21世紀の南北戦争〜米国の分断〜

 

 昨夜たまたまNHKBS1の夜11時からの番組を見てたら、気がついたことがあった。今の米国の状況は「南北戦争」なのだ。21世紀の南北戦争は南軍が勝ち、19世紀の南北戦争の勝者北軍に雪辱を遂げた。とりあえず大統領選では。だがこれからどうなるか。

 

 番組は「ようこそ! トランプワールドへ」。フランスの局が昨年取材、放送した。

 ----トランプを支持したサイレント・マジョリティー(声なき多数派)とはどんな人々なのか。グローバル経済によって産業と雇用を失い、トランプに希望を託す人々の姿を描く。

 トランプの当選を決定づけたのは、アメリカ中部から南部に広がる「ラストベルト=さびついた工場地帯」の人々からの支持。かつては重工業や製造業で栄えたが、工場の海外移転などによって多くの労働者が仕事を失い、苦しい生活を強いられている白人労働者とその家族たちだ。ラストベルトを訪ね歩き、ワシントン政治や大手メディアに無視され、アウトサイダーのトランプに賭けざるを得ない人々の心情を浮き彫りにする。----

 

 女性ディレクターがさまざまな人にインタビューし、トランプ支持の理由を探る。労働者、保守的キリスト教徒、移民など各層の本音を聞いていた。

 

 思った。今回の大統領選は、昔敗れ、今も敗者の南軍の怨念が噴出したのだ。しかしまぜ今? という疑問は残る。これまでとの違いは?

 

 恐らくこれまでは、怨念のガス抜きがどこかで少しでも行われていた。それがなくなったのではないか。それには政治行政的、論理的言語ではなく、情念の世界が関わっている。

 

 ここで思い出すのは、メリル・ストリープ氏のスピーチだ。ハリウッドから外国人や異人種の人がいなくなったら、アメリカの娯楽はアメリカンフットボールと格闘技(プロレスのことか)しかなくなる、というあのスピーチ。反トランプというくくりで聞けば別にどうということはないのだが、どこか引っ掛かった。違和感が残った。なぜなのか。

 

 まずフットボール、プロレスを見下ろしているかのようなニュアンス。映画が、ハリウッドがそんなに偉いんかいってこと。この辺はトランプ支持者からすれば、トランプ自身が言ってるように「過大評価の女優が」ということになり、「そんなに美人でもなく演技が特にうまいわけでもないのにセレブ気取りで」ということになる。

 

 ブランド着て、高価なアクセサリーつけてアカデミー賞の会場に集まる「セレブ」たち。トランプ支持者からすれば「敵」ということになるだろう。そこはうなずけるのだ。

 

 仮にトランプ支持者たちのような階層の心理、ドラマを描いた優秀な作品の映画があって、あるいは小説の映画化があって、それをリアルに演じ、表現するのが映画であり俳優なのではないか。

 

 過去、アメリカでは文学や音楽、映画でそれはあった。フォークナーとか。だが今はなくなった。あるのはオバマ、クリントンに代表されるきれいごとの世界、メディアというセレブなどだ。

 

 この番組を見て、その辺がわかった。ただ番組に出てくるキリスト教徒で中絶反対運動なんかやってる10代の少女なんか見てると、やっぱりちょっとおかしい。他の労働者、ミュージシャンなんかを見ても。白人貧困層なんて言葉を使うメディアもメディアだが、彼らが表だっては言えないだろう表現をあえて使うと、知的レベルが低いのだ。(えらそうだが)

 

 そして思ったのは、こんな番組をつくれるフランスの底力だ。これこそドキュメンタリーというものだ。日本のテレビ局じゃ到底つくれない。

 

 かつてアメリカの闇という言葉があった。マフィアの話ではなく、南北戦争以来くすぶり、鬱屈した情念、怨念の世界だ。血も凍るような虚無。カーペンターズやカレン・カーペンターの拒食症、母との確執。あの歌声。それがよみがえった。南北戦争はアメリカの病理、闇、恥部で、触れられたくないだろうが、それが今表れたのだ。

 


本家は銀髪、噛みつき魔

フレッド・ブラッシー

 

 

