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  • 2017.02.06 Monday
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現実未満の夢

 最近の若い、あるいは比較的若い世代の作家による小説、漫画、アニメ、映画などの作品で、時間や時空を超えた、あるいは生まれ変わりなどを題材、シチュエーションにしたものが多い気がする。

 

 すべてではないが、一部作品に接してみて思った。どうも迫力がない。というか腰が引けている。現実と戦ったり、超えたりするのでなく、単なる現実逃避じゃないの?って具合。男の方が恋愛や結婚で泣いたり、女性にアタックできない昨今の状況とパラレルのような感じだ。

 

 今の50〜60代の作家あたりまでは、この種の作品に取り組むエネルギーが違った。現実から逃げているのでなく、まさしく「現実」と戦い、超える必死の試み、格闘があった。この場合の現実とは生活とか社会とかじゃなく。世界、現世、宇宙だ。

 

 「哲学的」とか「SF的」とかの書評の言葉にひかれて、ある本を読んだけれど、主人公やストーリー全体がただの意気地なしだった。最大限の到達点が世の中の現実という未成熟な物語。だまされた。金返せ。

 

 ブルーハーツの歌のように、シュールな夢を見たい。


BABYMETALと空海

 BABYMETALはフォックスゴッド。となれば、当然稲荷信仰を思い起こす。伏見稲荷、豊川稲荷などが有名だが、実に全国津々浦々にあるといっていい。日本の神社で一番多いのは八幡社で、全体の半分の4万社。2番目は稲荷社の3万社という。

 

 面白い話がある。伏見稲荷大社と空海の関係だ。天長四年(827)淳和天皇が病気になり、占いの結果、稲荷神社の木を伐った祟りだという。木は空海が東寺を建てるためだった。空海は淳和天皇の兄、嵯峨上皇の信任が厚く、稲荷社も従わざるを得なかったのだろう。淳和天皇は遣いを稲荷社に遣わして病気の快癒を祈ったが、亡くなった。

 

 本来なら祟りは空海か嵯峨上皇にかかるのではないか。空海が呪いの力で勝ったのか。いずれにしろ兄弟の勢力争いに嵯峨上皇が勝ち、政権を子孫に独占させた。稲荷社には高い神階が与えられたという。そして真言密教の本山の東寺とも深い関係を持つに至った。

 

 さて面白いのはここからだ。真言密教の荼枳尼(だきに)天はインドでは大母神カーリーの使いで、夜に墓場に集まり、肉を食らい酒を飲み楽曲を奏で、踊りを踊り、性的放蕩の限りを尽くす鬼霊という。

 

 それが日本に来ると狐と結び付き、天女が狐に乗った姿で表された。日本的に変化したものが稲荷社ということだろう。荼枳尼天の修法をなすものは人の死期を知り、その心臓を取って食うという。食えばあらゆる願望が達せられるという。

 

 稲荷社と密教が結び付き、病気の人に乗り移った狐の霊を加持祈祷で取り払うこととなった。この信仰は真言宗だけでなく、曹洞宗などにも及んでいるという。

 

 明治に神仏混交が行われたが、要するに平安時代にもうやっちゃってる。はしりというわけ。

 

 「性的放蕩の限りを尽くす」ってのは勘弁してほしいが、BABYMETALはまさに21世紀の荼枳尼天! 墓場ではないがホール、アリーナに夜出現。「楽曲を奏で、踊りを踊り」信者を癒し、救う。哀れな男どもは狂喜乱舞し、苦しい現世をひととき忘れ、フォックスゴッドにひれ伏す。空海もびっくり。

 

 


政治は虚構

 政治とはフィクションだ。国内政治も国際政治も。参議院選挙や英国のEU離脱などをみてつくづくそう思う。世の中の現実はある。行政はある。でも政治は虚構。キャンベルの弁舌なんかみてるとつくづくそう思う。

 

 ついでに言えば「現実」もフィクションだ。「現実」という言葉になった時点で。そんなフィクションの政治、現実をフィクションであるマスコミが報道するのだから、信じられるわけがない。もうテレビのニュースを見るのはやめよう。


宇宙の田舎

 空に雲が出て、流れる。日が差してくる。あるいは雨が降ってくる。

 何の不思議もない、当たり前のことのようで。

 でも、ふと思う。遠い宇宙のどこかの星、そこの住人がもしも地球を見た場合、何て変な星、現象、光景なんだろうって思うかも。極めて特殊なのかも。

 でもどこか底では、宇宙のどことも共通な原理は働いているのだろうか。

 でもやっぱり地球、人間って、へんてこな存在なのかもしれない。

 宇宙の田舎、ローカル。

清酒の極み

 日本酒で今来てる!のは、亀吉と豊盃だ。どちらも青森県津軽地方の酒。亀吉は黒石市、豊盃は弘前市。一部高い品種もあり、またプレミアがついているのもあるが、一般的に普通の値段でいいのがのめる。例えば「特別」がつかない純米酒でいい。

