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巨匠による世界の像

 文学は今の世の中ですでに死滅したものととらえているが、本は残っている。もう一度、本物の文学を読もうと思った。しかも大作を。大作を読む行為を大読という(いわないか)。本を読む行為に一定の期間エネルギーを費やすことは、その本の中の時間、世界に生きることだ。そこら辺の文学もどき(文学の死骸)に何の義理があろう。読みたい本物を読んでいいのだと思った。

 

 で、ロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」である。とりあえずその「機廚痢屮爛奪轡紂次舛△襪い楼任侶主」に着手。ダレルの文体は形容詞や比喩を何のためらいもなく堂々と使う。文体、文章に関して、どんな拘束もいやだとばかり。恐らくダレルがどこかの「文章教室」に行くと、めっちゃ叱られると思う。形容詞を使わないでそのことを表現しなさい、と。そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、とばかりダレル節が全開。

 

 小説の中によく、ある人物の言葉、エピグラムというか箴言というか、が出てくる。それがまた実に深い。「アレキサンドリア四重奏」でもそうだが、ダレル文学の重要な核だ。例えば

 

 ----「現代の作家にとっては、現実なんてもう古臭くて使えたもんじゃない。俺たちは芸術の力で現実を蘇らせて、現代的にしなくちゃだめなんだ」

 

 「君たちが学んだことを考えてはならない。なるだけ早く、学んだことに生成したまえーーー身をもって生成したものは忘れるからね」

 

 「本当に死ぬものとは、過去の集合的な像なんだ。連続して存在してきた一時的な自己のすべてが、ある瞬間に集合するんだよーーーそれは完璧な集中の一瞬、明晰そのものの理解で、望むなら永続するものなんだ」

 

 「死にもそれ自体の明確な特性というものがある。大哲学者たちは常に、死の特性が証立てる世界の像に生あるうちに入り込み、心臓がまだ脈打つうちにそれと一体になろうとしてきた。彼らは死の特性を我が物としたのだ」----

 

 大げさな、とか、古臭い、野暮、カッコつけとか何と言われてもいい。これらの言葉に加えて、地の文章がアラベスク的に広がり、展開していく。文章を、言葉を読むことの醍醐味を満喫させてくれる。これに比べれば現代日本作家たちの小説なんて屁みたいなものだ。文章を書くこと、そしていい文章を読むことは生きていることと同義語だ。いい歳をした青二才といわれてもいい。いわゆる「文学」なんて大嫌い。いい文章とつまらない、ひどい文章があるのみ。ダレルの小説はヴィンテージもの。藤井光氏の訳文もすばらしいと思う。

 

 


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  • 2018.06.17 Sunday
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