 昨日テレビを見ていたら、みうらじゅんさんがトランプ米国大統領を「ブラッシーが出てきたみたい」と言って、ああなるほど! と思った。当欄では先日、トランプ大統領を「真夜中のカウボーイ」みたいって言ったのだが。繰り返すが映画の邦題「真夜中のカーボーイ」はどうしてもおかしいって。クルマの整備というか改造、アクセサリーの店みたいでしょ、それって。

 

 さてブラッシー。銀髪鬼、噛みつき魔といわれ196070年代中心に活躍した米国のプロレスラー、フレッド・ブラッシーである。なにしろ噛みつく。日本での試合でグレート東郷にさんざん噛みつき、あまりの流血にテレビを見ていたお年寄りがショック死するという事態にまでなった。

 

 力道山、ジャイアント馬場らとも名勝負を繰り広げた。吉村道明という跳び蹴りが得意なレスラーも噛みつかれていた。最初、ブラッシーの子分みたいに振舞っていた四の字固めのデストロイヤーがその後反旗を翻し、ブラッシーを破ったが、リターンマッチで思い切りかじられ、白い覆面マスクを赤く染めて敗れた。

 

 でも素顔はとても紳士で、服装にも気を遣いカッコよかった。確か夫人は日本人で、大変な日本びいきだったという。2003年に亡くなったが、生きていて今の大統領を見たら、みうらじゅんさんに異議を唱えるだろう。冗談じゃない、あんな男と一緒にするな! って。でも風貌とある種のインパクトが似ている。ってもうさんざん言われているみたいだが。

 

 それにしても、テレビでみうらじゅんさんが出ていたら、いつもその発言に注目する。どんな面白いこと、「正しいこと」を言うか。でもMCの東野幸治さんが、あまりみうらさんに振らない。それに知ったかぶりで半可通で。もっとみうらさんに発言させて。お願い。絵馬を見物?した話も面白かった。ある絵馬に、武道館でライブをやりたい、今年中にバンドを編成したい、とあって、みうらさんいわく「後先逆だろ!」。こんな話、最高!

  


カナタイプの文学

 昔、ある雑誌に大岡信氏が「ある『変な考え』について」という文章を書いていた。シュールレアリスムの詩人、瀧口修造氏は晩年、ジャーナリズムに距離を置き、知人たちに私的なメッセージ、自家製のオリーブの瓶詰などを送っていた。それは「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させる」という、瀧口氏いうところの「変な考え」によるものだった。大岡氏はこう書いている。

 

 ----たしかにこれは「変な考え」である。しかし、ではその対極をなす「流通価値のあるもの」の世界が変なものではないかといえば、これも恐らく、性質は全く別だが、変なものである点では変りがない。数年前には不動盤石のごとく思われていたものが、ある日気がついてみれば、実に頼りなく、やつれ果てた価値下落のさまを見せて落日を浴びているという例は、実業の世界はもちろん、虚業の世界でもーーたとえば文学の世界をこれに含むことができるとすれば、文学界においてもーー決して少なくない。----

 

 例として大岡氏は「カナタイプ」のことを挙げる。その昔、先進的といわれる企業が社内文書、ダイレクトメールなどをカナタイプでつくった。漢字は非能率的、非効率的という理由からだった。この文章を大岡氏が書いた時点ではワードプロセッサーが急激に普及していた。

 

 ----ここまで機械化が進んでくると、カナタイプ時代は一つの過渡期にすぎず、現在の状態もまた新たな次の段階への過渡期にすぎないことがはっきり感じられる。漢字よりカナの方が能率社会に適合しているという考え方そのものが、今では色褪せたものになってしまった。つまり、流通価値を失ってしまった。----

 

 大岡氏はそのかわり「子供たちは漢字の読みはできても書きはできなくなっていくだろう、書きの代わりに、打ちに長じた作家たちが相次いで誕生する日もそんなに遠いことではあるまい」という。「その結果、ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」とも。文章の最後は次のように締めくくられている。

 

 ----瀧口修造がみずから「変な考え」と自覚していた、「流通価値のないものを、ある内的要請だけによって流通させるという不逞な考え」も、そういう状況が到来した時、まったく別の文脈において、「変な考え」としての深い意味を持ってくるような気がする。少なくとも次のことは確かだろう。

 今日の流通価値が明日の流通価値でもあることを保証するものは、今日の流通価値の中にはない。また明日の流通価値を生み出す者たちは、明日必ず出現するが、彼らが今日どこにいるのかを言うことは、至難の業である。----

