セレナへ〜稔るほど首を垂れる稲穂かな〜

 大坂なおみさん、おめでとう! どんなにアウェイでも逆風が吹いても、淡々と自分のプレーに集中した試合ぶりは見事だった。それに対してセレナは大人げなかった。あれほどの実績を持つ、テニスの歴史に残る選手が、あの抗議、ラケット叩き割り、主審への暴言はいただけない。「嘘つき、泥棒、謝りなさい、一生私の試合のコートには立たせない」は何様? しかもその間、相手選手を何分も待たせているのは失礼ではないか。

 それほどフラストレーションがたまっていた、ということは、それほど大坂選手のプレーに圧倒されたということだろう。試合終了時、表彰セレモニーでは大坂選手を祝福してくれたが、主審がいない授与式も珍しい。せっかくの大坂選手の初V、華やかでフレンドリーなものにさせてほしかった。

 後でセレナのコーチが試合中のコーチングを認めたという。試合中のテレビでは彼が手を動かしていたのをプレイバックでやっていた。それをセレナが見たか見ないかというのは微妙で、でもコーチが認めたのだから仕方がない。しかしそのコーチが大坂選手のサーシャコーチもやっていると発言したことは許せない。勝者のコーチについて言及するのは度し難い無神経行為だ。

 

 セレナもお母さんになったのだから、もっと大らかに、もっと謙虚になってほしいが、彼女のことをいまひとつ憎めない、そういう人柄だ。ここは、どうでしょう。パトリックだっけ? セレナのコーチが悪い! これで結論としませんか。


朝の啓示

眠犬

 

 

 眠気に勝てない時は、眠ろう。朝起きてからまた考えよう。

 

 最近、朝早くといっても6時くらいだが目が覚める。7時くらいまで布団の中で考える。いろんなことを。やがて一つのことに収斂されてくる。それによって、その記憶が生まれた時、出来事が発生した時には気づかなかったことがわかる。というようなことがよく起こる。自分は、他人のある行動や言動について、怒ってもいいような事態でもその時には気がつかない。これって損な性分? それとも得な性分? ヒトがいいっていうにもほどがある? 要するに、遅いのだ。ずれてるのだ。やっぱり損かな。

 

 ウィリアム・ブレイクの詩の一説にこんなのがある。

 

 think in the morning, act in the noon, eat in the evening, and sleep in the night.

 

 あったりまえだのクラッカー、と言ってしまえばそれまでだが、特に「think」は朝がいいというのは本当だと思う。「あっ、あの時のあれはこういうことなんだ(こういうことだったんだ)」とわかることが多いですよ。


村八分の対象探しの日本

 ある本の書評の中に、次のような言葉をみつけた。

 

 ----1970年代の歌謡曲「木綿のハンカチーフ」を聴くと著者の知人は泣くという。この曲は日本が農村から資本主義社会へ変わる時期を体現し、当時青年だった者には伝統社会を置き去りにしたことに「うしろめたさ」があったと書く。この逡巡が、彼らの世代のパッションの源流なのかもしれない。----

 

 もうちょっと前の箇所には「旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったもの」という言葉もあった。

 

 そうした日本の古い体質、イエやムラ社会を、果たして置き去りにしてきたのだろうか。表面的にはそうかもしれない。しかし一皮むくと、そんな深い所でもなく、すぐにそうしたものが見える、根強く残っていると思うのは小生だけだろうか。時代の先端を切り開くといわれた(今は誰もそう思っていない)マスコミも、結局は、「村八分」の対象を探すのに躍起となっているだけだ。

 

 パラリンピックのメダリストのインタビューを聞いて、思った。シンプルで率直で真摯なのだ。なぜか。健常者のオリンピックのメダリストたちが二言目、いや一言目にいうのは「支えてくれた人たちへの感謝」である。これがわずらわしい。それは言わなくても、当たり前のことじゃないか。

 

 パラリンピックの人たちは、そんなに言わない。自分のことが主だ。だからといって「支えてくれた人たちへの感謝」がないわけじゃない。むしろ大きすぎるのだ。個人としての主体性が強いのだと思う。それは苦しさを知ってるからだ。欧米のインタビューで「支えてくれた人たちへの感謝」「応援よろしくお願いします」といった言葉は出ないという。そりゃそうだ、やったのはその人だもの。ま、日本ではマスコミが強要してるんだね。