 両方にいえるのはバランスと個性。極端や偏ったところがなく、それでいて特徴を持っている。料理を選ばない。強い味のでも、あっさり淡泊でもいける。おだやかで懐が深く、でも底にシンが通っている。

 安い酒でもいいのがある。菊正宗の樽酒、イオン系で720ミリリットル、700円ぐらいで売っている。辛口の代名詞、菊正。で、樽の香りがする。これは淡麗辛口。淡麗でいいのは少ないが、この淡麗は筋が通っている。意外にこってりした料理に合う。吉田類的にいえば、さらりと流してくれる。

 逆に濃醇という触れ込みがついたのが「米の極」。安売りの店で一升1300円ちょっと、たまに1000円ちょっとでセールしている。これはこんな値段とは思えない、いい飲み口だ。まさに米の極。これも強い味の料理に負けないし、あっさりのでも合う。冷やもいいが、熱燗が特にいい。おいしい上品なおでんとかで。純米酒のバズーカ砲だ。

 ゲスの極みは、米の極を見習ってほしい。ゲスの極みとか世界の終わりとかワルぶったり否定的なバンド名を標榜するのは未熟の表れ。ニーチェを読みなさい。「然り!」。

 吉田健一氏が昔銀座にあった「はせ川」で菊正宗の樽を飲んでいた話をどこかに書いていた。あっ、こういう時は「菊正宗の樽」じゃなく「菊正の樽」といわなきゃ。突き出しのかわりに澄まし汁が出る(私も体験)。

 灘や伏見の大メーカーの酒もあなどれない。けっこういいのを、リーズナブルな値段で出している。地酒は好きだが、地酒ブームは嫌いだ。飲み屋で高く取る手段になっている。

 でも豊盃、亀吉はいい。本物だ。

「泣き相撲」は大嫌い

 ニュースでまたどこかの「泣き相撲」をやっていた。土俵の上で、赤ちゃん二人に、どっちが大泣きするか競わせるものである。各地でこうした風習があるようで、休日のニュースでよく放映される。

 私はこの「泣き相撲」が嫌いだ。赤ちゃんだって人権がある。赤ちゃんだって覚えている。赤ちゃんにとって「泣く」とは意思、感情の表れであり言語である。それを大人が作為的にやらせ、面白がって見ている。いやだ。

 ある小説の中で(風野真知雄さん?)、なまはげを批判していた。子供は小さくてもよく覚えているもので、あの恐怖はトラウマになりかねないというのだ。しかも大人はそれを見て笑って、酒を飲んだりしている。不謹慎だ。子供にも人権がある。

 それで思ったが、高校野球や甲子園も同じだ。少年を舞台に立たせ、戦わせて大人が面白がっている。客から金を取って興行しているのだ。こんな不謹慎なこと、あるだろうか。

 たかが野球、スポーツじゃないかといわれるかもしれない。でも子供たちは真剣だ。やるかやられるか、殺るか殺られるかなのだ。高校生、教育といったものに一番不似合いな興行というものがまかり通っている。

 プロ野球選手で野球賭博をやる大バカよりも、ホントは偽善的なところでたちが悪いかもしれない。

はたち越え

 11日成人の日の朝日「折々のことば」に次の言葉が紹介されていた。

 ----ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。----

 カーッ! 来たー! キザー!

 というかなつかしくある時代が思い出されて胸キュン(死語?)だ。

 ポール・ニザンの小説「アデン アラビア」の一節。冒頭だったか。1960年代だったか。ま、担当してる鷲田清一氏も多かれ少なかれこの辺りの電気にびりびりしたんだろう。

 今あらためてこの言葉を読み返すと、反語的逆説的表現だが、結局は二十歳はいちばん美しいと言ってるわけで、背中ザワザワ。でもこうした表現がかっこよかった時代がなつかしくて。

 でもカラフルな紋付き着て成人式に出る今の若者にはわからないだろう。ひとの一生でいちばんバカな年齢だ。

 ポール・ニザンのこうしたセンス、感覚が日本に来ると、森田公一とトップギャランの大ヒット曲「青春時代」になるんだろうと思う。泥臭くて演歌っぽくて。「あとから、ほのぼの、思うもの〜〜」なんて。

 ポール・無残。

 あっ、ASKAさんって、表声と裏声を同時に出せるんだって。すごい。

野坂昭如氏のピー缶

 野坂昭如氏の死去で、例の大島渚氏へのパンチお見舞いが何度もテレビや動画で映される。あの時、誰だったか「腰の据わった実にいいパンチ」との評があって同感したものだ。

 今朝の朝日に載った五木寛之氏の追悼文がよかった。偽悪と偽善の役割分担をしてジャーナリズムの洪水を乗り切ってきた同士、といった内容だ。「傷つきやすい芸術家」とはまさに的を射た野坂氏の本質だ。