 

 鋭い洞察であり、なるほどと共感する。カナタイプも企業だけでなく銀行、団体その他かなり普及しただろうが、安易な「効率」「能率」は歴史の一瞬に消し飛んでしまった。ワードプロセッサーという言葉すら今は死語だ。

 

 ただし大岡氏の予測で「ある人独自な思考の内容やスタイルの価値が、かえってますます純粋に問われるようになってくるだろう」の部分は、どうかな?と思う。楽観的、希望的観測じゃないだろうか。大岡氏のいうような状況である「べき」だし、そうなるはずだが、現状はどうか。今の文学の劣化、パワーのなさは。カナタイプと同じ運命をたどらないと誰がいえるだろう。


真夜中の大統領

真夜中のカーボーイ

 

 トランプ米国大統領就任の一連の報道を見て、まるで西部劇のカウボーイだなと思った。最初はジョン・ウェインなどの時代を思い出したが、そのうち「いや、違うな」と考え直した。これは「真夜中のカーボーイ」だな、と。

 

 映画「真夜中のカーボーイ」は1969年公開。主演はジョン・ヴォイト(アンジェリーナ・ジョリーの父)、ダスティ・ホフマン。いわゆるニューシネマの代表作の一つで、アカデミー作品賞などを受賞した。ちなみに正式な邦題が「カーボーイ」なのでそれに従っているが、英語を日本語にする場合、どう考えても「カウボーイ」でしょ? と言いたい。

 

 小説はもちろん、映画、漫画などのフィクションの世界が現実になってきたなと思ったのは、もうかなり以前のことだが、トランプ大統領については、ついにここまで来たかというのが率直な印象。悪い冗談というか。

 

 彼の掲げる「偉大なアメリカ」について、もちろんコメンテーターたちは時代錯誤と言ってるが、1950年代とかもっと前、30年代とかよりも、少なくとも1960〜70年代より前という意味じゃないか。ニューシネマ、ニューロック、ヒッピーにフラワーチルドレン、フォークソングなど価値観の転換の時代、動乱の時代。やがて米国はベトナム戦争を終結し、中国に接近する。

 

 今朝の新聞で見たが、トランプ大統領の外交政策にヘンリー・キッシンジャー氏が協力するらしい。中国接近の提唱者・立役者だったが、バランス感覚から今度はロシア接近政策をとるらしいという。すんなりこの政権が政策を進められるかはわからないが、「真夜中のカーボーイ」からキッシンジャーの時代を思い出したのは確か。

 

 あのカウボーイなのだ、トランプ氏は。偉大なアメリカの幻想がニューヨークの町で崩れ、最後は温暖なフロリダにバスで行き、ダスティ・ホフマン演じるホームレス&男色の女衒は息絶える。あのカウボーイの約半世紀後の姿なのだ。そう思えば納得はいく。とりあえずは。でも……。


もぐらたたきの時代

樹雪

 

 1994年(平成6年)11月20 日に82歳で亡くなった福田恒存氏を追悼し、月刊「文藝春秋」95年新年特別号は福田氏の未公開の論考(講演録)を掲載している。講演は1970年5月に行われたものでタイトルは「塹壕の時代」。現代現在の状況にあまりに通じているので驚いた。「民主主義」とはそんなにいいものじゃないという言葉から氏の話が始まる。

 

 先の戦争は政府、軍部が押しつけ国民が犠牲になったという戦後の教育に福田氏は否を唱え、氏自らが戦時中一般国民から受けた圧力について語る。在郷軍人らによって訓練が行われ、町の人たちがいじめる。国民が戦争に熱狂していたというのだ。

 

 明治以来の、御上にすべてお任せの体質が戦争を招いたと氏は断言する。そして進駐軍を解放軍と呼び、マッカーサーにひれ伏す姿に氏は嫌悪を感じる。戦争も敗戦も占領も、強制的押しつけでなく、日本人が「民主的」に選び取ったものだとする。そして経済が成長してくると、日本はえらいんだとなることに強い疑問、反感を抱く。

 

 保守反動といわれた福田氏が、この頃(70年)になると「敵がいなくなった」という。学生運動も下火になった時代だ。「右も左も保守も革新もなるたけ目立たなくなって、ちょうど、塹壕時代に入ってしまった」という。

 