 

 テレビでは相変わらずグルメ番組が多い。最近のパターンは料理を口に入れた瞬間、顔をちょっとしかめるように、絶句して、それから何か言葉を発する。いい加減にしろ! といいたい。口に入れた瞬間、味がわかるようなものは料理ではない。ま、そんなのはわかってるでしょ、ご愛嬌ご愛嬌、といったところなのだろう。

 

 おいしい料理、食べ物に絶対的な基準はない。ないのに、あるフリをする。それほどまでに絶対的な基準が欲しいのだろうか。あるシチュエーションである人が供してくれた料理、といえないものでも、一杯のお茶漬けでも、食べる人には死ぬほどおいしいことがあるだろう。絶対的な基準がどうしても欲しい、というのは、新聞なんかがよく使う表現だが、軍靴の音がひたひた聞こえてくる、まさにそれではないか。新聞なんかとは180度違う方向から、それを憂う。というか嫌いだ。

 

 っていうか日本は昔から全然変わってないんだなあと思う。マイナスの意味で感心する。


しばられていませんか?

 ジュンク堂で立ち読みする日々が続いたが、ついに本を購入したので、うしろめたさが消えて気持ちに余裕ができた。出版社のPR誌というものがあって、無料でもらえる。その棚にも手が伸びた。

 

 思文閣出版という出版社で出している「鴨東通信」というPR誌を手にしたら、本の紹介の惹句にどきっとした。「あなたもしばられていませんか?」。もちろんSMの本ではない。国際日本文化研究センターの「人文諸科学の科学史的研究の成果」という本、「学問をしばるもの」の惹句だった。

 

 その前の何行かでこの本の概略を記しているのだが、なるほどと思った。

 ----時局による言論の制約、マルクス主義の流行、はたまた所属学会への配慮や、恩師・先輩への気遣いなど煩わしい人間関係……。

 ----人文学の研究者たちも、知らず知らずに社会のさまざまなものに拘束されている。そんな学者たちの息苦しさの歴史を、科学史的に明らかにしようと企画された----

 

 そして最後に「あなたもしばられていませんか?」なのである。こっちは人文学の学者でもないし、学者の人はそういう制約も覚悟でその道に入ったんじゃないの?と我ながら冷ややかな目で見たが、PR誌の本編の冒頭に、この本を中心となって執筆・編纂した井上章一氏(国際日本文化研究センター教授)のインタビューが載っていて、実に率直明快な氏の意見に引き込まれた。

 

 井上氏は以前から一筋縄ではいかない思想家だと思っていたが、それは頑固だとかそういうのではない。実に柔軟な考え方をするからである。それで、氏は工学部建築科から「文転」して京大人文研の日本部にいった人だが、実に学問というのは制約があるという。

 

 たとえば考古学と文献学では同じ事象でも考え方が違う。というよりその学問の考え方でいかないと世渡りできないという。マルクス主義然り。そんな中で、氏の若い頃の著作「霊柩車の誕生」についてふれ、建築学科に来ていたスイス人が霊柩車を見て「あれは何だ。あんなものは、いろんな国を廻ってきたけど、見たことない」と驚いたエピソードがきっかけと明かす。面白い。

 

 美術史、文学、その他さまざまな人文諸科学で、さまざまな制約がある、それっておかしいんじゃないの? とケツをまくり啖呵を切っている。科学的論理的実証的に。本は2500円でこの種のものとしてはそんな高い方じゃないが、エッセンスただでもらっちゃったって感じ。いいなあ出版社のPR誌は。

 

 何も学問の、学者の世界ばかりではない。思考、感覚……あなたもしばられていませんか? 自分もしばられている? 本当は時代とかもっと大きなところでしばられているとすれば、そこをどう超えるかが大事な、おいしいところだと思いたいが、現実は実に下世話なものにしばられているのでは?

