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カナタイプの文学

 昔、ある雑誌に大岡信氏が「ある『変な考え』について」という文章を書いていた。シュールレアリスムの詩人、瀧口修造氏は晩年、ジャーナリズムに距離を置き、知人たちに私的なメッセージ、自家製のオリーブの瓶詰などを送っていた。それは「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させる」という、瀧口氏いうところの「変な考え」によるものだった。大岡氏はこう書いている。

 

 ----たしかにこれは「変な考え」である。しかし、ではその対極をなす「流通価値のあるもの」の世界が変なものではないかといえば、これも恐らく、性質は全く別だが、変なものである点では変りがない。数年前には不動盤石のごとく思われていたものが、ある日気がついてみれば、実に頼りなく、やつれ果てた価値下落のさまを見せて落日を浴びているという例は、実業の世界はもちろん、虚業の世界でもーーたとえば文学の世界をこれに含むことができるとすれば、文学界においてもーー決して少なくない。----

 

 例として大岡氏は「カナタイプ」のことを挙げる。その昔、先進的といわれる企業が社内文書、ダイレクトメールなどをカナタイプでつくった。漢字は非能率的、非効率的という理由からだった。この文章を大岡氏が書いた時点ではワードプロセッサーが急激に普及していた。

 

 ----ここまで機械化が進んでくると、カナタイプ時代は一つの過渡期にすぎず、現在の状態もまた新たな次の段階への過渡期にすぎないことがはっきり感じられる。漢字よりカナの方が能率社会に適合しているという考え方そのものが、今では色褪せたものになってしまった。つまり、流通価値を失ってしまった。----

 

 大岡氏はそのかわり「子供たちは漢字の読みはできても書きはできなくなっていくだろう、書きの代わりに、打ちに長じた作家たちが相次いで誕生する日もそんなに遠いことではあるまい」という。「その結果、ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」とも。文章の最後は次のように締めくくられている。

 

 ----瀧口修造がみずから「変な考え」と自覚していた、「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え」も、そういう状況が到来した時、まったく別の文脈において、「変な考え」としての深い意味を持ってくるような気がする。少なくとも次のことは確かだろう。

 今日の流通価値が明日の流通価値でもあることを保証するものは、今日の流通価値の中にはない。また明日の流通価値を生み出す者たちは、明日必ず出現するが、彼らが今日どこにいるのかを言うことは、至難の業である。----

 

 鋭い洞察であり、なるほどと共感する。カナタイプも企業だけでなく銀行、団体その他かなり普及しただろうが、安易な「効率」「能率」は歴史の一瞬に消し飛んでしまった。ワードプロセッサーという言葉すら今は死語だ。

 

 ただし大岡氏の予測で「ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」の部分は、どうかな?と思う。楽観的、希望的観測じゃないだろうか。大岡氏のいうような状況である「べき」だし、そうなるはずだが、現状はどうか。今の文学の劣化、パワーのなさは。カナタイプと同じ運命をたどらないと誰がいえるだろう。


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  • 2017.07.02 Sunday
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