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村八分の対象探しの日本

 ある本の書評の中に、次のような言葉をみつけた。

 

 ----1970年代の歌謡曲「木綿のハンカチーフ」を聴くと著者の知人は泣くという。この曲は日本が農村から資本主義社会へ変わる時期を体現し、当時青年だった者には伝統社会を置き去りにしたことに「うしろめたさ」があったと書く。この逡巡が、彼らの世代のパッションの源流なのかもしれない。----

 

 もうちょっと前の箇所には「旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、長幼秩序といったもの」という言葉もあった。

 

 そうした日本の古い体質、イエやムラ社会を、果たして置き去りにしてきたのだろうか。表面的にはそうかもしれない。しかし一皮むくと、そんな深い所でもなく、すぐにそうしたものが見える、根強く残っていると思うのは小生だけだろうか。時代の先端を切り開くといわれた(今は誰もそう思っていない)マスコミも、結局は、「村八分」の対象を探すのに躍起となっているだけだ。

 

 パラリンピックのメダリストのインタビューを聞いて、思った。シンプルで率直で真摯なのだ。なぜか。健常者のオリンピックのメダリストたちが二言目、いや一言目にいうのは「支えてくれた人たちへの感謝」である。これがわずらわしい。それは言わなくても、当たり前のことじゃないか。

 

 パラリンピックの人たちは、そんなに言わない。自分のことが主だ。だからといって「支えてくれた人たちへの感謝」がないわけじゃない。むしろ大きすぎるのだ。個人としての主体性が強いのだと思う。それは苦しさを知ってるからだ。欧米のインタビューで「支えてくれた人たちへの感謝」「応援よろしくお願いします」といった言葉は出ないという。そりゃそうだ、やったのはその人だもの。ま、日本ではマスコミが強要してるんだね。

 

 テレビでは相変わらずグルメ番組が多い。最近のパターンは料理を口に入れた瞬間、顔をちょっとしかめるように、絶句して、それから何か言葉を発する。いい加減にしろ! といいたい。口に入れた瞬間、味がわかるようなものは料理ではない。ま、そんなのはわかってるでしょ、ご愛嬌ご愛嬌、といったところなのだろう。

 

 おいしい料理、食べ物に絶対的な基準はない。ないのに、あるフリをする。それほどまでに絶対的な基準が欲しいのだろうか。あるシチュエーションである人が供してくれた料理、といえないものでも、一杯のお茶漬けでも、食べる人には死ぬほどおいしいことがあるだろう。絶対的な基準がどうしても欲しい、というのは、新聞なんかがよく使う表現だが、軍靴の音がひたひた聞こえてくる、まさにそれではないか。新聞なんかとは180度違う方向から、それを憂う。というか嫌いだ。

 

 っていうか日本は昔から全然変わってないんだなあと思う。マイナスの意味で感心する。


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  • 2018.05.24 Thursday
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