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  • 2017.02.06 Monday
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ちあきなおみはすごい!

 昨夜偶然つけたBSジャパンで、ちあきなおみさんの特集をやっていた。特に後半の「ねえ、あんた」7分間ノーカットバージョンを見聞きできたのはラッキーだった(録画保存しました)。

 

 すごいね、この歌唱力、演技力。歌の一人称の女性に入ってしまっている。そして最後の方で、これも名曲「紅い花」。これまでCDからの音源で聴いていたけど、一度歌っているところの映像を見たかった。どんな表情、口の開け方で歌ってるのか。念願果たせました。BSジャパンに感謝します。

 

 あらためて、ちあきなおみさんは日本いや世界でも一、二を争う歌手だと思う。テレビに出ていた最後の頃の番組で、ちあきさんがポルトガルに渡り、ファドに挑戦するというのをやっていたのを想い出した。本場以上でした。

 

 歌謡曲、演歌、流行歌、大衆音楽、いろんな言い方はあるだろうけど、これが芸術でなくて何? と思う。本物の歌はサビにいく前、冒頭でも涙が出そうになる(出ました)。それって何だろう。声の響きだけで震えそうになる。

 

 ちあきさんが歌った三橋美智也の「リンゴ村から」もよかった。女性でちあきなおみ、男性で三橋美智也が日本の歌手の双璧だと思う。やたらビブラート使うそこら辺の歌手とは段違いだ。声、歌という人間楽器。ヴァイオリンの名器よりすばらしい。


現実未満の夢

 最近の若い、あるいは比較的若い世代の作家による小説、漫画、アニメ、映画などの作品で、時間や時空を超えた、あるいは生まれ変わりなどを題材、シチュエーションにしたものが多い気がする。

 

 すべてではないが、一部作品に接してみて思った。どうも迫力がない。というか腰が引けている。現実と戦ったり、超えたりするのでなく、単なる現実逃避じゃないの?って具合。男の方が恋愛や結婚で泣いたり、女性にアタックできない昨今の状況とパラレルのような感じだ。

 

 今の50〜60代の作家あたりまでは、この種の作品に取り組むエネルギーが違った。現実から逃げているのでなく、まさしく「現実」と戦い、超える必死の試み、格闘があった。この場合の現実とは生活とか社会とかじゃなく。世界、現世、宇宙だ。

 

 「哲学的」とか「SF的」とかの書評の言葉にひかれて、ある本を読んだけれど、主人公やストーリー全体がただの意気地なしだった。最大限の到達点が世の中の現実という未成熟な物語。だまされた。金返せ。

 

 ブルーハーツの歌のように、シュールな夢を見たい。


ゲゲゲの至福状態

雪の朝

 

 新聞に「水木しげる こころの旅」という連載があって、今まであまり気に留めなかったのだが、最終回のを読んだ。サブタイトルが「人生に満足するために」で、見出しは「いまは『至福の状態』」。

 

 この記事はノンフィクション作家の大泉実成氏が書いているのだが、冒頭で祖霊信仰と水木さんについて紹介している。水木さんが育った境港の沖にある「隠岐の島」の「武良祭り」。水木さんの本名も武良で、この祭りを自分の祖先の祭りと考えていたようだという。水木さんの言葉。「祭りでは、祖先と話しているような気分になる。祖先が、幸せになる感じです」。

 

 で、大泉氏はこう書いている。

 

 ----水木は、80代から「神のステージに入った」と言っていました。それを聞いた僕は、初めは水木が思い上がっているのかと考えました。

 しかしじっくり考え直してみると、水木が自分もまた、生きながら祖霊化しているように感じているのではないかと気付いたのです。だからこそ「祖先と話して」みて、祖先の「幸せ」をともに感じることができるのです。----

 

 続いて水木さんの言葉を紹介している。

 

 ----大げさにいうと、いまは「至福の状態」にある。至福といっても、若者みたいにゲラゲラ笑うというわけではない。じっとして「満足感」にひたっているわけだ。……あとは「死の世界」にまねかれるわけだが、日々、恐怖感が去り、平気で待てるようになる----

 

 また遺作となった漫画「わたしの日々」にある言葉。

 

