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  • 2017.07.02 Sunday
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もぐらたたきの時代

樹雪

 

 1994年(平成6年)11月20 日に82歳で亡くなった福田恒存氏を追悼し、月刊「文藝春秋」95年新年特別号は福田氏の未公開の論考(講演録)を掲載している。講演は1970年5月に行われたものでタイトルは「塹壕の時代」。現代現在の状況にあまりに通じているので驚いた。「民主主義」とはそんなにいいものじゃないという言葉から氏の話が始まる。

 

 先の戦争は政府、軍部が押しつけ国民が犠牲になったという戦後の教育に福田氏は否を唱え、氏自らが戦時中一般国民から受けた圧力について語る。在郷軍人らによって訓練が行われ、町の人たちがいじめる。国民が戦争に熱狂していたというのだ。

 

 明治以来の、御上にすべてお任せの体質が戦争を招いたと氏は断言する。そして進駐軍を解放軍と呼び、マッカーサーにひれ伏す姿に氏は嫌悪を感じる。戦争も敗戦も占領も、強制的押しつけでなく、日本人が「民主的」に選び取ったものだとする。そして経済が成長してくると、日本はえらいんだとなることに強い疑問、反感を抱く。

 

 保守反動といわれた福田氏が、この頃(70年)になると「敵がいなくなった」という。学生運動も下火になった時代だ。「右も左も保守も革新もなるたけ目立たなくなって、ちょうど、塹壕時代に入ってしまった」という。

 

 ----困るというのは、問題の所在というものがなくなってきた。人間の考え方が明確でなくなってきた。個人個人の考え方が明確でなくなってきた。元来、私は日本人というものはそうであったと思いますが、この戦後のゴタゴタの二十年間がすぎて、ようやくそういうものがはっきりしてきた。そういう日本人の思考形態あるいは個人主義の未熟というものが明確になってきた。それが民主主義ということばによって実は補強され支えられている。

 

 ----主権在民といっても……代議員を選んでその代議員が議会で多数決で決めて政策を推進するので、自分にとって都合の悪いことも行われます。……民主主義は誰をも満足させない制度なのです。……ただ長い時間をかけてみた場合、個人の一生をとってみた場合に、不満と満足とが差し引きプラスマイナスゼロになるくらいに利害が配分されるのが一番望ましいのではないかというので、民主主義を採用しただけなのです。決してこれは理想的なことが行われる制度ではない。ところが戦後、民主主義が理想的のように錯覚を抱きましたけれども、今ではこの錯覚が破れつつあって、まあこんなもんだというふうにみんな思うようになってきたと思います。----

 

 最後のところはちょっと疑問。ま、何周か巡り巡ってかもしれないが、日本では今も民主主義を理想とする考え方がある。あっ、口だけで腹の中は違うのか。そういうことか。で、今の米国や世界の状況は確かに錯覚が破れつつある、その表れだ。

 

 この後福田氏は文化について言う。T・S・エリオットの「文化とは生き方」という言葉を紹介し、その程度に使うのが一番いいという。

 

 ----唐招提寺の建物だとか、宗達の絵だとか、そういうものが文化だと思っている人がいます。片や文化七輪とか文化クリーニング、文化住宅だとかのように便利なもの、西洋から来た便利なもの、あるいは西洋化した便利なもの、というように文化を考えている。つまり日本の過去の古典の中の、伝統の最高級の芸術作品か、あるいは近代化以降のハイカラなものを文化と名付けています。文化人などというのは後者の方ですね。

 本当の文化とはそのいずれでもない。生き方のスタイル、それが文化なのです。そういうものを戦後の日本は全く無視している。無視しただけならまだいいのですが、むしろ破壊したといっていいと思います。----

 

 最後に福田氏は「そういうものがなくなってきた上に個人がぐうたらになってきたということが重なってくると、日本民族というのは、国民としても民族としても滅びへの一途をたどるだけではないかというふうに思います」という。講演が行われた半年ぐらい後に、三島由紀夫氏は割腹し、介錯を受けて首をゴロンと床に落としたわけだが。

