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閃きを味方に

 地方紙に載る共同通信の書評欄から。みうらじゅんさんが横尾忠則さんの「ぼくは閃きを味方に生きてきた」を紹介していて、なんだか微笑ましくほのぼのと読んだ。最初は。

 

 ----横尾さんの描く絵、装丁、文章、さらにご本人の写真にロックスターのようなカッコ良さを思ったが最後、ずっと憧れ続けてきた。

 だって誰とも違い、誰もマネできない芸術家なんだもの。

 

 ----横尾さんは”閃き”を五感で得、導かれるように絵を描くとおっしゃる。僕は以前からそのことが気になっていたが、「受けたい」とか、「笑ってほしい」など煩悩が先立って、どうもうまくいかない。これでも横尾さんのライフスタイルを完コピしたいなんて思っていた時期があって、いつも本を読んではバカな自分をいさめてきた。

 しかし本書には「芸術っていうのは、大衆にいろんな影響を与えないと意味がないと思う」との一節もあり、ますます横尾忠則という深い森で一人、考える。----

 

 みうらさんの思いに、もちろんウソはないと思う。だがここにはちょっと複雑なニュアンスも感じられる。ま、カッコいい先達にあこがれる人は、誰でもそんなものか。みうらさんがテレビなどでしゃべるそのままの口調の文章だが、なかなかの屈託。やはり一筋縄ではいかない人だ。

 

 「目利きが選んだ今年の3冊」という欄があって、哲学者の野家啓一氏はまず最初にこう書いている。

 

 ----2015年に文部科学省の勇み足で「社会的要請」が低いと決めつけられた人文科学だが、そのせいか逆に、リベラルアーツへの世間の関心は高まったかに見える。人文科学とは何よりも言葉への飽くなき興味であり、それを通じての人間性の探究である。----

 

 野家さんは哲学者大森荘蔵氏とよく対談というか、大森氏への鋭い聞き手をやっていた。上記は全くその通りだと思う。「社会的要請」って、先ごろ問題になった「生産性」みたいだ。リベラルアーツ、人文科学は大事だ。ただ、野家さんが書いてるように「リベラルアーツへの関心は高まったかに見える」は、残念ながら、そうかなあと思う。全然高まっていない、むしろますます低下していると言ったら言い過ぎか。

 野家さんは今年の3冊の,忙葦魂躬涼「孤独の発明」を挙げた。

 

 ----,話者の本業である文芸評論という枠をはみ出た、遠大な射程をもつ論考である。言語の起源を「俯瞰する眼」すなわち視覚の働きに求め、そこから「私という現象」の核心(それが「孤独」である)に迫る。まさに人文知の領野を縦横無尽に踏破して成った大冊だが、全編を貫くのは、先年没した詩人大岡信に対する追慕の念である。----

 

 これはやはり原著を買って読まないことには、よし買おうと決心。ごく短いスペースの書評としては最大限の効果を発揮されました。思い出すのは三浦氏が編集者及び編集長をやっていた頃の「ユリイカ」「現代思想」の、毎号の興奮。吉田健一氏の後半生、というか晩年の爆発的作品量産も、三浦氏がきっかけだったものね。

 

 大学もますます「社会的要請」に応えた下世話な技術、知識の細分化に向かっているような感じだが、もっとリベラルアーツやったら? そうでない状況が、今の社会の質劣化につながっているような気がする。東大卒のエリート官僚なんてなんもホントの勉強してない。うらなり瓢箪、気持ち悪い。

 


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  • 2019.01.18 Friday
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