 ----人生になんらかの絶対的な価値を求めるのは、心が弱いからです。

 ----瞬時に消えゆく屁のようなものに価値を見いだし、満足するべきなんです。

 

 上記の言葉に続けて、最後に大泉氏はこう書いている。

 

 ----この考え方はソシュール以降の現代哲学の主流となった「関係主義」と深く関わっています。

水木の死後、次女の悦子さんは、父は「死んでもいつもそばにいる」ように感じると言っていたそうです。

水木の人柄や作品に触れたすべての人たちを、水木は祖霊としてあたたかく見守ってくれている、僕にはそのように思われてならないのです。----

 

 ある意味、悟りのような境地。わかる気がする。わかるとは言えないのだけれど。まだまだ修行が足りなくて、煩悩ばかり。でもおおらかで前向きで健全に歳を取っていった水木さんならそうなのだろうと信じることはできる。「人生に絶対的な価値を求めるのは心が弱いから」という言葉にはけっこう衝撃を受けた。太宰治や山頭火とはえらい違いだ。

 

 水木しげるさんは近年、NHKの「ゲゲゲの女房」で再クローズアップされたけど、あのドラマはあまり好きじゃなかった。ヒロインはともかく、他の主要キャスティングがだめだ。あれじゃ水木さんがかわいそうだ。

 

 なので水木さんにもあまり関心を払わなかったが、この新聞の記事を読んであらためてすごいなと思った次第です。

 

 


スリランカの3人の王子

神木

 

 ある資料を探していて、たまたま古いソフトに目が留まった。そのドキュメントに「セレンディピティ」という言葉があり、しばし本来の作業の手を止めて、読んだ。

 

 「セレンディピティ」という言葉は、「オトラント城奇譚」で知られる英国のホレス・ウォルポールの造語で「偶然に、幸運な思わぬ発見をすること。または思わぬ発見をする才能」とあった。まさにセレンディピティでセレンディピティを発見したわけだ。
 

 スリランカ、ちょっと前はセイロンの国の旧称というかアラビア語が「セレンディップ」。その3人の王子が探し物発見の名人で四六時中探し物をしている。だが目当てのものではなく別の珍しい、貴重なものを見つけてしまう、という話がある。ウォルポールはそこから取った。

 

 ソフト解説書というか宣伝文では過去の例を挙げている。考古学上の世紀の大発見でエジプト古代文明解明の鍵となった「ロゼッタ・ストーン」、アブラハム・リンカーンが貧しい少年時代、見知らぬ哀れな男にほだされて古い樽を1ドルで買った、開けてみたら「法律釈義」一式が入っていて、読みふけりやがて法律家をめざし、あげくは米国大統領にまで昇り詰めた……など。

 

 また身近な例も挙げている。例えば、初対面の人と会話を交わすうち共通の知人が何人も出てきて驚く。事典などをめくっていると突然目に飛び込んでくる言葉や写真にひかれ、本来の目的も忘れ見入ったりする。予備知識もなく期待もなく見た映画が思い出に残る作品になる、など。

 

 で、そうしたことを信じない人たちについて述べた言葉が、興味深かった。否定的発言や、批判や、皮肉や、辛口の発言が知的に見えると錯覚している人が多い世の中を誰が望んでいただろう? というのだ。その通りだと思う。そういう人たちの代表がテレビのキャスターやコメンテーターでしょうね。

 

 最近テレビを見るっていうとBSばっかり。地上波で見るのはテレ東ぐらい。仕方なく他局の番組を見るときはCMの間、消音にしている。NHKも番宣が多すぎて。

 

 最近はキャスターやコメンテーターばかりでなく、ニュースの現場の記者すら意見や批判を言う。ま、自分の真の意見というのじゃないけど、局の方針に沿った言動だけど。「@@の狙いがあるものとみられます」「批判(反発)は必至です」とか。朝日じゃなくとも、一つの(偏った)見方考え方からとらえるのは、それが簡単だからだ。仕事をしていないのをごまかしている。誰もどこも報道しなかったような大事な事実を見つけて来い、と言いたい。それが仕事でしょう? タブレット見ながらありきたりなレポートをして、しかもかんだりとちったりして。

 

 おっと脱線してしまった。本来の作業が遅れてしまった。でも「セレンディピティ」という寄り道も楽しい。


思考の公務員ばっかり

八甲田晴天

 