 

 「Do away with people flowing my mind!」とはジェファーソンエアプレーンの曲の一節。さあ、縄をほどこう。ってヒッピーかフラワーチルドレンみたいって青臭いといわれるかな。


分からないもの

 産経の正論をネットで見た。筑波大大学院の古田博司教授の文章だ。最初の方の韓国の文化に関する論は、ま、そんなものかな程度に読み流していた。後半から、気になる言葉が出てきて、じっくり読んだ。

 

 ----真剣に考えた末、30年後に、ハイデッガーの言葉を使えば急に「到来」し「時熟」したのである。

 ----到来したら、自分が勉強した思考経験や現地で体験した知覚経験から、自分の体内時間を「今」のカーソルのようにして、記憶から次々とコマを切り出していく。

 ----そしてならべて因果のストーリーを形成する。これが「超越」だ。なぜそうするか。人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できないからである。

 ----人間の体内時計はベルクソンにならって「持続」というが、これには明らかに流れがある。フィルムのコマみたいに現実を写し取って記憶の方に送り込んでいく。だから因果のストーリーがないとダダモレになってしまうのだ。地図なしに世界中を運転するようなものである。----

 

 この中で「人間は因果関係のストーリーなしには世界を認識できない」の言葉に、考えさせられた。それは物語ということではないか。果たして、本当にそれでいいのか。でもやっぱりそうなのか。

 

 次に筆者は「すごいことを言っている」という羽生善治氏の言葉を引用する。「分かっていることに対する答えや予測は、どう考えてもAIの方が得意です。残されている『分からないもの』に対して何をするのか、が問われる。それは若い人たちだけにかぎらないと思います」。

 

 そして筆者は「大学ではそれが今問われている」という。「うちの大学などでは、文系の人文社会科学はもう、のけもの扱いである。なぜなら知識を教えることしかしてこなかったからだ。そんなものはもうネットで簡単に手に入る」とおっしゃる。今風の女性風に反応すれば「おお!」というぐらいな断言だ。

 

 で、ほかの物理学、化学、工学、農学、生物学などは元気で、それは「全部実験という、知識以前の『分からないもの』を扱っていて、医学、体育、芸術、看護学、コーチングなどはみな体得の科目で、『分からないこと』を考える余地がある」という。

 

 そうですかねえ? どうだろ。「因果関係のストーリー」のところには食いついたんだけど、「分からないこと」については、疑問を感じる。人文系科目の「のけもの」については、実態はそうかもしれないけど、それでいいのかな。というか「分からないこと」について考えるのが結局人文系でも目的だと思っていたから。ま、人文系といっても幅が広く、一概には言えないということだけど。筆者が挙げていた「分からないもの」を扱う理系の科目ほど、「知識」のような気がするけど。

 

 結局、どんなジャンルでも「知識」と「分からないこと」があるんじゃないかということを、私は言いたいです。

 

 それにしても羽生善治氏の言葉は、その通りであり、現代ではそれが出発点のような気もします。


素敵なメモリー

 なつかしの洋楽ヒットで、ジョニー・ソマーズの「素敵なメモリー」を聴いていたら、思い当たった。人間は過去をすべて、一つ一つ、記憶にしてしまうことができる。「素敵なメモリー」も「悲しい思い出」もあるだろう。

 

 だが実体験が残っているのではなく、記憶にしてしまっているのだから、何ということはないのだ。過去は、ない。ただ記憶があるだけ。これは人間の、生き延びるための、非常に都合のいい、一つの大きな能力ではないだろうか。

 

 実際の過去が今に残っていたら、生きていられないだろう。辛い、という意味でなく、物理的に。誰かの文章にあったが、地球は今現在の重みしか乗せて回っていない。過去の堆積した重みなどはない。

 

 地球は月という衛星があったおかげで重力などが絶妙に調整され、それで人間などという生物ができたのだという。古来、月を重んじてきた日本は、それをわかっていたのかもしれない。

 

 長寿の人は食生活がどうだ云々以前に、長寿の遺伝子を持っているという説もあった。でもそれだけでもないと思う。リズム、流れというか自然、地球、宇宙のリズムに乗って生きている人は長生きしそうな気がする。あるいはありもしない過去にとらわれないで生きている人。「素敵なメモリー」のノリで生きている人。「ワンモアタイム!」


現実未満の夢

 最近の若い、あるいは比較的若い世代の作家による小説、漫画、アニメ、映画などの作品で、時間や時空を超えた、あるいは生まれ変わりなどを題材、シチュエーションにしたものが多い気がする。

 