 

 これは新聞やテレビに多いのだが、古典的な文化財などには批判的な目は向けない。権威に盲従といっていい。ここにどこか胡散臭さを感じる。逃げというか。一方で欧米や世界の新しいもの、日本でも最新の風俗(変な意味でなく)は持ち上げる。軽薄なものであっても。それがわからないのは古い、ダサいというふうに。「洒落よ、洒落」の世界。それがイジメにも通じているのに。

 

 古典と最新の中間がない文化。日本だけではないと思うが、日本はその最先端を走っている。中間の文化、それは何か、どこにあるのか。福田氏、エリオット氏は「生き方」というが、どうなのか。

 

 あらためて考えると、保守反動といわれた福田氏の思想の何と革新的なことか。古い雑誌をとっておいてよかった。


言葉がつくる視覚

雪紅橋

 

 「諸君」という雑誌の1989年1月号にクロード・レヴィ=ストロース氏と江藤淳氏の対談が載っている。タイトルは「神話と歴史のあいだ」。その中で、視覚芸術と文学における日本と西洋の違いについて語っているところが興味深かった。

 

 江藤氏は芸術空間の遠近法と非遠近法、左右対称と非左右対称についてなどパリで講演して、その内容はレヴィ=ストロース氏も把握していた。浮世絵など非遠近法、非左右対称が日本だ。

 

 浮世絵が西洋のゴッホや印象派の画家に影響を与えたことは知られているが、レヴィ=ストロース氏は「誤解がある」という。

 

 ----印象派の画家たちをまずとらえたのは日本画のエキゾチックな部分でした。都会的な場面の構図と軽やかな色彩、光線の用い方、というような要素に興味を示したのです。ところがそのために素描の絵画に対する優位という根本的な事実がまったく見逃されてしまいました。----

 

 そして普通いわれる時期より早く、フランスの画家アングルは1820年代には日本の絵画を知り、「デッサンこそ一番大切で、彩色は二の次」と考えていたという。また日本の画家にとって絵を描くという行為は何日も何カ月も何年もの「何を描くべきかという深い思索のあとに来るもの」といい、印象派の画家たちは「日本の画家はすばやく自然に描く」と誤解していたという。

 

 その前段でレヴィ=ストロース氏は文学において、ヨーロッパ言語と日本語の決定的な異質さがあり、翻訳の難しさについて指摘していた。

 

 ----私の考えでは、日本語の構造に関する西欧人の誤解と、日本絵画の真に目指しているものについての西欧人の誤解は、ともに同じ誤解なのです。----

 

 続く二人の会話----

 

 レヴィ=ストロース 私は、日本の画家たちは大変に理知的だと思います。

 

 江藤 おっしゃる通りです。非常に理知的な一面があります。しかしその反面、一見まことに飾り気がなく、のびのびとしているかのように見えもします。

 

 レヴィ=ストロース ああ、だからこそ印象派の画家たちは思い違いをしたのですよ。外見は実体とは違いますからね。----

 

 この後、江藤氏はその十数年前、英国のパブで英国の文化人類学者と交わした会話を披露する。当時江藤氏が考えていた問題は、視覚芸術と文学との相互交渉の問題、東西文化の相互作用の問題だったという。

 

 ----私は、視覚芸術のほうが文学作品よりもずっとスムーズに異文化間に意思を通じあえるという仮説を提案しました。私は当時、このことはほとんど自明の理だと思っておりました。ところが、そのイギリス人学者から反対されてしまったのです。「とんでもない。視覚芸術だって文学作品と同じ程度に誤解されやすい」と。----

 

 江藤氏はレヴィ=ストロース氏の話を聞いて、その夜のことを思い出したという。

 さてそこで、この後江藤氏が話したことが、気になっているのだ。江藤氏は「視覚芸術にも、それ独自の言語がある」という。

 