 ----困るというのは、問題の所在というものがなくなってきた。人間の考え方が明確でなくなってきた。個人個人の考え方が明確でなくなってきた。元来、私は日本人というものはそうであったと思いますが、この戦後のゴタゴタの二十年間がすぎて、ようやくそういうものがはっきりしてきた。そういう日本人の思考形態あるいは個人主義の未熟というものが明確になってきた。それが民主主義ということばによって実は補強され支えられている。

 

 ----主権在民といっても……代議員を選んでその代議員が議会で多数決で決めて政策を推進するので、自分にとって都合の悪いことも行われます。……民主主義は誰をも満足させない制度なのです。……ただ長い時間をかけてみた場合、個人の一生をとってみた場合に、不満と満足とが差し引きプラスマイナスゼロになるくらいに利害が配分されるのが一番望ましいのではないかというので、民主主義を採用しただけなのです。決してこれは理想的なことが行われる制度ではない。ところが戦後、民主主義が理想的のように錯覚を抱きましたけれども、今ではこの錯覚が破れつつあって、まあこんなもんだというふうにみんな思うようになってきたと思います。----

 

 最後のところはちょっと疑問。ま、何周か巡り巡ってかもしれないが、日本では今も民主主義を理想とする考え方がある。あっ、口だけで腹の中は違うのか。そういうことか。で、今の米国や世界の状況は確かに錯覚が破れつつある、その表れだ。

 

 この後福田氏は文化について言う。T・S・エリオットの「文化とは生き方」という言葉を紹介し、その程度に使うのが一番いいという。

 

 ----唐招提寺の建物だとか、宗達の絵だとか、そういうものが文化だと思っている人がいます。片や文化七輪とか文化クリーニング、文化住宅だとかのように便利なもの、西洋から来た便利なもの、あるいは西洋化した便利なもの、というように文化を考えている。つまり日本の過去の古典の中の、伝統の最高級の芸術作品か、あるいは近代化以降のハイカラなものを文化と名付けています。文化人などというのは後者の方ですね。

 本当の文化とはそのいずれでもない。生き方のスタイル、それが文化なのです。そういうものを戦後の日本は全く無視している。無視しただけならまだいいのですが、むしろ破壊したといっていいと思います。----

 

 最後に福田氏は「そういうものがなくなってきた上に個人がぐうたらになってきたということが重なってくると、日本民族というのは、国民としても民族としても滅びへの一途をたどるだけではないかというふうに思います」という。講演が行われた半年ぐらい後に、三島由紀夫氏は割腹し、介錯を受けて首をゴロンと床に落としたわけだが。

 

 これは新聞やテレビに多いのだが、古典的な文化財などには批判的な目は向けない。権威に盲従といっていい。ここにどこか胡散臭さを感じる。逃げというか。一方で欧米や世界の新しいもの、日本でも最新の風俗(変な意味でなく)は持ち上げる。軽薄なものであっても。それがわからないのは古い、ダサいというふうに。「洒落よ、洒落」の世界。それがイジメにも通じているのに。

 

 古典と最新の中間がない文化。日本だけではないと思うが、日本はその最先端を走っている。中間の文化、それは何か、どこにあるのか。福田氏、エリオット氏は「生き方」というが、どうなのか。

 

 あらためて考えると、保守反動といわれた福田氏の思想の何と革新的なことか。古い雑誌をとっておいてよかった。


言葉がつくる視覚

雪紅橋

 

 「諸君」という雑誌の1989年1月号にクロード・レヴィ=ストロース氏と江藤淳氏の対談が載っている。タイトルは「神話と歴史のあいだ」。その中で、視覚芸術と文学における日本と西洋の違いについて語っているところが興味深かった。

 

 江藤氏は芸術空間の遠近法と非遠近法、左右対称と非左右対称についてなどパリで講演して、その内容はレヴィ=ストロース氏も把握していた。浮世絵など非遠近法、非左右対称が日本だ。

 

 浮世絵が西洋のゴッホや印象派の画家に影響を与えたことは知られているが、レヴィ=ストロース氏は「誤解がある」という。

 

 ----印象派の画家たちをまずとらえたのは日本画のエキゾチックな部分でした。都会的な場面の構図と軽やかな色彩、光線の用い方、というような要素に興味を示したのです。ところがそのために素描の絵画に対する優位という根本的な事実がまったく見逃されてしまいました。----

