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我って、誰? 何?

 ----“実存”という一概念は、人間の存在の形式として、根源的あるいは究極的なものだと本当に思うかね?
 ----それはきわめて西欧的なーーあえていえば、西欧の歴史風土的な、バイアスのかかった概念だと思わんかね?

 ----それは、古代オリエントの”荒野の叫び”が、西欧近代で増幅されたものじゃないかな……。
 ----たしかに、ある手つづきにのっとって理づめにつめて行けば、その定義に到達するが、その手つづきそのものが、実は大変西欧的なパラダイムに滲透されているものじゃないかな……。”理づめにつめる”というその”理”そのものがな……

 ----西欧的な意味での、人間の”個”や”自我”というものは、本来ない、いかにもたしかにあるように見えるのは人間の迷妄だ、という考え方がある……。”我思う”といっても、その”我”は、実は個をこえた悠久の歴史の流れと、存在自体のある部分が一瞬考えているものかも知れない。だから”我あり”の恒久的な根拠にはなり得ない、という考え方が……


 上記は小松左京「虚無回廊」の一節で、宇宙倫理委員会のメンバー、ラマ教黄帽派のもと高僧、タロ・ダキニ師の言葉だが、この考えは、この作品の重要なテーマの一つだ。これだけではないが少なくとも本質部分だ。

 で、いつもこの問題を想い出す。「実存」という概念は今や西欧でも主流ではなくなってしまった、あるいは端的に死んじゃったかもしれない。でもこの概念は言葉を変えてもまだ根強く生き残っている、いやまだ支配しているのではないか。

 

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