 ドゥルーズ・ガタリの「千のプラトー」の完訳が初めて出たころ、鷲田清一氏が94年に新聞に書いた書評は、書評自体がエキサイティングだった。リゾーム(地下茎)などの新しい概念について

 

 ----それらは、基礎や中心や深層からの距離でもって階層的に、あるいは系譜的に語られる秩序のモデルのまさに反対物である。秩序がこのように樹木や根のイメージで語られるとき、この秩序に反するものは混乱や混沌として規定されるしかないが、著者たちは右のような概念群でもって、地下茎のイメージで語られるような、もう一つ別の秩序(というよりはむしろ非秩序)とその運動のかたちを取り出したのである。----

 

 ----思考の概念を管理・統制する「思考の公務員」になることよりも、時代の関節を組み換えることをめざすこの著作が孕んでいるさまざまの問題は「ポストモダン思想のマニュアル」などといったレッテルを貼ることで回避されてはならない。現在の思想の論争に哲学の研究者がほとんど加わらず、小説や詩の現在について国文学者がほとんど口を挟まず、アートの現在を美術史研究者がめったに批評しないという、知のアンバランスがひどくめだつこの国で求められているのは、思考の専門家を作りだすことで人びとに「考えることをやめさせる」本ではなくて、考えることを始めさせる本だからだ。----

 

 ----リゾーム的な思考とはずいぶん隔たった場所にいた「超越」の哲学者K・ヤスパースもまた、哲学についてこう述べていた。「哲学者たることは、すべての時代を通じて同じかたちであるのではない。そうではなくて、それぞれの時代に対して根源的に新たなるものでなければならない」、と。そしていま、ドゥルーズとガタリがそういう挑発をしている。----

 

 よくいったもんだ「思考の公務員」とは。ホント、あらゆるジャンルで「公務員」ばっかりな日本。それはさておき(置きたくないのだけれど)哲学者の、今の時代の「新たなるかたち」って何だろう、どんなだろう。

 

 今の若い人たちに、根源的なものを求めているような人が少ないように思われる。あるいは直感で避けてるような。自分たちの頃は空海にでもフーコーにでも体当たりしたけどね。玉砕したけど。


瞬間の連鎖現象

夕景

 

 横尾忠則氏が「瞬間を生きる哲学〜<今ここ>に佇む技法」(古東哲明著)について書いた書評にこんな一節がある。

 

 ----本書は「いまこの瞬間のなかにすべて<人生の意味、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも>」存在することを明らかにしようとする。この瞬間は過去にも未来にも存在しない。たった「今ここに」しか存在しない。これが生きることの重要性であることを著者は全編を通して熱く語る。本書では芸術創造は「つまるところこの瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」であり、そして「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験であると指摘する。近代の時間は垂直に流れるが創造的時間は過去、未来ともに現在に同化することで瞬間の連鎖現象が起き、「陶酔と至高」に至る。----

 

 「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験である。最近考えていることの一つの答というか示唆があるような気がした。過去はない。あるのは記憶だけ。未来はない。あるのは期待と不安だけ。今ここがすべてで、それを楽しめばいい。時間はない。でも、時間を超えて生きることと同時に時間体験である、というところに救われる気がした。

 

 また見つけたぞ! 何を? 今を


5万人と50人〜ボブ・ディランの受賞スピーチ

 休刊日だからというわけでないが、コンビニでスポーツ紙を買って読んだら、めっけものがあった。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞スピーチが載っていたのだ。要旨とあるが、全文に近いのではないか。その、それこそ要旨は

 

 ----幼い頃からノーベル文学賞をもらうような作家の作品を読んできた(キプリング、バーナード・ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、ヘミングウェーなど)。このリストに私の名前が連ねられることに言葉を失う。私の受賞の可能性は月面に立つのと同じくらいの確率だ。

 シェークスピアのことが頭に浮かんだ。彼は自分を劇作家と考えていた。文学作品を書いているという考えはなかっただろう。彼の文章は舞台のために書かれた。読まれるためではなく話されるためだった。創造的な構想が思考の中心にあったかもしれないが、もっと日常的なことも考え、対処しなくてはならなかった。ハムレットにふさわしい役者は、資金繰り、後援者が座る席、小道具の頭蓋骨をどこで手に入れよう、など。これは文学だろうかなんて考える暇はなかった。