 

 そして普通いわれる時期より早く、フランスの画家アングルは1820年代には日本の絵画を知り、「デッサンこそ一番大切で、彩色は二の次」と考えていたという。また日本の画家にとって絵を描くという行為は何日も何カ月も何年もの「何を描くべきかという深い思索のあとに来るもの」といい、印象派の画家たちは「日本の画家はすばやく自然に描く」と誤解していたという。

 

 その前段でレヴィ=ストロース氏は文学において、ヨーロッパ言語と日本語の決定的な異質さがあり、翻訳の難しさについて指摘していた。

 

 ----私の考えでは、日本語の構造に関する西欧人の誤解と、日本絵画の真に目指しているものについての西欧人の誤解は、ともに同じ誤解なのです。----

 

 続く二人の会話----

 

 レヴィ=ストロース 私は、日本の画家たちは大変に理知的だと思います。

 

 江藤 おっしゃる通りです。非常に理知的な一面があります。しかしその反面、一見まことに飾り気がなく、のびのびとしているかのように見えもします。

 

 レヴィ=ストロース ああ、だからこそ印象派の画家たちは思い違いをしたのですよ。外見は実体とは違いますからね。----

 

 この後、江藤氏はその十数年前、英国のパブで英国の文化人類学者と交わした会話を披露する。当時江藤氏が考えていた問題は、視覚芸術と文学との相互交渉の問題、東西文化の相互作用の問題だったという。

 

 ----私は、視覚芸術のほうが文学作品よりもずっとスムーズに異文化間に意思を通じあえるという仮説を提案しました。私は当時、このことはほとんど自明の理だと思っておりました。ところが、そのイギリス人学者から反対されてしまったのです。「とんでもない。視覚芸術だって文学作品と同じ程度に誤解されやすい」と。----

 

 江藤氏はレヴィ=ストロース氏の話を聞いて、その夜のことを思い出したという。

 さてそこで、この後江藤氏が話したことが、気になっているのだ。江藤氏は「視覚芸術にも、それ独自の言語がある」という。

 

 ----しかし、文学作品の場合は、何よりもまず第一に、言語によるコミュニケーションによって律せられています。……先生(レヴィ=ストロース氏)が著作の中で一貫して展開なさっている基本的論点の一つは、つまり人間による表現の言語的分野と、非言語的分野の間の基本的関係という点だと思います。しかし非言語的表現に直面した場合といえども、そこから感じ取ったことをあくまで言語的道具を通じて解釈しなければならない以上、やはり人間は言語によって律せられているということになるのだろうと思います。----

 

 う〜ん。江藤氏は非言語的表現の「解釈」について、やはり言語、ということを言ってるが、すでにある非言語的表現じゃなく、表現の進行形つまりつくってる最中もしくはその前段の認識ではどうなのか。

 

 ここで、想像した。普段何気なく見ている風景。それも言語が見方、見え方に影響しているのか。日本語が、あるいは地方の人なら方言が。視覚芸術というより視覚にすでに言語が入り込んでいるのか。恐らく入り込んでいるのだと思う。

 

 そして文学と視覚芸術の相互交渉の問題。突き詰めれば言葉と視覚の問題。ここに今一番興味があります。現代の文化の、何か秘密を解く鍵がありそうな気がします。今、空前絶後の大量写真消費社会を迎えているが、その意味あるいは無意味は何、何故なのか。インスタグラムとはよくいったもんだ。


たった一つの点

 再び、小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」から。

 

 ----「……天命があるのかないのかなど知らぬ。ただわかっているのは、天も地も動く……ということだけだ」

 「地も? 天を動かすのは、天の理(ことわり)だ。では何が地を動かすのだ?」

 「天の理があるのだから、地にも理があるのだろう」

 

 ----晴明は、

 「天も地も動く」

 そうつぶやいた瞬間、腹の底からふつふつと笑いが込みあげてくるのを感じた。……

 地が動くならば天も動く。……未来は定まっていない。

 気が抜けるほど簡単なことではないか。

 

 ----大きなパターンは確かにある。

 歴史に深く縫いこまれたそれを変えるのは容易ではない。……

 けれど、たった一つの点によってパターン全体が意味するものは変わりうるんだ。----

 