 すべてではないが、一部作品に接してみて思った。どうも迫力がない。というか腰が引けている。現実と戦ったり、超えたりするのでなく、単なる現実逃避じゃないの?って具合。男の方が恋愛や結婚で泣いたり、女性にアタックできない昨今の状況とパラレルのような感じだ。

 

 今の50〜60代の作家あたりまでは、この種の作品に取り組むエネルギーが違った。現実から逃げているのでなく、まさしく「現実」と戦い、超える必死の試み、格闘があった。この場合の現実とは生活とか社会とかじゃなく。世界、現世、宇宙だ。

 

 「哲学的」とか「SF的」とかの書評の言葉にひかれて、ある本を読んだけれど、主人公やストーリー全体がただの意気地なしだった。最大限の到達点が世の中の現実という未成熟な物語。だまされた。金返せ。

 

 ブルーハーツの歌のように、シュールな夢を見たい。


BABYMETALと空海

 BABYMETALはフォックスゴッド。となれば、当然稲荷信仰を思い起こす。伏見稲荷、豊川稲荷などが有名だが、実に全国津々浦々にあるといっていい。日本の神社で一番多いのは八幡社で、全体の半分の4万社。2番目は稲荷社の3万社という。

 

 面白い話がある。伏見稲荷大社と空海の関係だ。天長四年(827)淳和天皇が病気になり、占いの結果、稲荷神社の木を伐った祟りだという。木は空海が東寺を建てるためだった。空海は淳和天皇の兄、嵯峨上皇の信任が厚く、稲荷社も従わざるを得なかったのだろう。淳和天皇は遣いを稲荷社に遣わして病気の快癒を祈ったが、亡くなった。

 

 本来なら祟りは空海か嵯峨上皇にかかるのではないか。空海が呪いの力で勝ったのか。いずれにしろ兄弟の勢力争いに嵯峨上皇が勝ち、政権を子孫に独占させた。稲荷社には高い神階が与えられたという。そして真言密教の本山の東寺とも深い関係を持つに至った。

 

 さて面白いのはここからだ。真言密教の荼枳尼(だきに)天はインドでは大母神カーリーの使いで、夜に墓場に集まり、肉を食らい酒を飲み楽曲を奏で、踊りを踊り、性的放蕩の限りを尽くす鬼霊という。

 

 それが日本に来ると狐と結び付き、天女が狐に乗った姿で表された。日本的に変化したものが稲荷社ということだろう。荼枳尼天の修法をなすものは人の死期を知り、その心臓を取って食うという。食えばあらゆる願望が達せられるという。

 

 稲荷社と密教が結び付き、病気の人に乗り移った狐の霊を加持祈祷で取り払うこととなった。この信仰は真言宗だけでなく、曹洞宗などにも及んでいるという。

 

 明治に神仏混交が行われたが、要するに平安時代にもうやっちゃってる。はしりというわけ。

 

 「性的放蕩の限りを尽くす」ってのは勘弁してほしいが、BABYMETALはまさに21世紀の荼枳尼天! 墓場ではないがホール、アリーナに夜出現。「楽曲を奏で、踊りを踊り」信者を癒し、救う。哀れな男どもは狂喜乱舞し、苦しい現世をひととき忘れ、フォックスゴッドにひれ伏す。空海もびっくり。

 

 


政治は虚構

 政治とはフィクションだ。国内政治も国際政治も。参議院選挙や英国のEU離脱などをみてつくづくそう思う。世の中の現実はある。行政はある。でも政治は虚構。キャンベルの弁舌なんかみてるとつくづくそう思う。

 

 ついでに言えば「現実」もフィクションだ。「現実」という言葉になった時点で。そんなフィクションの政治、現実をフィクションであるマスコミが報道するのだから、信じられるわけがない。もうテレビのニュースを見るのはやめよう。


宇宙の田舎

 空に雲が出て、流れる。日が差してくる。あるいは雨が降ってくる。

 何の不思議もない、当たり前のことのようで。

 でも、ふと思う。遠い宇宙のどこかの星、そこの住人がもしも地球を見た場合、何て変な星、現象、光景なんだろうって思うかも。極めて特殊なのかも。

 でもどこか底では、宇宙のどことも共通な原理は働いているのだろうか。

 でもやっぱり地球、人間って、へんてこな存在なのかもしれない。

 宇宙の田舎、ローカル。

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