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「生きる喜び」という特権

 昨夜寝ながら本を読んでいたら、あるページに衝撃を受け、本を顔に落としてしまった。ジュリアン・グラック「街道手帖」(永井敦子訳、風濤社)だ。この本は多くの短い断章からなっている。ある断章でグラックは「ごまかさず言おう」と宣言して、大変なことを言って(書いて)いる。

 「生きる喜び」は両大戦間、1936年ごろまで、無教養な社会の底辺に生きる人々に支えられた、ゆとりを持ち文化を謳歌する少数派に特権的に属していた、という。1789年(フランス革命)以降も本当は変わっていなかったというのだ。

 

 グラック自身もそうであったリセの生徒や大学生、ロラン・バルトいわく「王子様」の身分は

 

 ----排除された者たちの脅迫的な要求のうごめきとの対比で際立っていたと言うよりも、むしろ社会の本性の非常に古くから存在する断片との対比で際立っていたのであって、その断片の犠牲によって生きることは心地よいことで、その欠陥を検討しようなどということは、考えられてもいなかった。----

 

 ----締め出された者たちの集団がまだ脅威や裁きとしてではなく、ただ風景と認識されていた時代の終わりかけに、少数の幸福な人々に属することにすでに味をしめ、しかしまだそれに無自覚なままでいたということである。----

 

 言いにくいことを「ごまかさず」よく言ったものだと思う。さて後半には、現代はどうするのかと問題提起している。すなわちブルジョワとかエリートとかの楽園が閉ざされ、文化と生活様式が大衆化した現代。

 

 ----いずこも変わらぬセットを作る「皆と同じ」ものから、いったい何を自分固有の財産として、また自分の失われた楽園と考えて選び取れるのか。選び取られる思い出というのは、多かれ少なかれ排他的な共同体からしか生まれないものである。----

 

 いい悪いは別にして、いわゆる階層というものがあった時代に、少数の特権階級が文化を享受していたということだ。今、平均化してしまった時代に「生きる喜び」をみんなが見いだすことはできるのか、ということだ。

 

 思い出したのは太宰治だ。昔の特権階級に生まれながら悩み、書き、死んでいった。逆説的に言えば「生きる喜び」(=死ぬ喜び)を享受した。そんな高尚な悩みなんか関係ない人々はいっぱいいた。だが今は?

 

 グラックにあえて反論すれば、それでも現代でも若い人たちが自分をつくるものはある。スポーツや音楽、ゲームにアニメ、漫画etc----。ただ文学は? ということでしょう。新たな「排他的な共同体」もあるしね。

 

 でもグラックのいうことはわかる。苛立ちみたいなものも。

 

 街に出かけたり、大型ショッピングセンターを歩いて思う。昔は一部の階層の人たちがやっていたことを、今はみんなやる。高い安いでなく服装に気を配り、おいしい食事を目指す。レンタルで映画を見て、携帯で音楽を聞き、写真を撮りまくっている。ボジョレー・ヌーボーだ、和牛だ、寿司だ。でも、何のため? それが生きる喜び? 

 

 ここで文学の衰退が思い浮かぶ。別に文学賞とか文芸誌の話じゃないのだ。人文学を含めた広義の文学。それが生きる喜びに関係していると思うのだが。雑踏を歩いて「市民」とすれ違う時感じる、理由のわからない寂しさ、悲しさ。それは東京だけでなく全国津々浦々に蔓延してしまった。

 

 グラックが勇気をもって指摘したことは、枠組みとしてかなり有効だ。これでとらえてみれば、けっこう今の欺瞞や偽善の構図がわかってくる。エキサイティングでさえある。


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  • 2017.06.04 Sunday
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