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虚構ニモ負ケズ

 お気に入りに入れて、たまに見るブログはいくつかある。あ、なるほどと思ったり共感したり楽しみにしているものもある。先日見たヤツで、気になりその後ずーっと尾を引いているのがある。要旨を紹介すると、自殺率の高さに関連して、そうした人たちはフィクションをもっとうまく活用すれば? というものだ。フィクションは私たちを別世界に連れて行ってくれる、その効用をもっと意識すべき、というのだ。
 以前なら賛成していただろう。「事実」や「現実」「リアル」ってもうたくさんだ、虚構にこそ真実がある。と思っていた。だから新聞やニュースショーやワイドショーが嫌いで、虚構、フィクション、作りごとが好き。芸術こそ価値あるものだと信じていた。しかし今は違う。
 世の中フィクションだらけなのである。「事実」の側だと思われるテレビのニュースショーどころか定時のニュース、BSニュースですら実は虚構なのである。新聞だってそうだ。捏造問題はもっとどんどん糾弾してくれと願うが、でも報道だってフィクションなのだ。「事実だ!」と錦の御旗にするから、その「嘘」性を暴きたくなるが、所詮フィクションと思えば、糾弾も大人気ないことなのかもしれない。
 要はこうだ。フィクションを活用できないから自殺するのではなく、身の回りフィクションばっかりだからでないのか。自分が自殺することもフィクションと思っているのではないか。前にも書いたことがあった「どこに新しいものがございましょう」の伝でいえば「どこに本物がございましょう」なのだ。
 反論されるとすればこうしたことか。つまり、マスコミなんかが事実や現実でない、現実に差し迫った借金や病気や苦しみという現実がある、だからフィクションに行くことが必要なのだ、と。
 これに対する再反論はこうだ。再反論というより仮説だ。虚構と現実が一定のサイクルで入れ替わっているのではないか。あるいはある時、だれかが宇宙をクリックすると切り替わるのではないか。その瞬間、すべての現実は虚構になり、すべての虚構は現実になる。そのサイクルに流されることなく泳ぎ渡るにはどうすればいいのか。あるいは泳ぎ渡ることに意味があるのか。ここで引用。