 自分が歌を作り始め、認められるようになっても、夢は大したものではなかった。カフェやバーで歌う、大きなホールで歌う、少し大きくなってもレコードを発表し、ラジオで流れるぐらい。----

 

 こんな内容で、シェークスピアの例えは、なるほどと思う。文学をやってるとは意識してないという共通点だ。この後の言葉がとても印象的だ。

 

 ----これまで演奏家として5万人を前に演奏したこともあれば、50人のために演奏したこともあります。しかし50人に演奏する方がより難しい。5万人は「1つの人格」に見えますが、50人はそうではありません。1人1人が個別のアイデンティティー、いわば自分だけの世界を持っています。物事をより明瞭に理解することができるのです。----

 

 そしてノーベル賞委員会が少人数だということが自分にとって大切なこと、という。

 

 5万人と50人、この話はこのスピーチの、あるいはボブ・ディランの精神の鍵であり、今の世界への疑問、批判にもなり得る。

 

 ----しかしシェークスピアのように私も、創造的な努力とともにあらゆる日常的な物事に追われることばかりです。この歌にうってつけのミュージシャンは、このスタジオはレコーディングに適しているか、この歌のキーはこれで正しいか。400年もの間、何も変わらないことがあるわけです。

 これまで「自分の歌は『文学』なのだろうか」と自問したことは一度もありませんでした。そのような問い掛けを考えることに時間をかけ、最終的に素晴らしい答を出していただいたスウェーデン・アカデミーに感謝します。----

 

 スピーチとして、ノーベル賞委員会への答えとして、これ以上の内容はないだろう。よほど考えたと思う。誠実に答え、でも自分の考えははっきり言っている。シェークスピアから400年、何も変わらないという一方で、時代は変わったのだ。彼が変えたのだ。

 ボブ・ディランの歌はあまり聞かない。カバーのは、バーズやジョージ・ハリソンなどいっぱい聞いている。そんな好きでも嫌いでもない。でも上記のスピーチに接してあらためて、今回の受賞はふさわしいと思った。彼は若い時はいろいろ悩みもしただろうが、今は健全な常識と感覚を持った「文学者」だと思う。

 

 ちなみにノーベル賞選考委員のホーラス・エングダール氏はこうスピーチしたという。「古代ギリシャの詩人や古代ローマの思想家に並ぶ価値のある歌手だ。文學界で不満を言う人があれば、神々は文章を書かず、歌い、踊ってきたと伝えたい」。

 ちょっと待って。ボブ・ディランは神ではない。人間だ。歌詞というか詩を書き、曲を書き、人に歌で伝えてきた。歌手というより詩人だ。だから文学賞がふさわしいのだ。

 

 テレビのニュースか何かでもボブ・ディランのスピーチについて触れていたと思うが、ひとことかふたことに省略。全文かこのぐらいの要旨を読んでみなくては何もわからない。スポーツ紙がよく載せてくれたと思う。


「コールドケース」と脱亜入欧

 この時期、WOWOWでは「コールドケース」の日本版を放送しながら、元祖、本家の米国オリジナル版も一挙再放送している。昨夜は日本版をじっくり見た。ドラマの出来も、吉田羊さんら出演者の演技もよくて、いい作品になっていると思う。

 

 ところがドラマの最後の方で、エルビスコステロの「She」が流れてきた時、ガクンときた。違和感がありすぎるのだ。とたんにドラマが韓国か台湾かどっかアジアの国のイメージになった。

 

 「コールドケース」の日本版についてはいろいろ議論があるようだ。前にも書いたが、時代、歴史、社会背景が日米では異なり、同じようなストーリーでは無理があるのではないかと思っている人は多いようだ。

 

 「She」が流れてきた途端、オリジナルをつくった「米国」が、日本のアジア性を照射してしまった。普段、日本のロックバンドや洋物、洋風な娯楽を何の違和感もなく視聴していても、アジアのそれを見ると、妙な違和感に襲われる。

 