 ----しかし、文学作品の場合は、何よりもまず第一に、言語によるコミュニケーションによって律せられています。……先生(レヴィ=ストロース氏)が著作の中で一貫して展開なさっている基本的論点の一つは、つまり人間による表現の言語的分野と、非言語的分野の間の基本的関係という点だと思います。しかし非言語的表現に直面した場合といえども、そこから感じ取ったことをあくまで言語的道具を通じて解釈しなければならない以上、やはり人間は言語によって律せられているということになるのだろうと思います。----

 

 う〜ん。江藤氏は非言語的表現の「解釈」について、やはり言語、ということを言ってるが、すでにある非言語的表現じゃなく、表現の進行形つまりつくってる最中もしくはその前段の認識ではどうなのか。

 

 ここで、想像した。普段何気なく見ている風景。それも言語が見方、見え方に影響しているのか。日本語が、あるいは地方の人なら方言が。視覚芸術というより視覚にすでに言語が入り込んでいるのか。恐らく入り込んでいるのだと思う。

 

 そして文学と視覚芸術の相互交渉の問題。突き詰めれば言葉と視覚の問題。ここに今一番興味があります。現代の文化の、何か秘密を解く鍵がありそうな気がします。今、空前絶後の大量写真消費社会を迎えているが、その意味あるいは無意味は何、何故なのか。インスタグラムとはよくいったもんだ。


たった一つの点

 再び、小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」から。

 

 ----「……天命があるのかないのかなど知らぬ。ただわかっているのは、天も地も動く……ということだけだ」

 「地も? 天を動かすのは、天の理(ことわり)だ。では何が地を動かすのだ?」

 「天の理があるのだから、地にも理があるのだろう」

 

 ----晴明は、

 「天も地も動く」

 そうつぶやいた瞬間、腹の底からふつふつと笑いが込みあげてくるのを感じた。……

 地が動くならば天も動く。……未来は定まっていない。

 気が抜けるほど簡単なことではないか。

 

 ----大きなパターンは確かにある。

 歴史に深く縫いこまれたそれを変えるのは容易ではない。……

 けれど、たった一つの点によってパターン全体が意味するものは変わりうるんだ。----

 

 最近ぼんやり考えていたことを、雲を払うように、はっきりさせてくれた。これこそ歴史、歴史と人間、人間の「理」ではないか。気が抜けるほど簡単なこと。大きなパターンはある。でもたった一つの点が、その意味を変える。未来は定まっていない。

 

 


「不自由」という言葉はなかった

 正月早々、読んだ本に出てきた数行がいまだに頭から離れない。小松左京/高橋桐矢「安倍晴明<天人相関の巻>」の一節。

 

 ----たとえば、「自由」という言葉。この言葉の意味は平安時代とその千年後では大きく変わってしまっている。千年後の自分はそれが、「FREE」という外国の言葉にあてて「何ものにも制限されずおのれの意思に従って行動する」ことであり、むしろ望ましい姿として、使われるということを体感として知っている。だが、平安にいる自分にとっては、自由とは「規律規範に従わず思うままわがままに振舞うさま」であると感じられる。もう一人の自分がいる世界で使われる「不自由」という言葉は、平安の世にはない。自由でない状態が、本来のあるべき姿、だからだ。

 縛られてなどいない。これがあるがままの姿なのだ。----

 

 安倍晴明が平安時代と現代にいて、行き来しながら考え行動するという小説。その中で晴明が考えたことだ。

 

 「自由」という日本語、訳語は西洋の「LIBERTY」を福沢諭吉があてたらしい。古来中国、日本では自由とは「わがまま放蕩」の意味だったという。

 

 「自由」という表記、漢字の問題と、哲学その他での概念の問題と二つあると思われるが、いずれにしろ上記の文章に接した時、かなりの衝撃を受けた。

 

 自由とは他の自由を阻害することでもあるのか否か。

 

 実は上記の文章による衝撃は、少なからず慰めと癒しを与えてくれた。自由とは絶対的なものではないという点において。

 

 でも……、と考え続ける毎日だ。


ちあきなおみはすごい!

