宇宙のパンくず

 古いCDを処分しようと整理し、気になったヤツをもう一度聴いた。えっ!こんなの持ってたの? とびっくりしたのが、Quill(クイル)というバンドの「Privileged」というアルバムだ。ネットで調べたら、ヘヴィメタに分類? ってちょっと変。女性ヴォーカルがうまいしギターもその他の楽器もうまい。というか内容、サウンドがいい。私の好み。だから持ってたのかと納得した。もちろん売りません。変な話だが得した気分だ。今も聴きながら書いています。

 

 星占いの言葉にまたまたどきっとした。

 

 ----いくつかの特定の問題がずいぶん緩和されてきた今、あなたは自分の置かれている状況を少しずつ楽しめるようになってきています。でも、それは宇宙のテーブルからこぼれ落ちたパンくずにすぎません。豪華なご馳走があなたを待っています。

 

 ----もはやあなたがやらなくていい何かがあります。あなたはすでに過ぎ去った危険から自分の身を守ろうとしています。あなたをここまで連れてきた信念は、ここからさらに、到達できるなんて夢にも思わなかったところまであなたを連れていってくれるでしょう。----

 

 豪華なご馳走や到達などはどうかわからないが、「すでに過ぎ去った危険から自分の身を守ろうとしています」などは、あまりにホントと思われ、しばし呆然。一時の気休めかもしれないけど、信じていきます。

 

 


月が照らすこと

満月

 

 一昨日の満月です。もう遅いか。

 

 雑誌で見た佐藤健志氏の題名の長い本の紹介で、なるほどと思った。内容を象徴する言葉が「賢いといわれるほどのバカじゃなし」。一つの基準というか正しいと思うテーマでいつまでも通用すると思っている人たちに対する痛烈な批判。「平和」「対米追随」「グローバリズム」「構造改革」などなど。一つの、というところに数というか幅、空間があり、そしていつまでも変わらず通用すると思い込むところに、時間がある。両方で固定された思想。そんなの、たまんねえ。吉田類氏が言ってた信条、「終始一貫 臨機応変」でなきゃ。でなきゃ人間じゃないでしょ。

 

 必要があって、古い新聞を図書館で調べた。昭和14年ごろの紙面だ。目的の記事を探すのに苦労したが、なんとか探し当てた。それで気づいたのは、その時期の新聞に、なんと戦争関係の記事の多いことか。当たり前といわれるかもしれない。でも、日本が太平洋戦争に突入するのは昭和16年。もちろん大陸やアジアでの戦争は始まっているのだが。言いたいのは、その中でも文化関係のイベントやスポーツの記事も少しだが載っているのだ。でも、戦争そのもののだけでなく、社会でのそれに関した話題、情報の何と多いことか。

 

 現実は言葉でつくられる。現実を「伝える」と称される新聞がこれでは、人々は戦争しかないと思ってしまう。なんか悲しくなってしまった。どれだけ新聞は罪深いのだろうか。そして現代ではそれは違うといえるだろうか。断言する、もし次に日本が戦争になるとしたら、それは新聞のせいだ。

 

 それは言葉、文章が事実を伝えるという盲信によってである。それが正しいと信じることの誤謬の振れ幅が、災厄を招く。

 

 思うのだが、何か出来事が起こって、それがリアルタイムで事実たり得るだろうか。その意味、真相、背景、深層は時間が経たないとわからないのではないだろうか。少し、寝かせることが必要ではないか。今は速さばかり追求される。そのせいで誤報も多い。地方にいる友人が言っていたが、ある民放地方局でけっこうシリアスな誤報をした。それがわかって番組でアナウンサーが「おわびして訂正します」と言い、続けて「失礼しました」と言ったという。友人は「言葉の使い方もわからないのか」と憤っていた。

 

 人間は劣化し、世界は劣化し、日本も劣化した。だが昔の不便な時代、貧しく苦しい時代に比べれば、幸せな快適な生活を送っている。なんだか不公平な気がする。でも人間の高貴さの点で、今は昔に到底かなわないと思う。食い散らかされ、誤用された「言葉」が現実となっている今の世の中を憂う。