 欧米が認める、中には熱狂する現代日本の文化はある。けれどもロックやダンスやヒップホップなんかを、欧米人に見せたらどんな反応をするのか危惧してしまうことがある。日本がアジアに向けるのと同じ視線を浴びるのではないか、と。

 

 「She」が聞こえてきた時の違和感が、やがて何だか悲しい気持ちへとつながった。WOWOWが、日本版のスタッフ、役者が一生懸命やっているだけに、かえって空しさが漂う。

 

 もともと時代背景にぴったりの洋楽からこのドラマはつくられる。ジャズ、スタンダード、ロック、バラード……。歌詞は(もちろん)英語。元来がこのドラマ、洋物なのだ、「米国」そのものなのだ。

 

 昔、欧米のポップスを漣健児という人がうまく日本語に翻訳して、日本の歌手が歌っていた。あれはあれで成り立っていたと思う。坂本九の「グッドタイミング」とか、弘田三枝子の「ヴァケーション」とかね。

 

 一つ確実に言えるのは、誰かもどこかで言っていたようだが、同じ時期に米国オリジナル版と日本版をやるな、ってこと。離してやればまだいいのに。でも日本版で流れる洋楽はどうしようもないか。

 

 「She」はもともとシャルル・アズナブールの曲で、彼の歌ったのももちろんすばらしい。その名曲のイメージがこわれかけた。寒い。冷たい。私の「コールドケース」だ。


時の川に浸食されて〜グレッグ・レイク追悼

 グレッグ・レイク氏が亡くなったと聞いて、ある種の感慨を覚えた。キングクリムゾン初期のヴォーカルで、「墓碑銘」や「ポセイドンのめざめ」の歌声が印象的だ。

 

 後にエマーソン、レイク&パーマーで名を売ったが、「展覧会の絵」のギター弾き語りが秀逸だ。一節にこんな歌詞があった=「eroded by time river」。彼もまた時の流れに浸食されたわけだ。

 

 ELPの作品では「トリロジー」が優れていると思うし、好きだ。透明感がある。クラシックとロックの融合。まさにプログレの傑作の一つといっていい。「I've begun to see the reason why I am here」。あの頃ちょっと生意気な哲学プログレ青少年にはたまらなかった。

 

 歌は決してうまい方ではないと思うが、透明感は独自のもの。晩年はふとっちょのオジサンになってしまったが、最盛期の面影はあった。キース・エマーソンも亡くなったし、寂しい。一方でミック・ジャガーは8人目の子供だと?


モーツァルトの「僕が、僕が、」

冬の寺

 

 昔、朝日の文化欄を担当していた由里幸子さんという記者がいて、いつもいいものを書いていたし、いいものを取り上げていた。ファンだった。2008年のある日の文化欄では由里記者が吉田秀和氏にインタビューしていた。音楽評論家で当時94歳の吉田氏の著書「永遠の故郷 夜」についてきいたものだ。妻バルバラさんの死の悲しみで、音楽を聞くことも評論執筆もできなかった吉田氏がそれを越えて書いた。吉田氏の印象的な言葉を拾う。

 

 ----人間なんてヘンなものを、人間が作れるはずがない。音楽も、文学や建築と同じに人間が力の限りを尽くして作るが、究極的にはどうしてそうなるかわからない。それがわからないからこそ、僕たちはこんなに音楽を聴くんだもの----

 

 ----現実とは別のもうひとつの人生、世界があることを中原中也に教わった。でも中原は、そこから放逐された失楽園の詩人。あこがれに手を伸ばしているのが文学だとしたら、音楽は美の世界そのものだもの----

 

 2003年にバルバラさんが亡くなった後、しばらくは音楽を聴く元気もなかったという。

 

 ----最初に聴けたのは、バッハ。モーツァルトでさえ、僕が、僕が、という声が聞こえ、わずらわしかった----

 

 わかるような気がする、モーツァルトの「僕が、僕が、」って。で、バッハってのも。

 

 吉田氏はあこがれに手を伸ばした文学から、美そのものに限りなく近づいた人だったのではないか。

 

 それとインタビューをまとめた由里記者の文章、言葉遣い、句読点の正しさにうなった。こんな記者がいなくなった。由里氏のもっと以前には黛哲郎という人もいたが。政治欄でなく、文化欄(の劣化)で朝日をやめた。


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