 昨夜偶然つけたBSジャパンで、ちあきなおみさんの特集をやっていた。特に後半の「ねえ、あんた」7分間ノーカットバージョンを見聞きできたのはラッキーだった(録画保存しました)。

 

 すごいね、この歌唱力、演技力。歌の一人称の女性に入ってしまっている。そして最後の方で、これも名曲「紅い花」。これまでCDからの音源で聴いていたけど、一度歌っているところの映像を見たかった。どんな表情、口の開け方で歌ってるのか。念願果たせました。BSジャパンに感謝します。

 

 あらためて、ちあきなおみさんは日本いや世界でも一、二を争う歌手だと思う。テレビに出ていた最後の頃の番組で、ちあきさんがポルトガルに渡り、ファドに挑戦するというのをやっていたのを想い出した。本場以上でした。

 

 歌謡曲、演歌、流行歌、大衆音楽、いろんな言い方はあるだろうけど、これが芸術でなくて何? と思う。本物の歌はサビにいく前、冒頭でも涙が出そうになる(出ました)。それって何だろう。声の響きだけで震えそうになる。

 

 ちあきさんが歌った三橋美智也の「リンゴ村から」もよかった。女性でちあきなおみ、男性で三橋美智也が日本の歌手の双璧だと思う。やたらビブラート使うそこら辺の歌手とは段違いだ。声、歌という人間楽器。ヴァイオリンの名器よりすばらしい。


現実未満の夢

 最近の若い、あるいは比較的若い世代の作家による小説、漫画、アニメ、映画などの作品で、時間や時空を超えた、あるいは生まれ変わりなどを題材、シチュエーションにしたものが多い気がする。

 

 すべてではないが、一部作品に接してみて思った。どうも迫力がない。というか腰が引けている。現実と戦ったり、超えたりするのでなく、単なる現実逃避じゃないの?って具合。男の方が恋愛や結婚で泣いたり、女性にアタックできない昨今の状況とパラレルのような感じだ。

 

 今の50〜60代の作家あたりまでは、この種の作品に取り組むエネルギーが違った。現実から逃げているのでなく、まさしく「現実」と戦い、超える必死の試み、格闘があった。この場合の現実とは生活とか社会とかじゃなく。世界、現世、宇宙だ。

 

 「哲学的」とか「SF的」とかの書評の言葉にひかれて、ある本を読んだけれど、主人公やストーリー全体がただの意気地なしだった。最大限の到達点が世の中の現実という未成熟な物語。だまされた。金返せ。

 

 ブルーハーツの歌のように、シュールな夢を見たい。


ゲゲゲの至福状態

雪の朝

 

 新聞に「水木しげる こころの旅」という連載があって、今まであまり気に留めなかったのだが、最終回のを読んだ。サブタイトルが「人生に満足するために」で、見出しは「いまは『至福の状態』」。

 

 この記事はノンフィクション作家の大泉実成氏が書いているのだが、冒頭で祖霊信仰と水木さんについて紹介している。水木さんが育った境港の沖にある「隠岐の島」の「武良祭り」。水木さんの本名も武良で、この祭りを自分の祖先の祭りと考えていたようだという。水木さんの言葉。「祭りでは、祖先と話しているような気分になる。祖先が、幸せになる感じです」。

 

 で、大泉氏はこう書いている。

 

 ----水木は、80代から「神のステージに入った」と言っていました。それを聞いた僕は、初めは水木が思い上がっているのかと考えました。

 しかしじっくり考え直してみると、水木が自分もまた、生きながら祖霊化しているように感じているのではないかと気付いたのです。だからこそ「祖先と話して」みて、祖先の「幸せ」をともに感じることができるのです。----

 

 続いて水木さんの言葉を紹介している。

 