 

 まじめな顔をしてニュースを読んでいるアナウンサー、キャスターの、そのまじめな顔がすべてを欺く根源だ。何故ならそれはそうしたものが有効な社会があるという幻想であり、つまり嘘だから。ニュースの取材は通信社に任せ、テレビはニュース専門チャンネルに任せた方がよっぽど健全になる。大体、お笑いやバラエティーやドラマを放送している同じチャンネル=電波で「事実」を伝えるというのが根本的な間違いだ。フィクションチャンネルとニュースチャンネルにはっきり分ければいい。


洞爺丸と乗客ファースト

 今日は青函連絡船「洞爺丸」沈没から64年の”命日”である。多くの小説や映画、ノンフィクションに取り上げられたが、よくいわれる言葉として「なぜあんな嵐の中を出航したのか」というのがある。物事は極度に単純化すればいいというものではない。

 

 洞爺丸1隻だけがあの時いたなら、上記の疑問も通用する。だが、あの時の函館港内には何隻もの船舶がいて、強大な荒波と戦っていたのだ。現に洞爺丸以外にも何隻も沈没した。桟橋の岸壁に係留していた洞爺丸でさえ、波風に揺すられて、乗客の中にはひどい船酔いに苦しんだ人も多かったという。

 

 管理当局は船長に乗客を降ろすよう指示した。だが船長は嵐が収まったらすぐ出航できるよう拒否したという。青函連絡船乗組員だった国鉄OBが書いた本では、桟橋や構内に大人数の乗客が待機するのは場所的にも、寒さからも大変で、そこには船長の乗客への配慮もあったという。

 

 だがもしも、そこで乗客を降ろしていたら、あんな多数の死者を出す海難事故にはならなかった。船と運命をともにしなければならない船長・乗組員には気の毒だが、空船で桟橋から離れて退避し、そこで遭難しても被害は最小限に食い止められた。

 

 下船しようとした人もいたが、乗組員は止めた。それを振り切って飛び降りた人もいて、彼らは助かった。いざ出航して、巨大な大波、強風に翻弄されても、3等客室などには鍵がかけられ、勝手に出られないようにしていたという。映画「タイタニック」の場面と同じようなことが行われていたのだ。

 

 船長は立派な人だったという。今さら船長や当時の国鉄に非難めいたことをいうつもりはありません。でも当時の国鉄といういわばお役所が、民間人を「乗せてやるぞ」という意識がどこかになかったか。今の言葉でいう「乗客ファースト」の意識があれば、ひょっとしたら犠牲者は出なかったのではないか。今、そう思う。


久しぶりの夕焼け

夕焼け

 

 ダレルの「アヴィニョン五重奏」を(とりあえず)読み終えた。肉やチーズの西洋料理をこれでもかと食わせられた感じで、おなかいっぱいだ。でもその中に時折り出てくる東洋やヨガ、禅などが、西洋にとってはいかに切実に必要なのかもわかった気がする。西洋も悩み、苦しいのだ。

 

 今の日本も肉、チーズって感じだが、それはそれとして、ちょっと日本が(昔からの)嫌いになってきている。歴史的にいえば武将、公家などの権謀術数から、実にずるい、きたないことをやっている。江戸時代の「粋」ってのは、外に目を向けたりしないように、できないように幕府がした結果であって、鳥籠の中の芸だ。

 

 それらが明治以降も変わらずというか、ある意味凝縮されて、それを狭い意識の官僚や新聞が増幅する作用をして、戦争を続けた。あきれるほどの世界の田舎者だ。現代、いい日本人はいる。多い。でも個人。組織はまるでだめ。この国は何なの? それでも何とかやっている。あきれるほどの脆弱性を保持しながら。

 

 でもこれも何度も気づいたことだが、それらの日本ってマスコミがつくりあげたものだ。もう笑い話ではすまないところに来ている。それでも、夕焼けは美しい。久しぶりだった。