 とろで代表作というと「火垂の墓」「アメリカひじき」と直木賞受賞作品ばっかり挙げられるが、「エロ事師たち」を忘れてはいけないだろう。あと「骨餓身峠死人葛」。あれはすごかった。すごくて美しい。

 あと朝日だか「最後まで反戦、平和」とあったが、ちょっと、いやかなり違和感がある。それが本質の人ではない。関連してネットで知ったが、水木しげる氏はインタビューで「戦争反対」は絶対言わなかったとか。わかる気がする。両氏に共通して言えるのは、反戦とかそんな生ぬるいものじゃないということだ。

 野坂氏がピースの缶入りから1本取って、マッチで火をつけ、うまそうに吸うところをなまで見たことがある。70年ころかな。カッコよかった。あっ、「含羞の無頼」ってのも当たってる。意外なことに石原慎太郎氏との対談シリーズが実に面白かった。

 戦後よ眠れ、60〜70年代よ眠れ。

乳白色のマドレーヌ

 テレビで藤田嗣治のことをやっていたのをちらっと見た。ひょっとしたら番宣だったかも。最近の番宣の多さはひどいものだが、藤田のことを思い出して、思った。

 藤田には現実は不要だった。現実なんてものにお世話にならなくても、精神の高みイマジネーションの高みの上に絵画世界を打ち立てることができた。

 だが日本人として日本国民として戦争の絵を描いた。これが戦後、戦争協力として指弾された。藤田は日本を捨て、フランスの郊外に住み、そこの教会の美術をつくりあげたりした。

 もともとあの絵だって戦争を称揚するものでなかった。むしろその悲惨さ無意味さを表していた。なのに、だ。

 現実なんて要らないのに、素直に現実に沿って行動したらそこから手ひどい仕打ちを受けた。その傷。

 確かに日本はすごくいいものを持っているが、すごくいやな面も持っている。そうした伝統を受け継いでいるのが、マスコミだ。現実なんて、実はあるようでないもの。いわば、亜・神だ。

 またラマンチャの男を思い出した。あるべきもののために戦わず、あるがままの現実に折り合いを付けること、それこそ真の狂気だ。

 それにしても今やってるNHKBS1の錦織圭の実況アナウンサー、ひどいね。えらそうで。ネガティブで。知ったかぶりで。WOWOW見て勉強しろ! 

 自分で価値判断下してる。解説要らない。ひどい。気に障る実況だ。

白鳥のめざめ

白鳥

 居つきの白鳥ってなんか悲しい。寂しい。特に渡ってくる本来の(?)白鳥のシーズンになると尚更だ。なんだか王子か王女が化身させられた姿なのかと思えてくる。白鳥で思い出す音楽は「白鳥の湖」というのは単純。なんといってもクリムゾンの「リザード」だ。とかげの骨が灰になり、白鳥が生まれる。「ルーパート王子のめざめ」。スペインの探検家エルナン・コルテスがメキシコに行った時、「船を燃やせ!」といった。背水の陣ということだ。「リザード」には「橋を燃やせ! 船を燃やせ! 蜥蜴のノドを突き刺せ!」という歌詞が出てくる。学生の頃、この曲、言葉にどんなに勇気づけられたことか。

 さっきニュースで今日10月21日は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の日と言ってから、今日は何の日をやっていた。驚いたのは国際反戦デーを取り上げていなかったことだ。日本の近現代史に残る出来事と思っていたのに。あれがいいか悪いかは別にして、あの熱気はもはや風化したのか。風化というのはこういう時に使う言葉です。

 誰でも文学をやっている。書かなくても。それが例えば顔や歩き方に表れる。顔や歩き方は人生観であり宇宙観だ。文体であり、ボキャブラリーだ。そこには過去に見た風景、聴いた音楽もにじみ出る。感情も。

 強気と弱気はやっかいなもので、それぞれ判断を誤る。でもどっちでもないニュートラル、フラットって難しいというか実際不可能だ。必ずどっちかに偏る。積極的消極的というだけでなく。

 さっき「こころ旅」で心の風景の手紙を読んだ火野正平さんが面白かった。そこへは海の上の高い橋を渡らないと普通は行けない島なのだが、手紙の主が「正平さんもそんなに怖くなく行ける橋だと思います」といった意味のことを書いていた。ご存じのように火野正平さんは極度の高所恐怖症なのだが、正平さんいわく「怖い怖くないは俺が決める!」。いいなあ。これが人間の自由ということだと思う。「橋を燃やせ! 船を燃やせ!」。結局正平さん、頼んで船に乗って島に渡ったけど。

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