 ----大げさにいうと、いまは「至福の状態」にある。至福といっても、若者みたいにゲラゲラ笑うというわけではない。じっとして「満足感」にひたっているわけだ。……あとは「死の世界」にまねかれるわけだが、日々、恐怖感が去り、平気で待てるようになる----

 

 また遺作となった漫画「わたしの日々」にある言葉。

 

 ----人生になんらかの絶対的な価値を求めるのは、心が弱いからです。

 ----瞬時に消えゆく屁のようなものに価値を見いだし、満足するべきなんです。

 

 上記の言葉に続けて、最後に大泉氏はこう書いている。

 

 ----この考え方はソシュール以降の現代哲学の主流となった「関係主義」と深く関わっています。

水木の死後、次女の悦子さんは、父は「死んでもいつもそばにいる」ように感じると言っていたそうです。

水木の人柄や作品に触れたすべての人たちを、水木は祖霊としてあたたかく見守ってくれている、僕にはそのように思われてならないのです。----

 

 ある意味、悟りのような境地。わかる気がする。わかるとは言えないのだけれど。まだまだ修行が足りなくて、煩悩ばかり。でもおおらかで前向きで健全に歳を取っていった水木さんならそうなのだろうと信じることはできる。「人生に絶対的な価値を求めるのは心が弱いから」という言葉にはけっこう衝撃を受けた。太宰治や山頭火とはえらい違いだ。

 

 水木しげるさんは近年、NHKの「ゲゲゲの女房」で再クローズアップされたけど、あのドラマはあまり好きじゃなかった。ヒロインはともかく、他の主要キャスティングがだめだ。あれじゃ水木さんがかわいそうだ。

 

 なので水木さんにもあまり関心を払わなかったが、この新聞の記事を読んであらためてすごいなと思った次第です。

 

 


スリランカの3人の王子

神木

 

 ある資料を探していて、たまたま古いソフトに目が留まった。そのドキュメントに「セレンディピティ」という言葉があり、しばし本来の作業の手を止めて、読んだ。

 

 「セレンディピティ」という言葉は、「オトラント城奇譚」で知られる英国のホレス・ウォルポールの造語で「偶然に、幸運な思わぬ発見をすること。または思わぬ発見をする才能」とあった。まさにセレンディピティでセレンディピティを発見したわけだ。
 

 スリランカ、ちょっと前はセイロンの国の旧称というかアラビア語が「セレンディップ」。その3人の王子が探し物発見の名人で四六時中探し物をしている。だが目当てのものではなく別の珍しい、貴重なものを見つけてしまう、という話がある。ウォルポールはそこから取った。

 

 ソフト解説書というか宣伝文では過去の例を挙げている。考古学上の世紀の大発見でエジプト古代文明解明の鍵となった「ロゼッタ・ストーン」、アブラハム・リンカーンが貧しい少年時代、見知らぬ哀れな男にほだされて古い樽を1ドルで買った、開けてみたら「法律釈義」一式が入っていて、読みふけりやがて法律家をめざし、あげくは米国大統領にまで昇り詰めた……など。

 

 また身近な例も挙げている。例えば、初対面の人と会話を交わすうち共通の知人が何人も出てきて驚く。事典などをめくっていると突然目に飛び込んでくる言葉や写真にひかれ、本来の目的も忘れ見入ったりする。予備知識もなく期待もなく見た映画が思い出に残る作品になる、など。

 

 で、そうしたことを信じない人たちについて述べた言葉が、興味深かった。否定的発言や、批判や、皮肉や、辛口の発言が知的に見えると錯覚している人が多い世の中を誰が望んでいただろう? というのだ。その通りだと思う。そういう人たちの代表がテレビのキャスターやコメンテーターでしょうね。

 

 最近テレビを見るっていうとBSばっかり。地上波で見るのはテレ東ぐらい。仕方なく他局の番組を見るときはCMの間、消音にしている。NHKも番宣が多すぎて。

 