 

 


セレナへ〜稔るほど首を垂れる稲穂かな〜

 大坂なおみさん、おめでとう! どんなにアウェイでも逆風が吹いても、淡々と自分のプレーに集中した試合ぶりは見事だった。それに対してセレナは大人げなかった。あれほどの実績を持つ、テニスの歴史に残る選手が、あの抗議、ラケット叩き割り、主審への暴言はいただけない。「嘘つき、泥棒、謝りなさい、一生私の試合のコートには立たせない」は何様? しかもその間、相手選手を何分も待たせているのは失礼ではないか。

 それほどフラストレーションがたまっていた、ということは、それほど大坂選手のプレーに圧倒されたということだろう。試合終了時、表彰セレモニーでは大坂選手を祝福してくれたが、主審がいない授与式も珍しい。せっかくの大坂選手の初V、華やかでフレンドリーなものにさせてほしかった。

 後でセレナのコーチが試合中のコーチングを認めたという。試合中のテレビでは彼が手を動かしていたのをプレイバックでやっていた。それをセレナが見たか見ないかというのは微妙で、でもコーチが認めたのだから仕方がない。しかしそのコーチが大坂選手のサーシャコーチもやっていると発言したことは許せない。勝者のコーチについて言及するのは度し難い無神経行為だ。

 

 セレナもお母さんになったのだから、もっと大らかに、もっと謙虚になってほしいが、彼女のことをいまひとつ憎めない、そういう人柄だ。ここは、どうでしょう。パトリックだっけ? セレナのコーチが悪い! これで結論としませんか。


朝の啓示

眠犬

 

 

 眠気に勝てない時は、眠ろう。朝起きてからまた考えよう。

 

 最近、朝早くといっても6時くらいだが目が覚める。7時くらいまで布団の中で考える。いろんなことを。やがて一つのことに収斂されてくる。それによって、その記憶が生まれた時、出来事が発生した時には気づかなかったことがわかる。というようなことがよく起こる。自分は、他人のある行動や言動について、怒ってもいいような事態でもその時には気がつかない。これって損な性分? それとも得な性分? ヒトがいいっていうにもほどがある? 要するに、遅いのだ。ずれてるのだ。やっぱり損かな。

 

 ウィリアム・ブレイクの詩の一説にこんなのがある。

 

 think in the morning, act in the noon, eat in the evening, and sleep in the night.

 

 あったりまえだのクラッカー、と言ってしまえばそれまでだが、特に「think」は朝がいいというのは本当だと思う。「あっ、あの時のあれはこういうことなんだ(こういうことだったんだ)」とわかることが多いですよ。


村八分の対象探しの日本

 ある本の書評の中に、次のような言葉をみつけた。

 

 ----1970年代の歌謡曲「木綿のハンカチーフ」を聴くと著者の知人は泣くという。この曲は日本が農村から資本主義社会へ変わる時期を体現し、当時青年だった者には伝統社会を置き去りにしたことに「うしろめたさ」があったと書く。この逡巡が、彼らの世代のパッションの源流なのかもしれない。----

 

 もうちょっと前の箇所には「旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったもの」という言葉もあった。

 

 そうした日本の古い体質、イエやムラ社会を、果たして置き去りにしてきたのだろうか。表面的にはそうかもしれない。しかし一皮むくと、そんな深い所でもなく、すぐにそうしたものが見える、根強く残っていると思うのは小生だけだろうか。時代の先端を切り開くといわれた(今は誰もそう思っていない)マスコミも、結局は、「村八分」の対象を探すのに躍起となっているだけだ。

 

 パラリンピックのメダリストのインタビューを聞いて、思った。シンプルで率直で真摯なのだ。なぜか。健常者のオリンピックのメダリストたちが二言目、いや一言目にいうのは「支えてくれた人たちへの感謝」である。これがわずらわしい。それは言わなくても、当たり前のことじゃないか。

 