 最近ぼんやり考えていたことを、雲を払うように、はっきりさせてくれた。これこそ歴史、歴史と人間、人間の「理」ではないか。気が抜けるほど簡単なこと。大きなパターンはある。でもたった一つの点が、その意味を変える。未来は定まっていない。

 

 


「不自由」という言葉はなかった

 正月早々、読んだ本に出てきた数行がいまだに頭から離れない。小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」の一節。

 

 ----たとえば、「自由」という言葉。この言葉の意味は平安時代とその千年後では大きく変わってしまっている。千年後の自分はそれが、「FREE」という外国の言葉にあてて「何ものにも制限されずおのれの意思に従って行動する」ことであり、むしろ望ましい姿として、使われるということを体感として知っている。だが、平安にいる自分にとっては、自由とは「規律規範に従わず思うままわがままに振舞うさま」であると感じられる。もう一人の自分がいる世界で使われる「不自由」という言葉は、平安の世にはない。自由でない状態が、本来のあるべき姿、だからだ。

 縛られてなどいない。これがあるがままの姿なのだ。----

 

 安倍晴明が平安時代と現代にいて、行き来しながら考え行動するという小説。その中で晴明が考えたことだ。

 

 「自由」という日本語、訳語は西洋の「LIBERTY」を福沢諭吉があてたらしい。古来中国、日本では自由とは「わがまま放蕩」の意味だったという。

 

 「自由」という表記、漢字の問題と、哲学その他での概念の問題と二つあると思われるが、いずれにしろ上記の文章に接した時、かなりの衝撃を受けた。

 

 自由とは他の自由を阻害することでもあるのか否か。

 

 実は上記の文章による衝撃は、少なからず慰めと癒しを与えてくれた。自由とは絶対的なものではないという点において。

 

 でも……、と考え続ける毎日だ。


ちあきなおみはすごい!

 昨夜偶然つけたBSジャパンで、ちあきなおみさんの特集をやっていた。特に後半の「ねえ、あんた」7分間ノーカットバージョンを見聞きできたのはラッキーだった(録画保存しました)。

 

 すごいね、この歌唱力、演技力。歌の一人称の女性に入ってしまっている。そして最後の方で、これも名曲「紅い花」。これまでCDからの音源で聴いていたけど、一度歌っているところの映像を見たかった。どんな表情、口の開け方で歌ってるのか。念願果たせました。BSジャパンに感謝します。

 

 あらためて、ちあきなおみさんは日本いや世界でも一、二を争う歌手だと思う。テレビに出ていた最後の頃の番組で、ちあきさんがポルトガルに渡り、ファドに挑戦するというのをやっていたのを想い出した。本場以上でした。

 

 歌謡曲、演歌、流行歌、大衆音楽、いろんな言い方はあるだろうけど、これが芸術でなくて何? と思う。本物の歌はサビにいく前、冒頭でも涙が出そうになる(出ました)。それって何だろう。声の響きだけで震えそうになる。

 

 ちあきさんが歌った三橋美智也の「リンゴ村から」もよかった。女性でちあきなおみ、男性で三橋美智也が日本の歌手の双璧だと思う。やたらビブラート使うそこら辺の歌手とは段違いだ。声、歌という人間楽器。ヴァイオリンの名器よりすばらしい。


現実未満の夢

 最近の若い、あるいは比較的若い世代の作家による小説、漫画、アニメ、映画などの作品で、時間や時空を超えた、あるいは生まれ変わりなどを題材、シチュエーションにしたものが多い気がする。

 

 すべてではないが、一部作品に接してみて思った。どうも迫力がない。というか腰が引けている。現実と戦ったり、超えたりするのでなく、単なる現実逃避じゃないの?って具合。男の方が恋愛や結婚で泣いたり、女性にアタックできない昨今の状況とパラレルのような感じだ。

 

 今の50〜60代の作家あたりまでは、この種の作品に取り組むエネルギーが違った。現実から逃げているのでなく、まさしく「現実」と戦い、超える必死の試み、格闘があった。この場合の現実とは生活とか社会とかじゃなく。世界、現世、宇宙だ。

 

 「哲学的」とか「SF的」とかの書評の言葉にひかれて、ある本を読んだけれど、主人公やストーリー全体がただの意気地なしだった。最大限の到達点が世の中の現実という未成熟な物語。だまされた。金返せ。

 

 ブルーハーツの歌のように、シュールな夢を見たい。


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