 種村季弘氏の著書「書物漫遊記」の中に「見世物今昔考」という章があって、その中に江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」が出て来る。主人公が富豪になりすましてユートピア、地上の楽園を作る。そこは見世物小屋やサーカスみたいな怪物、美女、道化などを集めて
年がら年中カーニバルをやっているような理想郷である。乱歩の孫引きだが--「・・・みじめだった曲馬団の踊子、映画女優、女歌舞伎たちは、この島では日本一の名優のように厚遇され、若い文士、画家、彫刻家、建築師たちは、小さな会社の重役ほどの手当を受けているのです」。
 次は種村氏の文--「夢と現実の境目がどこにもない。いや、現実がそっくり夢になってしまっているのだ。だからパノラマ島の住人たちは言葉の本来の意味では生きていない。生きていながら死んでいるのも同然である。この永遠に続く白日夢の世界に終りがくるとすれば、それは登場人物がつけていた仮面が落ちてその下から素顔が、つまり贋物の生を装った真物の死が露わになる瞬間がそれであろう」。
 「見世物には中身がない。だから見世物に本当とか中身を期待して、小屋に入ってからがっかりしたり、ダマされたと思ったりするのは野暮の骨頂というものなのだ」。
 「テレビでタレント候補の政見演説を見ていると嘔気がしてくる。芸人でいながら芸がない。--大衆が今日政治に期待しているのは真実ではない。娯楽である。真実がどうしても欲しければ白樺派の小説を読む」。
 「見世物師や大道芸人はどこへ行ってしまったのだろう。--いやいや、ご安心めされ。いまでもちゃんと、それその箱のなかにうようようごめいている」。
 それがテレビだという。「世の中変わったのだ。街々を放浪していたあの愛すべき堕天使たちは、電波産業に身ぐるみ買い上げられて、終身管理されてしまったのである。つまり彼らはパノラマ島に飼い殺しにされてしまったのだ」とし、種村氏は先の乱歩の文をもう一度、引用する。もう一度。(ちあきなおみみたい)。
 「みじめだった曲馬団の踊子、映画女優、女歌舞伎たちは、この島では日本一の名優のように厚遇され、若い文士、画家、彫刻家、建築師たちは、小さな会社の重役ほどの手当を受けているのです」。そして次のように指摘する。
 「これは幻想でも綺譚でもなくて、今日のありのままの現実ではないか。乱歩の論理的帰結にしたがえば、この贋の生の装いは結末に至って確実に死に到達するのでなければならない。だから歌謡白痴番組を見よう、武者小路実篤原作みたいなテレビドラマは胃腸によくない。白痴番組はいい。その背後には何もなくて、ただ虚無と死だけがこれでもかこれでもかとばかり爆発寸前までぎっしりと詰め込まれているのが、手に取るように確実に感じられるからだ」。
 この後は私のブログの私の書くことだが、結論を自分でどうするか迷いながらというより白か黒か、どっちに行くかわからないというのは面白いようで恐ろしいことだ。種村氏のこの本が出たのは1979年、雑誌に連載されたのはその2年前である。うーム、うーム。
 ちょっと前までは、種村氏の見解に快哉を叫んでいた。冒頭のお気に入りブログ氏の見解も同様だ。しかし、今はちょっと待ってといいたい。「みじめだった・・・」の乱歩のくだりは全く今のテレビがつくる世界というより今の現実の社会で、種村氏が取り上げた諧謔性は今でもくさらない。だが、こうした人種が高額所得隠しをしたり勲章や人間国宝もらったり園遊会に招待される時代なのだ。乱歩の幻想した奇談はホントーになり、ますますエスカレートしている。世の中ひっくり返ってしまった感さえある。
 背後は虚無と死で、いずれは爆死すると種村氏はいうが、そうではないのではないか、いつまで待っても。つまり種村氏がこれを書いた時とは、今また時代がひっくり返って、踊子や芸人は虚無と死ではなく、現実になってしまったのではないか。ということは虚無と死が、現実になってしまったのではないか。
 冒頭のブログ氏は、バカ正直ではだめ、嘘にも慣れなさい、そうでなければ生きていけない、と言っていることなのか。鈍感力の必要性なのか。虚構は虚構としてわかってうまく活用しなさい、ということなのか。それが大人っていうことなのか。
 私の今の時点での結論を言います。嘘でもいいとか虚構でもフィクションでもいいというのは、やっぱりそうしたものに毒されている。脅されて無意識に譲歩していると思う。本物はある。フィクションの海の中を泳ぎ、というより漂っているような今の時代でもどこかに本物はあるのだと言いたい。虚構なんてどこにもない。と思えば日々の自分の暮らしや仕事は少なくとも(チョッピリでもいいではないか)リアルになってくる。
 「事実だ!」と声を張り上げるものに負けず、「虚構こそ真実だよ」という声にもだまされず、自分で納得のいく本物だけを相手に暮らす、私はそんな人間になりたい(どこかの詩人か白樺派みたいな口調になったのは気になるが)。しかし、時代ってのはやっぱり変わるものなのか。種村氏に心酔していた私も、ちょっぴり大人になったのか(キモチワルーイ!)。種村氏のは、要するにアイロニーで、逆に言えばすごい先見の明があったということなのだろう。
 しかしそれって怖い。爆発はしないかもしれない。でも静かに小さく爆発しているかもしれない。いつか「アンビリーバブル」で見た、アメリカの、ずうーっと地下で燃え続ける石炭層。あのイメージ。でも人間は宇宙一、可塑性・可逆性に富んだ生物存在なので、何とかなるのだろう。人間が一番の怪獣、ミュータントなのかもしれない。焼酎は芋でも宮崎だ。

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  • 2017.06.04 Sunday
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鈍感力という言葉の魅力鈍感力を実践している小泉総理敏感よりも鈍感であれ!
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