 パラリンピックの人たちは、そんなに言わない。自分のことが主だ。だからといって「支えてくれた人たちへの感謝」がないわけじゃない。むしろ大きすぎるのだ。個人としての主体性が強いのだと思う。それは苦しさを知ってるからだ。欧米のインタビューで「支えてくれた人たちへの感謝」「応援よろしくお願いします」といった言葉は出ないという。そりゃそうだ、やったのはその人だもの。ま、日本ではマスコミが強要してるんだね。

 

 テレビでは相変わらずグルメ番組が多い。最近のパターンは料理を口に入れた瞬間、顔をちょっとしかめるように、絶句して、それから何か言葉を発する。いい加減にしろ! といいたい。口に入れた瞬間、味がわかるようなものは料理ではない。ま、そんなのはわかってるでしょ、ご愛嬌ご愛嬌、といったところなのだろう。

 

 おいしい料理、食べ物に絶対的な基準はない。ないのに、あるフリをする。それほどまでに絶対的な基準が欲しいのだろうか。あるシチュエーションである人が供してくれた料理、といえないものでも、一杯のお茶漬けでも、食べる人には死ぬほどおいしいことがあるだろう。絶対的な基準がどうしても欲しい、というのは、新聞なんかがよく使う表現だが、軍靴の音がひたひた聞こえてくる、まさにそれではないか。新聞なんかとは180度違う方向から、それを憂う。というか嫌いだ。

 

 っていうか日本は昔から全然変わってないんだなあと思う。マイナスの意味で感心する。


しばられていませんか?

 ジュンク堂で立ち読みする日々が続いたが、ついに本を購入したので、うしろめたさが消えて気持ちに余裕ができた。出版社のPR誌というものがあって、無料でもらえる。その棚にも手が伸びた。

 

 思文閣出版という出版社で出している「鴨東通信」というPR誌を手にしたら、本の紹介の惹句にどきっとした。「あなたもしばられていませんか?」。もちろんSMの本ではない。国際日本文化研究センターの「人文諸科学の科学史的研究の成果」という本、「学問をしばるもの」の惹句だった。

 

 その前の何行かでこの本の概略を記しているのだが、なるほどと思った。

 ----時局による言論の制約、マルクス主義の流行、はたまた所属学会への配慮や、恩師・先輩への気遣いなど煩わしい人間関係……。

 ----人文学の研究者たちも、知らず知らずに社会のさまざまなものに拘束されている。そんな学者たちの息苦しさの歴史を、科学史的に明らかにしようと企画された----

 

 そして最後に「あなたもしばられていませんか?」なのである。こっちは人文学の学者でもないし、学者の人はそういう制約も覚悟でその道に入ったんじゃないの?と我ながら冷ややかな目で見たが、PR誌の本編の冒頭に、この本を中心となって執筆・編纂した井上章一氏(国際日本文化研究センター教授)のインタビューが載っていて、実に率直明快な氏の意見に引き込まれた。

 

 井上氏は以前から一筋縄ではいかない思想家だと思っていたが、それは頑固だとかそういうのではない。実に柔軟な考え方をするからである。それで、氏は工学部建築科から「文転」して京大人文研の日本部にいった人だが、実に学問というのは制約があるという。

 

 たとえば考古学と文献学では同じ事象でも考え方が違う。というよりその学問の考え方でいかないと世渡りできないという。マルクス主義然り。そんな中で、氏の若い頃の著作「霊柩車の誕生」についてふれ、建築学科に来ていたスイス人が霊柩車を見て「あれは何だ。あんなものは、いろんな国を廻ってきたけど、見たことない」と驚いたエピソードがきっかけと明かす。面白い。

 

 美術史、文学、その他さまざまな人文諸科学で、さまざまな制約がある、それっておかしいんじゃないの? とケツをまくり啖呵を切っている。科学的論理的実証的に。本は2500円でこの種のものとしてはそんな高い方じゃないが、エッセンスただでもらっちゃったって感じ。いいなあ出版社のPR誌は。

 

 何も学問の、学者の世界ばかりではない。思考、感覚……あなたもしばられていませんか? 自分もしばられている? 本当は時代とかもっと大きなところでしばられているとすれば、そこをどう超えるかが大事な、おいしいところだと思いたいが、現実は実に下世話なものにしばられているのでは?

