで大特価だった。ありがとう、南米の大河! 早速本を仕込んだ。それが全部、¥0の作品。つまり古い作家の作品だ。夢野久作、久生十蘭、小栗虫太郎、国枝史郎、岡本綺堂etc。これらの作家の小説がなんとただで読める! こんな幸せってある? 面白くてためになる。なんか昔の宣伝文句みたいだが、ホントなのだ。これらの作家が好きな小生にとっては、無料の、自分へのお歳暮といってもいいです。将来老人施設に入ったら、KindleとiPodがあれば、他に何もなくても生きていけそう。

 

 今日は完全オフの休日。といっても仕事だけでなく通院も買い物もないという意味で。で、Kindle読みながら音楽を聴いていたら、ジワジワそしてスコーンと解放感が来た。何か、体の中心から洗われていくという感じ。老廃物や細菌でなく、精神のデトックス。余計なものをさらって外に吹き飛ばすような。お寺、神社のすす払いがニュースで映し出されているが、魂のすす払いだ。こういうのを昨今は「癒し」というのか。でも「癒し」という言葉は嫌い。あいまいで誤魔化されるみたいで物欲しげでえらそうで。昔からある表現の「心が洗われる」というのは文字通りでいい。傷口も心も、洗いましょう。診察券よ、さらば!


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