 最近はキャスターやコメンテーターばかりでなく、ニュースの現場の記者すら意見や批判を言う。ま、自分の真の意見というのじゃないけど、局の方針に沿った言動だけど。「@@の狙いがあるものとみられます」「批判(反発)は必至です」とか。朝日じゃなくとも、一つの(偏った)見方考え方からとらえるのは、それが簡単だからだ。仕事をしていないのをごまかしている。誰もどこも報道しなかったような大事な事実を見つけて来い、と言いたい。それが仕事でしょう? タブレット見ながらありきたりなレポートをして、しかもかんだりとちったりして。

 

 おっと脱線してしまった。本来の作業が遅れてしまった。でも「セレンディピティ」という寄り道も楽しい。


思考の公務員ばっかり

八甲田晴天

 

 ドゥルーズ・ガタリの「千のプラトー」の完訳が初めて出たころ、鷲田清一氏が94年に新聞に書いた書評は、書評自体がエキサイティングだった。リゾーム(地下茎)などの新しい概念について

 

 ----それらは、基礎や中心や深層からの距離でもって階層的に、あるいは系譜的に語られる秩序のモデルのまさに反対物である。秩序がこのように樹木や根のイメージで語られるとき、この秩序に反するものは混乱や混沌として規定されるしかないが、著者たちは右のような概念群でもって、地下茎のイメージで語られるような、もう一つ別の秩序(というよりはむしろ非秩序)とその運動のかたちを取り出したのである。----

 

 ----思考の概念を管理・統制する「思考の公務員」になることよりも、時代の関節を組み換えることをめざすこの著作が孕んでいるさまざまの問題は「ポストモダン思想のマニュアル」などといったレッテルを貼ることで回避されてはならない。現在の思想の論争に哲学の研究者がほとんど加わらず、小説や詩の現在について国文学者がほとんど口を挟まず、アートの現在を美術史研究者がめったに批評しないという、知のアンバランスがひどくめだつこの国で求められているのは、思考の専門家を作りだすことで人びとに「考えることをやめさせる」本ではなくて、考えることを始めさせる本だからだ。----

 

 ----リゾーム的な思考とはずいぶん隔たった場所にいた「超越」の哲学者K・ヤスパースもまた、哲学についてこう述べていた。「哲学者たることは、すべての時代を通じて同じかたちであるのではない。そうではなくて、それぞれの時代に対して根源的に新たなるものでなければならない」、と。そしていま、ドゥルーズとガタリがそういう挑発をしている。----

 

 よくいったもんだ「思考の公務員」とは。ホント、あらゆるジャンルで「公務員」ばっかりな日本。それはさておき(置きたくないのだけれど)哲学者の、今の時代の「新たなるかたち」って何だろう、どんなだろう。

 

 今の若い人たちに、根源的なものを求めているような人が少ないように思われる。あるいは直感で避けてるような。自分たちの頃は空海にでもフーコーにでも体当たりしたけどね。玉砕したけど。


瞬間の連鎖現象

夕景

 

 横尾忠則氏が「瞬間を生きる哲学〜<今ここ>に佇む技法」(古東哲明著)について書いた書評にこんな一節がある。

 

 ----本書は「いまこの瞬間のなかにすべて<人生の意味、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも>」存在することを明らかにしようとする。この瞬間は過去にも未来にも存在しない。たった「今ここに」しか存在しない。これが生きることの重要性であることを著者は全編を通して熱く語る。本書では芸術創造は「つまるところこの瞬間刹那の豊麗さに撃たれること」であり、そして「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験であると指摘する。近代の時間は垂直に流れるが創造的時間は過去、未来ともに現在に同化することで瞬間の連鎖現象が起き、「陶酔と至高」に至る。----

 

 「瞬間を生きることは<時間を超えて生きる>こと」であると同時に時間体験である。最近考えていることの一つの答というか示唆があるような気がした。過去はない。あるのは記憶だけ。未来はない。あるのは期待と不安だけ。今ここがすべてで、それを楽しめばいい。時間はない。でも、時間を超えて生きることと同時に時間体験である、というところに救われる気がした。

 

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