 

 「Do away with people flowing my mind!」とはジェファーソンエアプレーンの曲の一節。さあ、縄をほどこう。ってヒッピーかフラワーチルドレンみたいって青臭いといわれるかな。


分からないもの

 産経の正論をネットで見た。筑波大大学院の古田博司教授の文章だ。最初の方の韓国の文化に関する論は、ま、そんなものかな程度に読み流していた。後半から、気になる言葉が出てきて、じっくり読んだ。

 

 ----真剣に考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。

 ----到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 ----そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できないからである。

 ----人間の体内時計はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送り込んでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。----

 

 この中で「人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できない」の言葉に、考えさせられた。それは物語ということではないか。果たして、本当にそれでいいのか。でもやっぱりそうなのか。

 

 次に筆者は「すごいことを言っている」という羽生善治氏の言葉を引用する。「分かっていることに対する答えや予測は、どう考えてもAIの方が得意です。残されている『分からないもの』に対して何をするのか、が問われる。それは若い人たちだけにかぎらないと思います」。

 

 そして筆者は「大学ではそれが今問われている」という。「うちの大学などでは、文系の人文社会科学はもう、のけもの扱いである。なぜなら知識を教えることしかしてこなかったからだ。そんなものはもうネットで簡単に手に入る」とおっしゃる。今風の女性風に反応すれば「おお!」というぐらいな断言だ。

 

 で、ほかの物理学、化学、工学、農学、生物学などは元気で、それは「全部実験という、知識以前の『分からないもの』を扱っていて、医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどはみな体得の科目で、『分からないこと』を考える余地がある」という。

 

 そうですかねえ? どうだろ。「因果関係のストーリー」のところには食いついたんだけど、「分からないこと」については、疑問を感じる。人文系科目の「のけもの」については、実態はそうかもしれないけど、それでいいのかな。というか「分からないこと」について考えるのが結局人文系でも目的だと思っていたから。ま、人文系といっても幅が広く、一概には言えないということだけど。筆者が挙げていた「分からないもの」を扱う理系の科目ほど、「知識」のような気がするけど。

 

 結局、どんなジャンルでも「知識」と「分からないこと」があるんじゃないかということを、私は言いたいです。

 

 それにしても羽生善治氏の言葉は、その通りであり、現代ではそれが出発点のような気もします。


素敵なメモリー

 なつかしの洋楽ヒットで、ジョニー・ソマーズの「素敵なメモリー」を聴いていたら、思い当たった。人間は過去をすべて、一つ一つ、記憶にしてしまうことができる。「素敵なメモリー」も「悲しい思い出」もあるだろう。

 

 だが実体験が残っているのではなく、記憶にしてしまっているのだから、何ということはないのだ。過去は、ない。ただ記憶があるだけ。これは人間の、生き延びるための、非常に都合のいい、一つの大きな能力ではないだろうか。

 

 実際の過去が今に残っていたら、生きていられないだろう。辛い、という意味でなく、物理的に。誰かの文章にあったが、地球は今現在の重みしか乗せて回っていない。過去の堆積した重みなどはない。

 

 地球は月という衛星があったおかげで重力などが絶妙に調整され、それで人間などという生物ができたのだという。古来、月を重んじてきた日本は、それをわかっていたのかもしれない。

 

 長寿の人は食生活がどうだ云々以前に、長寿の遺伝子を持っているという説もあった。でもそれだけでもないと思う。リズム、流れというか自然、地球、宇宙のリズムに乗って生きている人は長生きしそうな気がする。あるいはありもしない過去にとらわれないで生きている人。「素敵なメモリー」のノリで生きている人。「ワンモアタイム!」


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